第一二四話 羽豆崎の夜
俺は今年も羽豆崎で乾燥椿を蒸していた。年一でしかやっていないとはいえ慣れてくるものである。
ただ今年はここに「さや」の姿はなかった。彼女は去年自らを害するような不審な動きをみせたので叔父である滝川のおっさんが賭け事にうつつを抜かしていないよう目付けを頼んだのだが…彼女は叔父を滝川家の恥にすまいとそれを律儀に守っているのかもしれない。
ちなみに滝川のおっさんは今は京に行って将軍様の命を受けた三好討伐とやらの動向を探って貰っている。もしかしたら彼女もそれに同行しているのだろう。
そんないつもの蛙を狙う蛇のような視線がない事に安堵と一分の物足りなさを感じつつ、蒸し上がった椿を冷ます為一旦その場を離れた。
羽豆崎の屋敷は喧騒に満ちていた。
「これが旦那の娘か?」
げんなりとした龍興が幼女と戯れていた。三歳になる静香は龍興相手に拙いお転婆格闘術を披露している。事の発端は静香が「よわそう…」などと龍興を煽った事でこの戯れの格闘戦となったようだ。見た事のない闖入者が自のテリトリーに堂々と鎮座している事で縄張り意識を刺激されたのだろうか?一体誰の影響で拝筋主義に目覚めたのだろう…親として将来に一寸の不安を感じざるを得ない。俺はじっとりとした視線を嘉隆に向けたが嘉隆はそれを豪快に笑い飛ばした。
「まるでしずかの小さい頃の生き写しだ!!」
それを言われると反論のしようがないし、むしろ嬉しい部分もあるし覚悟もしていたが…落ち着け、悪い方向だがまだ想定範囲内だ。だが今はお転婆で許されるが今後じゃじゃ馬になってメスガキになってこの伊勢湾の光を受けて立派な黒ギャルへと変貌するのが目に浮かぶ…そうして立派なモンスターに成長して…この時代で静香は嫁にいけるのだろうか?
俺はそんな内心の心配をおくびにも出さず龍興にドヤ顔をキメる。
「どうだ可愛いだろう?」
「この歳からクッソ生意気過ぎて頭が痛くなる」
「淑女教育を人一倍努力しないと大惨事になるぞこれは…将来が心配だ」
龍興からは忌憚のないメッタ切りな意見が返ってきた。俺の内心での見立てとそう変わらない。一応才女ねねさんの教育を受けているからある程度は大丈夫だと思うが…将来が不安なのは否めない所だ。
「まぁ…まだ三つだからな…」
「三つ子の魂百までと言うぞ?」
龍興は天井高く静香をブン投げてそんな事をのたまう。おいおいウチの姫をブン投げるな…この時代の人間の「たかいたかい」は雑過ぎて命の危険を感じるが龍興はそれを危なげなく受け止めていた。そして先ほどまで幼子に似合わぬ怒気だか殺気だかを孕んでいた静香は一転してきゃっきゃと上機嫌となった。
まぁ嫁の貰い手に悩んだり困るのはまだまだ先で良い。親としては彼女を幸せにしてくれる男と出会えることを祈るのみである。ちなみに年齢差を考慮に入れなくても
「…やらんぞ」
そんな上機嫌になった静香と龍興を見比べて俺は一応釘を刺しておく。
「俺に幼女趣味はねぇ!!」
龍興は心外だとばかりに眉を大きく顰めた。
羽豆崎の屋敷は夜になると昼間の喧騒は嘘のように止み、波の音を背に虫の音が響いていた。
秀さんはねねさんと娘さんのお鶴さんで家族団欒の一時を過ごさせている。ねねさんは「殿様が戻っていらした時だからこそ」と張り切っていたのだがそれは旦那である秀さんに向けてやるようにと諭して一時の暇を出した。
出張を強要させてしまっている村長の秀さんの代わりは今は弟の小一郎に任せている。この小一郎、流石は秀さんの弟といったところだろうか。秀さんとは体格も性格も大きく違うがしっかりしていて秀さんが留守中の羽豆崎を預かって貰うに足りる安心感がある。今後貯水池は彼を中心に作って貰う事になるだろう。
羽豆崎には元々小さな漁村がある。秀さんも彼らとの付き合いには随分気を遣って貰ったが、小一郎も軋轢を生まぬよう交流をしてくれているようだ。だがそれでも羽豆崎に元から居た者からするとよそ者を引き込んだ俺に対して未だ良い感情を持っていない者も少なからずいる。人の数も財も技術も圧倒的にこちらが上だ。元あった村としては新参者であるこちらに併呑される事に忌避感があるのだろう。だがこんな小さな土地だ、変なしがらみを生まずに纏まって欲しいものだ。
今まで物流を変える事で手に入る食い物を増やしたり酒を提供したりしてきたが、今回は生活必需品の真水だ。生活が一つ便利になる事で彼らにも貢献出来るだろう。
そんな益体もない事を考えながら独り、傍に彼女がいない事を残念に思いながら波の音と虫の音を背に俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝、昨日から荒熱を取る為に放置しておいた蒸した椿を圧搾して油を取っていく。この後の工程をしっかりやればもっと質が上がるのだろうがこの時代だと布で濾すのがせいぜいだ。俺にはそれ以上の方法など思い浮かばない。それでも出来るだけ丁寧に、彼女を想いながら椿油を濾していった。
そして出来た椿油を彼女の墓前に供えようとして…ふと誰かが先に椿油を供えている事に気が付いた。それで一体誰が椿の実を収穫し、乾燥させてくれていたのか合点がいった。彼女を悼んでくれた者にも心の中で感謝をして俺はしずかの墓前に椿油を供え手を合わせた。
その後俺達は皆に見送られ羽豆崎を後にした。
そうして神無月も深くなってきた頃、熱田に今川氏真がやってきたのである。
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