第17話 リフレッシュ / 笑い

 「笑い」は「強靭で柔軟な心身作り」に役立つのでしょうか。



 私の勤める会社では 毎年8月に 敷地内の広場を一般に開放して 夏祭りが開催されていました。

 

 夏祭りの日には 夕方になると 会社の正門は開かれ 広場には あちこちに社員や一般客が座るためのブルーシートが敷かれ 飲食物を販売する出店が立ち並びました。


 定刻になると 広場の正面に設けられた演台に 会社役員が登壇して夏祭り開会の挨拶を述べ その後 組合役員が登壇して乾杯の音頭をとると 祭りがスタートしました。


 祭りの催し物には 職場対抗のゲームや早食い競争等があり 最後に従業員を対象に お楽しみ抽選会が行われました。



 抽選会では 演台の近くに テレビやデジタルカメラや音楽プレイヤー等の豪華賞品が並べられて 祭りの参加者の注目を集めました。

 

 抽選会の参加者は 事前に職場名と氏名を記入した投票用紙を 投票箱に入れておき 抽選会が始まると 執行部のスタッフは 投票箱から投票用紙を1枚ずつ選び出し 当選者を発表しました。


 当選者は 名前を呼ばれてから15秒間以内に 名乗り出ないと失格となるルールがあって スタッフは 名前を呼ぶのと同時にカウントダウンを始めました。


 当選者の中には 既に退社したのか 名前を呼ばれても 出てこない者もいましたが 大概の当選者は 名前を呼ばれると 演台に向かって走っていくのが見られました。


 演台横の白い建物の壁には プロジェクターで 3つの絵柄が投影されたスロットマシンが映し出されていました。


 当選者は 演台に上がると スタッフに促されて「スタート」と声を掛けてスロットマシンを回して 「ストップ」の声を掛けてスロットマシンの回転を止めました。


 回転が止まり 3つの絵柄が揃うと 当選者は その絵柄の製品をもらうことができました。


 残念にも 絵柄が揃わなかった場合には 参加賞として たわしを1個もらえました。



 最初の当選者の職場名と名前が呼ばれ カウントダウンの掛け声が始まると同時に 会場の後方から 30歳頃の中肉中背の男性社員が すごい勢いで走っていくのが見えました。


 彼は 少し息を切らして壇上に上がると 投票用紙の控え券を渡し スタッフに促されて「スタート」と声を発すると スロットマシンの絵柄が回り始めました。


 暫く置いて 彼は「ストップ」と言うと スロットマシンの左側のスペースの絵柄が止まり始めました。


 左側のスペースに「テレビ」の絵柄が止まり 暫くして次のスペースに「テレビ」の絵柄が止まると 会場からは「おー!」という期待感に満ちた歓声が起こりました。


 皆の期待を集めた最後のスペースに「たわし」の絵柄が出ると 会場から「あー。あー!」と大きな声のため息が聞こえました。


 彼は 参加賞のたわしをもらって がっかりした様子で 演台を降りていきました。  



 私は ビールの入ったコップを片手に 同じC職場のメンバーと集まって抽選会を見ていると スタッフから「C職場の 大松さん。」と言うアナウンスが聞こえました。


 30歳くらい 中背、ふっくら体型、のんびりした感じの丸顔、ぼさぼさ頭に眼鏡をかけた大松さんは「はい!はーい!」と大きな声を上げると 飛び跳ねるように演台に向かって行きました。


 抽選の順番が回ってくると 彼は少し上ずった声で「スタート!」と言い スロットマシンの絵柄が動き出すと 暫くして「ストップ!」と力をこめて叫びました。


 マシンの左側のスペースに「たわし」の絵柄が表示されると C職場のメンバーは「あーあ。」と言うため息交じりの声や「いきなりですか。」と言う落胆した声が聞かれました。


 ところが 次のスペースに「たわし」の絵柄が表示されると 会場は奇妙な期待感に包まれました。


 そして 最後のスペースに「たわし」の絵柄が表示され それを見ていた大松さんの呆然とした表情に 会場は爆笑の渦に巻き込まれました。



 会社の経営状況が悪化し 組織の上層部による業務管理が厳しくなる中 常に緊張感に包まれ これまでに笑うことが無かった私は アルコールが入っていたせいもあってタガが外れた様に笑いました。


 笑いすぎて 息が苦しくなったところへ 大松さんが商品のたわしを持ってくると それを見た私は 更に笑いがこみ上げ「うーうー。」と声がつまり死にそうになりました。


 余りに苦しそうな私を見た大松さんは「大丈夫ですか。」と声を掛けました。


 暫くの間 下を向いて呼吸を落ち着かせると 私は 顔を上げて「いやー 久しぶりに笑わせてもらいました。ありがとう。」と言いました。


 大松さんは 半分とぼけたように「どう致しまして。」と言うので 私はまた腹を抱えて笑い出しました。



 暫くの間笑い続けた後に 一息つくと 私は 「たわしの」絵柄が揃っただけで これまでに無いくらいに大笑いしてしまったことに その理由を考えてみました。


 最初に笑い出したのは 妙な期待感の中で「たわしの」絵柄が揃ったことと その瞬間の大松さんの呆然とした表情とのマッチングが 私の笑いの感覚をくすぐったからでした。


 次に たわしを持ってきた大松さんを見て笑いが止まらなくなったのは それまでの笑いで 普段 私の頭の中に常駐する仕事の悩みや心配事等を忘れさせ 自身の緊張を保っていた糸が切れてしまったからだと思いました。


 そのように考えると 私は もしかしたら 思いっきり笑うことは 目標とする「強靭で柔軟な心身作り」に一役買うかもしれないと思いました。



 私は これまでの「強靭で柔軟な心身作り」の取り組みを通じて 自身の体の使っていない部位は 短時間に その機能を低下させていくことを学んでいたので 同じ事が 笑うことにも言えるのではないかと考えました。


 長い間 笑うことの無い顔の筋肉は 硬くなり動きの無いものになってしまい 頭蓋骨にぶら下がって仕事をしなくなっていると思いました。 


 顔の筋肉が仕事をしなくなると 無表情になり 本人の外見を暗くするだけでなく 内面をも 暗くしてしまうものだろうと推測しました。


 そのように分析した私は「これでは いけない。」と思い「強靭で柔軟な心身作り」のために 笑いを求める取り組みを始めることにしました。



 翌日の休日に 私は ラジオやテレビの番組表をチェックして 落語や講談や漫才の番組をチェックすると それらをリアルタイムで見聞きしたり 録音録画して見聞きすることにしました。



 それから1ヶ月後に いろいろなお笑い番組を見聞きした私は 夏祭りの時の笑いに比べると それに匹敵するほどの笑いを得られませんでした。


 お笑い芸人のくすぐりに反応して笑えるかどうかは 自分自身の過去の経験により形成される価値観や心理状態と それらと連動して生じる笑いの感性に左右されるものでした。


 また 自ら笑いを求める姿勢は 笑いへの期待感から 妙に構える形になってしまい お笑い演芸を吟味してしまうために 逆に期待はずれの場合が多くなり 笑えない状況を作り出していました。


 先日の夏祭りでの出来事が インパクトが大きかっただけに テレビやラジオ番組の中に それに匹敵するような笑いを得られるものはありませんでした。


 「強靭で柔軟な心身作り」のために笑いを求める取り組みは 進展が見られないままに 日にちが過ぎていき 私は 会社の状況や仕事の進捗等の現実に晒されて 笑いを忘れ 表情に乏しい顔に戻っていきました。 


 

 夏祭りから2ヶ月間程過ぎた日のこと 私に 会社の昼会の当番が回ってきました。


 当番は 昼会の時に 居室の窓側中央の所定の場所に立って「昼会を始めます。」と言って 社訓が書かれた紙を広げて読み上げるのが決まりになっていました。


 私は 慣習に従って 社訓の紙を開き そこに書かれている内容を読み上げていると 私の正面から 4列目くらい後ろにいた大松さんと目が合いました。


 その瞬間 私の脳裏には 夏祭りの出来事が フラッシュバックしてきました。


 私は 思わず吹き出しそうになるのを堪えて口を閉ざしましたが 膨張する口の中の内圧が漏れて「ふふー。」と息を漏らしてしまいました。


 私は 更に口を硬く噤み こみ上げてくる内圧を抑えようとしましたが 強靭さと柔軟性を無くしていた口の筋肉は その圧力に耐え切れずに「ぷぷー!」と音を立てました。


 私は反射的に「みんなの前で吹き出してはいけない!」と思い 歯を食いしばって 口の中に膨張する圧力を押さえ込もうとしましたが 今度は 腹の底から吹き上げてくる圧力に見舞われました。


 それでも 何とか持ちこたえた私は もう一度 大松さんと目が合えば 耐えられないと感じて 社訓の書かれた紙を目の高さまで持ち上げて 彼を視界から隠そうとしました。


 すると彼は 私の正面から 右側へ 首を伸ばすようなしぐさと供に 回り込んできて 私と目を合わせようとしました。


 悪意のある動きに 大衆の面前で笑わせてやろうという意図を感じた私は 更に強い 突き上げるような内圧を感じて「うぐぐっ!」と声をあげました。


 笑いを耐えようとすればする程 その圧力は 私の口の中だけでなく 頭の中にも 内圧を増大させていきました。


 その圧力は 私の頭の中にあった いろいろなものを押し出しました。


 それは 今朝の会議のことであったり 業務の課題であったり こなさないといけない仕事であったりといった 常に気にかけていないといけない事柄でした。


 頭の中にあったいろいろなものが押し出された私は 惚けた状態になっていました。


 頭がボーッとなるのを感じながら「ふうー。」と大きく息を吐いた私は 気を取り直して 昼会の参加者へ「取り乱してすみません。ちょっと思い出したことがありまして 失礼しました。」と謝りました。


 

 先日の夏祭りと 今日の昼会での出来事は 「強靭で柔軟な心身作り」を目指す私に 笑いを求める取り組みについて いろいろ考えさせる事になりました。


 夏祭りの「たわし事件」の事例は 私を それまでに経験した事が無い程 大笑いさせリフレッシュさせました。


 大笑いしたのは 会社組織の再編や人員削減による仕事環境の変化から生じる抑圧に晒され ストレスを溜め込んでいたことがその背景にあり 「たわし事件」は 私のストレスを 大笑いと供に開放する作用がありました。


 しかし「たわし事件」は 非常に希な 偶然の出来事であり 私の「強靭で柔軟な心身作り」の取り組みの1つとして 今後 その様な笑いを求めることは 収獲の少ないことのように思えました。



 昼会の事例は 「たわし事件」とは異なるメカニズムで 私のストレスを発散させ リフレッシュさせました。


 衆目の前に立ち 緊張感を伴う状況で こみ上げてくる笑いを抑えようとすると 笑いの圧力に対抗するプロセスの中で 頭の中にある色々なモヤモヤを 外に押し出してしまう効果がありました。


 笑いの圧力による ストレスの排出は その圧力のために自身も呆然となる程でしたが 常日頃 気にしていることや 神経を刺激していることを 強引に押し出してしまうものでした。


 昼会の事例は 私の「強靭で柔軟な心身作り」の取り組みの1つとして 実現可能なものだと思われました。


 それは 笑いのネタを覚えて 衆目を集める場所で 笑うことのできない所に行けば良いのです。 


 例えば 会社の昼会の当番になって みんなの前に立つ場面や 業務報告会で報告する場面や 冠婚葬祭に列席する場面等です。


 私は 自分をリフレッシュさせるために それらの機会が訪れる前に できるだけ多くの笑いのネタを集めておくことにしました。    

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