第33話

 一歩、前に出た。僕はアイネの中に、得体の知れない何かを感じていた。それは共感や同情といった、好意的なものではない。けれども、単純な敵対心を抱くことはできなかった。

「あら、人間の坊やが話を聞いてどうなるって言うのかしら」

「そうですね、どうなるかまでは予測できません。でも、僕も秘密の技術を持っているんですよ。恐らくあなたの知らない知識も。そして僕はもっと知る必要があるんです。もしあなたがこの世界から多くの知識を洗い流してしまうなら、僕はあなたを敵とみなします。でも、もしあなたがこの世界に知識をもたらそうとしているならば、僕は協力すべきだと思います。ガイストやリードにもそれを頼みます」

 肩のなくなった方に、アイネは首をかしげた。

「不思議な人。はったりだとしたら、たいしたものね。真実だとしたら、無視するのはもったいないかも。でもね、世の中には理屈じゃどうしようもないことがあるの。あたしとあなたたちは、どうしようもなく敵同士なの。そしてね、あたしはあなたなんかと対等な立場にはならない。こんなくそったれの星の、生えてきたばかりの人とはね」

「……そうですか。残念です。では、強制的な手法を発動します」

 マザータウンに、緊急処置の適応を要請する。本来は僕の身の安全が脅かされた時のためのシステムだが、今が使い時だと思った。正直使い勝手はよく分からないのだが、やってみる価値はあるだろう。

「どうしたの、威勢のいいこと言って、何するつもりかしら」

 適応、承認。レベル3。時間設定なし(最長一時間)。

 僕からの風景は何も変わらない。しかし、僕は僕の器から抜け出している。今僕の体は惰性で動いているに過ぎない。元々体の位置データと主観の存在データが同期していたにすぎないので、たいした操作は行われていない。ただ、僕の意識自体はこちらの世界にしか存在していないので、その安定を保つのが大変だ。人間でいえば魂と言われるもの、僕らの主観は、かなりの部分が物体に依存ている。そもそも機械から作り出されたのだから当然だ。それを機械のデータに関連付けるだけでもなかなかの技術だったと思うだが、さらに独立させるとなれば相当な技術だ。

 試作段階では問題が出なかったが、いざ運用するとなれば少し心配でもあった。とはいえ、どうせ今僕は現実に戻れない迷い子だ。ここで何かあってもどうってことないさ、と少しやけくそにもなっていた。

 僕から見て変わったことと言えば、より鮮明にアイネの魂が感じられるようになったということだった。ファラオの形に添い、ゆらゆらと揺れているのがわかった。僕自身が肉体を捨てることにより、彼らの本質を感じやすくなったのだろう。振り返ると、ガイストの形も感じられた。

 ただし、いいことばかりではない。肉体を捨てたことにより、自らの位置について常に自覚しなければならなくなった。自由に動けるゆえに、ひどく不自由なのだ。

 驚いたのは、思った以上に世界は魂であふれている、ということだった。人々や草木はもちろん、地中の虫やバクテリアの魂も感じることができた。さらには枯れ木や石といった死せるものからも、かすかだが主観の波動が伝わってくるのである。ランダム設定が生み出したことなのか、それが世界の性質なのか。

 そして、自分と他者との境界が以前よりもぼんやりとしているのがわかった。考えてみれば、肉体も日々その構成物質を変えている。魂もそれと同じように、周囲の魂から一部を摂取し、自らの一部を捨て、新陳代謝しているのだ。人間はそのことに気付いていたのだろうか?

 ただし、この技術を開発したときには、彼らのような存在を想定はしていなかった。肉体を捨てることは、隠れることだと思っていた。

「あなた……何?」

 アイネが聞いてくる。

「ヴィーレ、……お前……」

 ガイストがつぶやく。

 しかし、見えてしまうのだ。僕は、彼らの存在に近付いた。

「あなたたちの世界は、こうなっていたんですね。少し、予想とは違いました」

 僕らの言葉は人間たちには聞こえていないようだった。魂と魂は、音によらず言葉を交わすのだ。

「まさか、あなたもこの星の住人ではないのかしら? 空からは何も降ってこなかったけれど」

「全てを把握していると思うのが間違いですよ。僕に言わせれば、そちらの方がこの星のことを何も知らない」

 一歩(ぐらい)、前に出る。アイネは動かない。さらに進む。

「なんだと言うの……」

 怯えているのが感じられた。アイネは、自分が最も優位だということを自覚しすぎていたのだろう。理解のできないものに対して、動揺しているのがわかった。

「どうしようもなく敵なんでしょう。さあ、かかってくればいい」

「……今日は挨拶に来たの。勝負は、また今度」

 アイネは飛び立とうとしていた。あの高速飛行を許したらおしまいだ。僕は思い切り手を伸ばした(つもりだったが、液体がびゅんと伸びたような感じだった)。主観に大きさなどというものを考えたことがなかったが、どうやら僕はアイネよりもかなり大きかった。一瞬彼女を包み込むように捕らえたが、アイネはもがいてそこを抜けだした。

「この雨は止められないわ。それで、あたしの勝ち」

 まさに捨て台詞だったが、こちらにも得たものはあった。

「ヴィーレ、大丈夫か」

「ええ……なんとか」

 さすがに肉体を離れるというのはロボットの僕にとっては精神を痛めつける行為だったようだ。体に戻ってきたら、頭の中がぼーっとしてきた。それでも、僕にはまだ感触が残っている。アイネの魂の一部を、引きちぎったのだ。それにどれほどの価値があるのかはわからないが、意味はあるような気がした。

「少し、眠ります」

 意識が遠のいていく。無理をしたのだ。人間は完全に活動を止めることはない、不便だが、忌むべきことではない。

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