01

大陸暦1975年――人嫌いの治療士1


「その命を我が身の糧とし、何れ星へと還りて新たな命となろう。いただきます」


 食前のお祈りを言い終えると、食堂に集まった少女達は一斉に朝食を摂り始めた。

 それまで厳かだった食堂は、少女達の話し声とスプーンやフォークが食器に接触した音により、一気に賑やかなものになる。

 私はそれを聞きながら、回りに遅れて目前に組んでいた祈りの手を崩すと、目下を見た。テーブルの上にはデカント豆の白スープにパン、そしてチーズとサラダが並んでいる。それらを眺めながら、このような普通の食事を摂るのは随分と久しぶりだと思った。それは昨日までの食事が消化に良い病人食だったのもあるけれど、それ以上に大きな理由があることを私は分かっていた。

 私は何から手を付けるか迷った挙句、良い香りが立ちこめるデカント豆の白スープに決めた。スプーンを手にして浮かんでいる豆ごとスープを掬う。そしてそれを口に運ぼうとしたとき、思わず手が止まった。

 スプーンには白いスープと、黄色い豆が一つが乗っている。

 白の中に浮かぶ球――その光景に、なぜか私は既視感を覚えた。


 最近、似たような光景を見たような――。


 ――でも、それはあり得ない。

 最近の記憶には、それに当てはまるものがない。

 数少ない記憶だから、それは間違いないと思う。

 それならば私はどこでそれを見たのだろう。 


「フラウリア?」


 そんなことを考えていると、横から名を呼ばれた。

 声がした右に顔を向けると、アルバさんが覗き込むようにこちらを見ている。


「手が進んでないようだけど。どうした? まだ調子が悪いのか?」


 心配そうな面持ちで気遣うように訊いてくる彼女に、私の心は温かくなった。

 アルバさんは星教会せいきょうかいが運営するこちらの修道院、ルコラ修道院の見習い修道女だ。

 年齢は私と同じく十五歳で、半月前にルコラ修道院に移り同室となった私の面倒を何かと見てくださっている。その面倒見のよさは、お世話になっているという一言では片付けられないぐらいのもので、それに関して彼女は『世話役だから』と謙遜するように言っていたけど、私にはお役目以上の心遣いを彼女から感じていた。

 今だってアルバさんは純粋に私を身体を心配してくださっている。その彼女の優しさが嬉しくて、心配させて申し訳ないと思いながらも心が温かくなるのだった。


「いえ。体調はもう大丈夫です。ただ――」

「あ! もしかしてフラウもデカント豆が嫌いなの!?」


 少しぼうとしていただけです、と言おうとして、正面からの声に遮られた。

 前を見ると、身を乗り出したロネさんが向日葵のような明るい笑顔を浮かべてこちらを見ている。彼女はアルバさんのご友人で、見るからにとても元気な女の子だ。


「いえ。デカント豆は好きですよ」


 そう答えると、「なんだぁ」と向日葵は夏期の終わりのように見る見るしおれてしまった。その様子から見るに、どうやら彼女はデカント豆が嫌いらしい。

 その気持ちはデカント豆が好きな私にもよく理解できる。

 デカント豆は栄養素が優れている代わりに苦みのある食物だ。だから苦いのが嫌いな子供には当然の如く人気がないし、大人も苦手な人が少なくなかったように思う。

 それでもよく味わえば旨味が滲み出てきて美味しい豆なのだけれど、第一印象の悪さからか、大人はまだしも子供がそこまで行き着くのはなかなかに難しい。

 そんな気難しい食物であるデカント豆の美味しさを私が知ったのは九歳のころだった。まだ十分子供であった私がそれに気づけたのは、その時だけよく噛んで味わったからに他ならない。そのことは今でもよく覚えているし、忘れていなかったことにも安堵する。あれは大事な思い出の一つでもあるから。

 ロネさんはしおれたまま、スープの中のデカント豆をスプーンで転がしている。その仕草が子供のようで愛らしく感じながらも、何だか悪いことをしてしまった気持ちにもなった。


「ご期待に添えず、申し訳ないです」

「気にしないで下さい。彼女が子供舌なだけですので」


 そう応えたのは、ロネさんの隣に座るリリーさんだった。彼女もアルバさんのご友人だ。


「なにおう。リリーだって辛いの苦手なくせにー」ロネさんが言った。

「辛いのが苦手なのは子供舌とは言いません」

「でも好き嫌いはよくないんだー」

「私は苦手なだけであって嫌いなわけではありません。だから食事に出てきても残したりはしませんし、貴女のように嫌がったりもしません」


 反論の言葉が出てこなかったのか、ロネさんは、むぅ、と口をすぼめると、まるで仕返しとばかりにリリーさんのお皿に次々とデカント豆を移し始めた。それをリリーさんは注意をするのかなと思いきや、その様子を黙って静かに見届けている。そして全部の豆が移し終わったあと、満足そうにしているロネさんのお皿に「せめて一粒は食べなさい」と一つだけ返した。

 戻ってきた豆を見てロネさんは口を尖らせる。リリーさんはそれを横目で確認したあと、私を見て言った。


「行儀の悪いところをお見せして、すみません」


 小さく頭を下げられたので、私は微笑んで首を振る。

 アルバさんによると、ロネさんとリリーさんは同郷の幼馴染で、お二人で修道女になるためにここに来られたらしい。年齢はお二人とも私達と同じ十五歳なのだけれど、ロネさんは小柄で可愛らしく、リリーさんは背が高めで言動もとても大人びている。だからか私にはお二人が幼馴染というよりは姉妹のように見え、仲睦まじい様子にとても微笑ましく思うのだった。

 それから食事を進めていると、アルバさんが何気ない様子で訊いてきた。


「そういや、フラウリアは嫌いな食べ物とかあるの?」

「私ですか。そうですね……ないと思いますが、もしかしたら忘れているだけなのかもしれません」

「あぁ。悪いこと訊いたな。ごめん」

「いえ。そんなにお気を使わないでください。もう大丈夫ですから」


 そう伝えるも、アルバさんは申し訳なさそうに苦笑している。

 彼女が気に病んでくださっているのは、私の記憶喪失に対してだ。


 そう、私には修道院に入った十歳からの記憶が無い。


 それは事故による後遺症だと私は聞いている。

 以前、他の修道院で見習い修道女をしていた私は事故に遭った、らしい。

 らしい、と自分のことなのに曖昧な表現になってしまうのは、その事故の記憶自体が丸ごと無いからだ。

 なのでまるで実感はないのだけれど、ともかくにもその事故で大怪我を負ってしまった私は、治療士様のお陰で一命を取り留めることができた。だけど一週間経っても目を覚ますことはなく、私は継続治療を受けるために星教せいきょうで高名な治療士様が修道院長を務めるこのルコラ修道院へと移された。


 そして移送されてから三日後、ようやく私は昏睡状態から目を覚ました。


 目覚めた時にはすでに記憶がなかった私は、当然の如く困惑した。

 見知らぬ場所にいることはもちろん、身体が思うように動かないことや全身に刻まれた身に覚えのない傷跡、そして何より私を困惑させたのは自分の記憶とは違う成長した身体だった。

 そんな私に修道院長は優しく丁寧に状況を説明してくださった。だけど記憶の無い私には何を話されても他人事のようで、自分のことなのに現実味のない絵空事のようで、まるで理解が追いつかなかった。だから失った記憶に触れるようなことを少しでも聞かれたら、取り乱すことも多かった。

 アルバさんがここまで気を使ってくださっているのは、目覚めてからずっと世話をしてくれている彼女がその事を知っているからだ。

 見るとアルバさんはまだ失敗を犯したとでもいう風に小さく微笑んで食事をしている。

 気を使わせるような返しをしてしまったのがいけなかった、と私も反省していると、ロネさんが「そういえばさー」と口を開いた。


「フラウってどうして大怪我しちゃったの?」


 リリーさんとアルバさんが同時にロネさんを見た。その驚いた表情から、今まで皆さんがそれを聞かないよう配慮してくれていたのだと知る。


「ロネ」リリーさんが少し焦るように言った。「そういうことは聞かないようにってユイ先生が仰っていたでしょう」


 ユイ先生というのはここ、ルコラ修道院の修道院長のことだ。


「元気になったからいいじゃんー」とロネさんは口を尖らせる。

「私は大丈夫ですよ。ただ、お答えしたくてもそれも覚えてはいなくて。交通事故に遭ったとだけは聞いているのですが」

「そうなんだー死ななくてよかったね!」

「お前なあ。もう少し言い方ってもんが」


 いいんです、と私はアルバさんを制止した。


「ロネさんの仰る通りです。どんなことがあったとしても、命があり今こうして食事をすることができているのは、とてもありがたいことです。それに事故に遭わなければ、こうして皆さんと出会うこともありませんでした。そう考えると、事故に遭ったのは悪いことばかりではないように思います」

「前向きなんだな」意外そうにアルバさんが言う。

「後ろを向こうにも、振り返る記憶がありませんから」


 これには、先ほどからずっと気遣うような表情だったアルバさんの顔が綻んだ。

 思わく通り冗談と受け取って頂けて、私も安心する。


「私はもう本当に気にしていませんから、皆さんもどうかお気を使わないでください」

「分かった! 気にしない!」

「お前は最初から気にしてないだろ」

「貴女はもう少し人の気持ちを汲むべきです」


 元気よく答えてくださったロネさんに、アルバさんとリリーさんがすかさず突っ込みをする。その言葉の内容自体は厳しいものだけれど、でもそれは親しい間柄だからこその言葉だということは私にも分かった。だって頬を膨らますロネさんを見て、二人とも頬を緩めていたから。


「ただ、記憶が無いことで、これからも皆さんにご迷惑をおかけすることは申し訳なく思います」


 修道院に入ってからの記憶がないということは、ここでの生活や規則が何一つ分からない状態に戻ってしまっているということだった。それでも昨日までは部屋で過ごすことが多かったので問題はなかったけれど、体調が快復した今、私も規則に習って生活をしていかなければならない。そのためには分からないことを三人に伺う機会が増えてしまうだろうし、そのことで三人の日々の負担が増えてしまうことは申し訳なく感じた。

 でも三人は、私の憂いを払うかのように言った。


「それこそ気を使うなよ」

「そうです。分からないことがあったら遠慮なさらず聞いてください」

「そだよー何でも教えちゃうよー」


 その快い返事に、私の心が軽くなる。

 そして改めて思う。私は本当に恵まれていると。

 ここで目を覚ましたころの私は、まともに起き上がれないぐらいに身体が衰弱し、記憶がないことで心も不安定な状態だった。

 今まで存在していたものが綺麗に無くなっている感覚は、私に空虚な気持ちを抱かせ、どうしようもない寂しさが襲い、一人でいることが不安でたまらなかった。

 そんな心身共に弱っていた私を修道院長――ユイ先生とアルバさんは付きっきりで親身に看病してくださった。ロネさんとリリーさんも部屋に訪れては励ましてくださった。

 私の心身が快復したのは、ユイ先生と三人のお陰と言っても過言では無いのだ。


「ありがとうございます」


 私の心から謝礼を述べた。

 それに三人は微笑んで答えてくれると、それぞれ食事を再開した。


 ――事故に遭ったのは悪いことばかりではない。


 先ほど口にしたのは、その場を納めるためのものではない。

 紛れもなく私の本心だった。

 私はこの星の巡り合わせに感謝しているし、記憶が無いことに関しても、もう大きな不安は感じていない。

 命を失うことに比べれば全身の傷跡も、記憶喪失も、些細なことだと今なら思える。

 それなのに。

 私は白いスープに目が行く。


 どうして私は、引っかかりを感じているのだろう。

 心がざわつくのだろう。

 何か、私には思い出したことでもあるのだろうか。

 何か――。


 その時、ころり、と豆が一粒、私のスープ皿に転がり込んできた。

 顔を上げると、ロネさんがニッコリと微笑んでいる。


「フラウにあげるー」

「ロネ」すかさずリリーさんがロネさんを窘める。

「元気になってもいっぱい食べなきゃいけないって母さま言ってたもん。だからあげたんだもん」


 ロネさんはどことなく得意げにそう説明した。おそらく病み上がりだからこそ栄養を摂ったほうがいい、と彼女は言っているのだろう。


「でしたら他のも差し上げたらいかがですか? たとえばチーズとか」


 リリーさんの提案に、ロネさんの顔が一瞬で悲壮感に包まれた。その顔だけでも彼女がチーズを大好きなことが分かってしまう。そして彼女のお皿の手つかずのチーズから、好きなものは最後に食べる主義だということも。

 ロネさんはチーズと私を交互に見ると、最後にリリーさんを見た。

 その顔が雨に濡れた子犬のようで、私とアルバさんは思わず笑みを漏らす。

 そんなロネさんにリリーさんはため息をつくと言った。


「冗談ですよ。全く。貴女が下手な言い訳をするからです。それと私に対しては大目に見ていますが、手を付けたものを人にあげてはいけません。相手に失礼です」

 リリーさんはそう言い放つと、私に「交換してきましょうか」と訊いてきた。私は「大丈夫ですよ」と断る。

「でも、母さま言ってたもん」


 そう言ってロネさんはいじけるようにスープを突いている。


「そのことは端から疑ってはいません。私が言っているのは豆を食べたくない言い訳にお母さまを使ったことです。そうやって嫌いなものから逃げていると、いつまでたっても大きくなれませ――」

「もー分かったよ!」


 ロネさんはリリーさんの言葉を遮ると、彼女のお皿から豆を一つ掬い、それを口に入れて一気に飲み込んだ。


「ほら! 食べたよ!」


 これでどうだとでもいう風にロネさんは胸を張った。その表情は褒められ待ちをしている子供のようで見ていて微笑ましい。だけどそんな彼女にリリーさんは落ち着いた表情を変えることなく答えた。


「よく噛まないと消化に悪いですよ」

「もーちがうー」


 納得がいかない様子で拳を上下させるロネさんに、リリーさんは優しい笑みを漏らす。


「よく出来ましたね」


 待ち望んでいたリリーさんの褒め言葉を貰って、ロネさんは嬉しそうに笑顔を浮かべた。

 もう姉妹を通り越して母子のような二人のやり取りに、アルバさんと私は顔を見合わせて温かい苦笑を浮かべたのだった。


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