署名

「ところで何故いつも甲冑を着ていらっしゃるのですか」

 廊下を戻りながらエットーレに尋ねる。隠したいところが顔だけなら、動きにくい甲冑など着ないで仮面にすればいいと思うのだ。

「顔だけ隠したら、顔に問題があると分かるでしょう?」

「……確かにそうですね」


 つまり彼はそのこと自体を秘密にしたいらしい。一体どうして。疑問が増えるばかりだ。


 エットーレと大広間に入る。と、ちょうど陛下が玉座から立ち上がるのが見えた。

「サンドロ。こちらに」

 七十とは思えないよく通る声。

 楽団が演奏を止め、群衆の中からベアータの腰を抱いたサンドロが笑顔で出て来た。ついで第一王子も。更にその後方にアメリアの姿もあった。


「サンドロ。マルツィア・オルランディ嬢に婚約破棄を突きつけたというのは真か」

「はい、お祖父様。彼女は私に相応しくありません。私の妃となるべきは、このベアータです。新たに彼女と婚約をします」

「……なるほど」


 陛下が首を巡らせた。私とエットーレを見て止まる。それからまたサンドロに視線を移した。


「四年前」と陛下。「トンマーゾは私の反対を押し切りサンドロとマルツィアを婚約させた」

「早計でした」第一王子がヌケヌケと言う。「彼女があれほど王族に反抗的だとは露とも思わず。私は息子の判断を支持します」


「よく言う」とエットーレが呟いた。


「分かった。それならばお前たちの意見を尊重しよう。今ここで手続きをするがいい」

 陛下がさっと片手を上げると近侍が銀の盆を持ってやって来た。

「マルツィア嬢の署名は後で構わない」

 そう言いながら陛下は盆の上で何かを書き、サンドロに渡した。

「婚約破棄の事由も書くように。二人とも未成年ゆえ、保護者としてトンマーゾとアメリアも署名を」


 遠目にもサンドロが嬉々としているのが分かる。

 それから陛下はサンドロとベアータの婚約成立の書類も書かせ、こちらにも保護者の署名を求めた。


「ではお前たちは下がっていい」

 陛下が手を払う。まるで厄介払いをしているかのような動きだ。

「マルツィア・オルランディ」

 私の名前が呼ばれた。

「こちらへ来なさい。署名を」


 陛下の前に進み出て、促されるままに署名をする。書類の一番上には陛下の字で『婚約解消届け』と、その下には『サンドロ・ブルネッテイからの申し出』と書いてある。事由にはサンドロの字で、先ほど告げられたような事が長々と書かれていた。


 婚約解消なんて初めてしたからよく分からないけど、届けの形式はこんなものなのだろうか。この書類だと、非は私にあるみたいに見える。ちょっとばかり面白くない。

 でもサンドロと縁を切るために必要なことなんだから。陛下が私を悪いようにはするはずはない。多分。わりと気に入られていると思うのだ――。


 署名を終えると陛下は、

「さて」

 と、私と共に御前に出たエットーレを見た。

「お前は伴侶を見つけられたか」

「はい、陛下。そちらのマルツィア・オルランディ公爵令嬢に結婚を申し込み、了承を得ました」

「ならば」

 と、陛下はまた片手を上げた。先ほどとは別の近侍が銀の盆を持って来て同じことが繰り返され、今度は婚約届けが目の前に差し出された。まだエットーレの署名はない。私が名前を書くと、近侍がエットーレの前に進む。


 と、最初の近侍が紙を手に戻って来て陛下に耳打ちをした。陛下はエットーレが書き終えるのを確認してから、近侍に合図をした。

「アメリア・オルランディ息女ベアータ前へ」と近侍が声を張る。

 きょとんとした彼女が進み出ると彼は

「署名には通称でなく本名を書くように」

 と言った。


「……通称なんて書いていませんけど」とベアータ。

 陛下の目がすっと細くなった。明らかな不機嫌にアメリアとサンドロが近侍が出した書類を見る。そして当惑の顔を陛下に向けた。


「まさか」と近侍。「あなたは自分がオルランディ姓だと思っているのか」

「え?」

 とベアータ。戸惑い顔でアメリアを見る。というか私も困惑だ。どういうこと? もしかして――。


「ベアータはオルランディでしょう!」

 アメリアが近侍に詰め寄る。

「いいえ。彼女はロベッロ姓です。ご存知ではなかったのですか」

 ロベッロはアメリアの旧姓のはず。

「何故よ!」叫ぶベアータ。

「私はオルランディ公爵夫人よ!」とアメリア。「娘は当然オルランディ公爵令嬢でしょう!」

「いや、あなたは公爵夫人ではない」とサンドロが言った。「現公爵はルフィーノだ。あなたは元公爵夫人、もしくは公爵の母でしかない」


 アメリアは公爵夫人を気取っていたけど、まさか今もその立場だと信じていたとは知らなかった。周囲から『これだから平民出身は』という嘲笑が聞こえる。


「でも!」とアメリア。「私はコジモ・オルランディと結婚したのよ。ベアータはオルランディでしょう!」

「いいえ。彼女はオルランディの籍には入っていません」今度は近侍が答える。「入るためにはコジモ殿との養子縁組が必要でしたが、なされていません」


 やっぱり。


「何よそれ!」

 叫ぶ母子に近侍が説明する。


 これは貴族が子連れの人と結婚する場合にだけ適用される特別な仕組みだ。財産が細分化されないよう、相続人を増やさないためにあるらしい。

 でも父は結婚当初アメリアに首ったけだったのに、養子縁組をしなかったなんて。


「今までベアータが王宮から招待状をもらったことはないでしょう?」と近侍。「貴族ではないからです」

 そうなんだ。じゃあ今まで彼女はアメリアにくっついて来ていたということ? 気がつかなかった。


「ならば彼女は平民なのか」

 第一王子トンマーゾが血相を変えて近侍に詰め寄る。

「そうです」

「ではオルランディの後ろ楯は!」

「ないでしょう。現公爵閣下も彼女を籍に入れていないのですから」

「冗談じゃない! サンドロとの婚約は今すぐに止めだ!」

 トンマーゾがわめき、ベアータとアメリアが慌てふためく。

「お前は息子の結婚相手について、何も確認しなかったのか」と嘆息する陛下。

 と、サンドロが私を見た。


「マルツィア。弟にベアータを籍に入れるよう頼んでくれ」

「殿下のお考えはお伝えしましょう。ですが依頼は本人からが筋というものではないでしょうか」

 サンドロはむっとした顔になったけど、それ以上は何も言わずに顔を逸らしてベアータを見た。

「心配するな。ダメならば他の貴族の養女に入れてもらえばいい。それに平民だからといって王子の妻になれない訳ではないからな」


 あら?


「何を言う! オルランディの名が必要だ」

 トンマーゾが叫ぶ。

「それは父上の事情でしょう。私には関係ない」とサンドロが冷たく答える。


 ……どうやらサンドロは本気でベアータが好きらしい。

「意外だな」とエットーレが呟く。

 陛下もそんな表情だ。


 父子はここがどこかを忘れたかのように口喧嘩にふける。

 舞踏会の雰囲気がすっかり荒んでしまった。


「ああ、そうだ」と近侍に耳打ちされた陛下が再び私を見た。「婚約届けに保護者の署名がまだだったな。宰相、マルツィアの保護者代理として署名を」

 え。宰相? 解消届けにはアメリアがサインしたのに?

 辺りもざわついている。

 その中を宰相ダルシアク公爵が出てきて、当然のことをするかのような顔でサインした。



 もう、何がなんだか分からない。疑問だらけ。

 相手のフルネームも知らずに婚約する令嬢なんて、きっと世界中探したって私だけだろうし。でも何故か心配しなくても大丈夫という気はする。


 エットーレを見ると、彼は口角を上げて

「これからよろしくお願いします」

 と言った。優しい人なんじゃないかな。

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