女嫌いと、灯梨の告白と、別れ

「…………」

 おれは家の勉強机の前に座りながら、机に頬杖をついていた。

 机の上に置いた昨日の景品袋をずっと見つめていた。

 もう外はとっくに夜だ。

 そうして考えるのは昼間、一年生の男子から言われた一言。


『あの……芝ちゃんの家は今日――引っ越し当日ですよ?』


「そんなこと一言も言ってなかったじゃないか……」

 いや、予兆はあった。

 あいつはアキラとしておれに接しているときも、言いよどんだり、なにか伝えようとしていた。昨日だって何度か視線を揺らしていることがあった。


『…………』

『あ、あっ……違うんです、ほこりが目に入っちゃって!』


『え!? それはちょっと無理っていうか……できれば作ってあげたいんですけど』

『もし、作ってきたら食べてくれました?』


 ひょっとしてあれはこのことを伝えようとしていたのだろうか。

 なんでも石原の家は一週間ほど前から引っ越しが決まっていたらしい。

 それも家の事情で遠い祖母の家に世話になるとかで、こちらには戻ってこないらしい。


『伊馬部春樹君が……転校することになりました』


 あのときの教師の声が頭の中でリフレインする。

「おまえも、どっか行っちゃうのか……アカリ」

 おれは思わず昔呼んでいたあいつの名前を、口にしてしまった。

 そのとき、ふと外の街灯が気になった。いまだに修理されていない切れかけの街灯がチカチカとカーテンの外から自己主張している。

「…………」

 ひとりで静かに考え込んでいるのに、鬱陶しいと思いながらおれはカーテンを勢いよく開けた。

「え……っ!」

 そこに見知った姿を見つけた。

 道路を挟んで夜の公園のベンチに、その姿を見つけた瞬間おれは景品袋を引っ掴んで階下に転がるように降りた。


「はあっ、はあっ……!」

「あ、センパイ……どうしたんですか、そんなに息切らして?」

「どうしたんですかじゃないだろ!」

「ぴゃ!?」

 おれはベンチに座っている石原を前に、思わず怒鳴っていた。

「いや、すまん。怒鳴ったりして悪かった……ちょっと落ち着かせてくれ」

 石原の隣にどっかり腰を下ろして、長いため息をついた。

 隣を見ると、相手は驚いた顔をしておれのことを見ていた。

「あの、センパイ近いですよ……?」

「いまさらだろ……そんなことより説明してもらおうか」

「な、なにをですか……?」

「おまえ、引っ越すんだってな」

「……っ!?」

 石原は昨日とは違って、また整えてない癖っ毛を揺らして目を見張った。

「クラスのやつに聞いたよ、芝ちゃん」

「ぴゃっ……そ、その名前まで聞いちゃったんですか」

「ああ……。なんで、『芝ちゃん』?」

「な、なんか芝イヌに似てるから……らしいです」

「ふっ……」

「いま笑いました……?」

 恥ずかしいのか、顔を真っ赤に染めてほっぺに癖っ毛をつかんだ両手を当てていた。

「で? いつこの町出ていくんだ?」

「明日の、朝五時です」

「ずいぶんと……急だな」

「ずっと、センパイには伝えなきゃと思って……でも、なかなか伝えられなくって……」

「いつから決まってたんだ?」

「ちょうど一週間前……センパイにぶつかったあの日です」

「ああ……」

 そういやそうだったな。

 こいつとのはあの日偶然ぶつかったからだ。

「あの日、前日に引っ越しのことを両親から聞いてショックで……センパイを探してたんです……」

「おれを?」

「そうです……わ、私遠くから見てるだけでいいって思ってたのに……もう会えないんだって思うと……センパイのこと、遠くからでさえ、もう見れないんだって思うと……!」

「ま、待ってくれ。落ち着いてくれ……」

 石原が感極まって、なにを言っているのかわからずに困惑する。遠くから見れないってどういうことだ。

「ごめんなさい、センパイにはわかりませんよね……急にそんなこと言われても……」

「それって……小学校の遠足の事件と関係ある?」

 石原がこちらを見た。

 その目は大きく見開かれていて、おれはそれを正面から両目で受け止めた。

「…………」

「…………」

 視線をそらすのは向こうのほうが先だった。

「思い出したん、ですか……センパイ」

「ああ、ギリギリだったけどな。アカリ」

「……ッ!?」

 もう一度アカリがこちらを見る。

 そして両目から涙をあふれさせて、一言絞り出すように言った。

「おッ、おにい、ちゃん……っ!」

「ごめんな。忘れてて」

 おれは精一杯の謝罪をこめて、静かに伝えた。

「いい……いいっ! お兄ちゃんが、覚えててくれただけで……思い出してくれただけでいいッ、よ!」

 そこではっと気づいたように、アカリは自分の言葉に戸惑った。

「あ……私お兄ちゃんって呼んじゃった」

「いいよ、べつに」

「いいの、お……お兄ちゃん……? おにいちゃん……お兄ちゃん!」

 アカリはまるでここ数年分の想いを込めるようにおれを呼ぶ。おれはそんな姿を見ながら微笑んで言った。

「ここでアカリの頭、なでられたらよかったんだけどな……」

「いいよ……お兄ちゃん、私の頭なんかなでたら倒れちゃうよ……女性恐怖症なんだからっ」

 アカリは泣き笑いの顔で、そんな生意気なことを言う。

「言ったなあ? おれは女性恐怖症じゃなくてだな……よし、アカリ頭出せ!」

「へ!? む、無理しないで! 知ってるよ、私……お兄ちゃんが女の人に触れられないの」

 どおりで。

 ときどきおれと接触しないように、離れようとしている節はあったが。

 アカリのやつ、あれはおれに気をつかって本当にわざと離れていたんだな。

「男の子のフリしてたのもずっとそれが原因だったし」

「どういうことだ?」

「だ、だってお兄ちゃん! もしですよ?」

「もし……?」

 石原はこちら向いて真剣な表情で説明してきた。

「もしも、お兄ちゃんがあのとき私だって……相手が女の子だって気づいたらどうなりました?」

「どうなったって……そんなの逃げたに――」

「あのとき……お兄ちゃん、私のこと抱きしめてたんですよ?」

「――――!?」

 思い出した。


『きゃっ!? なにするんですか!』

『立ってたら貧血で倒れるかもしれない。ベンチまで運んでやるから、暴れないでくれ』

『ああ、ちょ……!』


 この公園ではじめて会った夜。

 急に鼻血を出したこいつの身体を抱きあげたんだ。安全に寝かせられるだろう、ベンチまで移動させるために。

 でもあのときはこいつのことを男だと思っていた。女だとは思っていなかったから、平気だったんだ。

 おれは思い出すだけで、顔が真っ青になった。

「絶対お兄ちゃん気絶してたでしょ?」

「いや、思い出しただけで吐きそ……う……」

「ほらあ! 大丈夫ですか!?」

「ちょ、ちょっと待て……じゃあなにか? おまえ、おれが気絶すると思って……はあ、はあ…」

「その前に息整えて? 血の気が引いてますから……」

「くっ……はあ。はあ~~~」

 女に気を使われるとは。

 息を整えて、だいぶ気分もマシになったので聞いた。

「おれの気分が悪くなると思って、男のフリしてたってことか?」

「はい……」

 とっさによくそんな判断できたもんだ。

 そもそもどうして、アカリはそんな判断ができたんだろう。

「おれ、いまいちわからないんだけど」

「……?」

「おまえさ、先週廊下でぶつかるまではおれとは接点なかったわけじゃないか……小学四年生から、ずっと」

 そうだ。その間がずっとすっぽり抜けてるのに、どうしておれが女嫌いだとか女に触れるとショックで気絶するなんて知ってたんだろう。

「アカリ、おれが女に触れたら気分が悪くなるってなんで知ってた?」

「え? え?」

「おまえは知ってたはずだ。あの夜すでに、おれが女嫌いで女が苦手ってことに」

「あ…………」

 石原も気づいたらしい。

 こいつがとっさに男のフリをした夜。あの夜まだ石原はおれが女嫌いであることは知らなかったはずだ。おれの周りでそのことを知っているのはセキカンくらいのものだ。

 いったいどんな経緯でおれの秘密を知っていたんだ。

「あの、私の話を聞いても引きません?」

「そんなの話聞かないとわからないだろ」

「うう、約束してください……絶対引かないって! じゃないと私、死んじゃいます!」

「逆にその前置きに引くわ! 頼むからわかるように話してくれ、アカリ!」

「うぅぅ……じゃあ、はじめの話に戻るんですけど……あの日のことです」

「あの日って……」

「お兄ちゃんとぶつかったあの日です」

 あの、おれが石原とぶつかって倒れた日か。

「私、さっきも言ったんですけどお兄ちゃんのこと探してたんです」

「なんでおれなんか探してたんだ……」

「最後に、この学校で最後の思い出にってお兄ちゃんの顔だけでも見ようと思って……」

「ちょっと待て。それだとあの日以前からおれが高校にいること知ってたみたいな口ぶりじゃないか」

 そこでアカリは立ち上がって、いままで溜まっていた感情をすべておれにぶつけてきた。

 顔を爆発しそうなほど真っ赤にして、この薄暗い公園の照明の下でもはっきりわかるほど赤くして。この五年間、ずっと胸に溜めていた想いをすべて。

「口ぶりもなにも、ずっと知ってたに決まってるじゃないですか! あの遠足でお兄ちゃんに助けられた日から、ずっと……ずっとお兄ちゃんのこと、好きだったんだからあ……っ!」

「…………」

 え、告白された。おれ、女からまさか告白された。いま?

「小学校のときも、中学校のときも……ずっと遠くから見つめてたんだよ?」

「へ、中学のときも……!? 待て、そんなの知らないぞ」

「だって見つからないようにしてたもん……見つかったら女嫌いのお兄ちゃんに迷惑かけるから……」

「おま、そんなずっと前から知ってたのか……」

「当たり前ですよ! 私小四のころからお兄ちゃんのこと知ってるんですよ!」

 昂った感情をどうすればいいのかわからず、アカリは泣いていいのか、怒っていいのかよくわからないようだった。

 それからアカリはぽつりぽつりと語りはじめた。

「最初に意識したのはもちろん、いっしょに雨の山を歩いていたときですけど……それからずっとこちらから話しかける勇気がでなくて……そしたら急に六年生になったお兄ちゃんは不登校になるし……噂では女の子にケガさせたとか……」

「ああ……あれな……」

「あれなじゃないですよ! 私それから必死だったんですから……お兄ちゃんがどの中学に行ったのか死ぬほど探して……その中学に行ってからも、どのクラスにいるのか探して。やっと見つけて……ほっとした。けど……」

「けど?」

「なんだかお兄ちゃんは女の子を避けるようになってて、小六のときのこともあって……きっと私自分のせいなんだと思ってた」

「いやアカリ、おまえは関係ない……」

「あのときの私にそんなことわかるわけないじゃないですか!」

「う……」

 そこからアカリは感情や想い出が止め処なくあふれたように、胸の内をすべて吐き出しはじめた。

「てっきり、私のせいで……私が山で迷惑かけたからお兄ちゃんは女性恐怖症になったんだと思って、いっぱいいっぱい後悔したんですから! だから、迷惑かけないようにそっと遠くから覗くだけにしてたんです……私が声かけたら迷惑だろうから」

「アカリ……おまえ……」

「この前、ぶつかったときも……高校入学で中学二年以来お兄ちゃんといっしょの学校に通えるって嬉しさと、引っ越しのことでとっても悲しくて……無我夢中でお兄ちゃんのこと探してさ迷ってたら、ぶつかっちゃうし……それで、女の私がお兄ちゃんに触れて迷惑かけたこととか頭いっぱいで……」

 そのうちアカリの目にまた涙がたまってきた。

「混乱から覚めないうちに、翌日またお兄ちゃんと出会っちゃうし! 私なにしてんだって! なにが遠くから覗いてるだけで満足だなんてずっと自分に嘘ついて五年間すごしてたのに……いざ間近にしたらテンパっちゃって! お兄ちゃん私のこと思い出したらどうしようとか、逆に昨日会ったことも覚えてなかったらショックだとか、無視されないかなとか、お兄ちゃんに迷惑かけてとか……ああもう! 私、死にたい!」

「いや、そこまで……」

「そこまで思いました!」

 そうか、あのときたどたどしかったのはアカリも混乱してたのか。

「しかも結局、私のこと覚えてませんでしたし、お兄ちゃん!」

「それは……正直すまん」

「いいですよ! なんとなく、中学のとき遠くから観察してて、そうなんじゃないかと思ってましたから……でも……」

「でも?」

「でもですよ!? なにその日にこれ見よがしに夜に文庫本片手にひっそり出かけてお兄ちゃんの自宅前の公園で、本読んでるんですか私!? アホですか! 馬鹿なんですか!? 変態ですか、変態ですよ……ボランティアで仲良くなったと思って調子乗ってたんですか!? 浮かれてたんですか、もう!」

「なにもそこまで卑下せんでも……」

「します! しますよ、そりゃ……なにが遠くから覗いてるだけでいいですか! 格好つけてんじゃないですよ! 馬鹿馬鹿……中学校のころ一言も話せなかった鬱憤とかそういうことじゃ決してないですけど!」

 鬱憤溜まってたんだな。

「まあ、その日から毎日中学男子のフリしながらとはいえ、お兄ちゃんとしゃべれたのは嬉しかったですけど……あ、嬉しかったって言ってもちょこっと、ちょこっとですよ?」

「ああ、わかったわかった」

 最後のほうアカリはごにょごにょ言ってなんだかよくわからなかったが、おれはうなずいた。

「ううん、お兄ちゃん全然わかって……! いや、それはどうでもいいんだ……とにかく、それでお兄ちゃんが女嫌いになった原因を話してくれて……それで……そ、それで!」

「お、おい……アカリ……」

 またアカリの頬に涙がつーっと一筋流れた。

 そこからボロボロと次々に涙があふれて止まらなくなる。

「わっ、私のせいじゃないんだってわかって……でも、ずっと見てたくせに……お兄ちゃんのこと見てたくせに……そんなことにも気づかなかった自分が許せなくて……それにもうすぐ引っ越しでお兄ちゃんになんにも返せないで、ここからいなくなるのが嫌で……私、私!」

「いろいろおまえに考えさせてごめんな、アカリ……」

「うん……うんっ! いい、謝らなくて! 私ね……お兄ちゃんに恩返ししたかった。昔助けてくれた恩返しを……だからお兄ちゃんの女性恐怖症を治したくて……それで必死に……!」

「ありがとうな、アカリ……」

 おれがふっと笑みを浮かべて声をかけようとするとアカリは急に視線を下げて、全然違うことをぽつりとつぶやいた。

「そんなわけないよ……」

「え?」

「違うの! 私がただお兄ちゃんといっしょにデートしたかっただけ……また自分に嘘ついて、これは治療のためだって……お兄ちゃんのためだって……自分とお兄ちゃんに嘘ついて、わがまま言ってただけ」

 アカリは笑顔で泣いていた。

 きっとこいつは自分でもなんで泣いてるのかわからないのだろう。

 その涙を見て、喉奥で息を飲み込んだ。

 だからこそおれも素直に言えたんだ。

「知ってた」

「あはは……知られちゃってたんだ」

 アカリの目からまたぽろぽろと涙がこぼれる。

「なーんだ、全部バレてたんだ……アハハ。迷惑だったよね……なんの役にも……たっ、立ってなくて……っ!」

「迷惑じゃない」

「お兄ちゃん、もう気を使わないで……」

「結構楽しかった」

「へ?」

 一瞬、アカリの目からすんと涙が止まった。

「今度ゲーセンでおまえのスコア抜けるように頑張ってみるさ。あとあの映画全然集中できなかったから、もう一回見に行こうと思ってる」

「お兄ちゃん……」

「はは……ま、そんな感じで昨日のデート、楽しかったぞ」

「…………」

「楽しくって……たった一日学校で会えないだけでなんとなく心配になった」

「そう、ですか……心配してくれたんですね」

 そこからもうなにも言えなくって。おれも、アカリもどちらもなにも言えなくなって黙ってしまった。

「これ……昨日おまえが忘れていったやつ……」

 おれは持っていた景品袋をそっとアカリに渡した。

 アカリはそれを両手で受け取って、中身を確認する。

 あざらしのぬいぐるみを取り出して、ゆっくりと両腕で抱きしめた。

 そして泣きはらした顔に、無理やり笑みを浮かべながらおれに告げてくる。

「お兄ちゃん、これ……家宝にするね……」

「また言ってる。汚れたら捨てろ」

「捨てないよ。ずっとお家で飼うもん」

「あ、そ……」

 おれたちはベンチに座ってしばらく無言で夜空を見ていた。

 けどそのうちどちらが先だったか忘れたがぽつりぽつりと話して、小学校のときの思い出や中学校のときの話をした。

「お兄ちゃん、中学校のころからモテてましたもんねー」

「なんだよ、その言い方。含みあんな……大変だったんだからな……」

「お兄ちゃんが三年になるころには下級生の間でも話題でしたよ、優しくて硬派だって……まあ、私は女の子にビビリ散らかして、優柔不断で軟弱なだけだと思って陰からこそっと見てましたけど」

「うおい! このストーカー……言うに事欠いて、軟弱ってなんだ。おれは賢明なだけなの」

「告白してきた女の子の目も見れないくせに~?」

「う、うるせえ! 目を合わせたら噛みつかれるかもしれないだろ!?」

 ひたすら狼狽えるおれと、終始楽しそうなアカリ。

 おれたちは別れを惜しむように、その日はずいぶん遅くまで話し込んでいた。

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