第16話 リフレッシュ / 昼休みの囲碁

 ある日の午後3時頃 職場の休憩室で 私は自販機で買ったコーヒーを飲みながら 同じチームのメンバーと雑談を交わしていました。


 話題が囲碁のことになると 以前に勤めた会社で上司と囲碁を打っていた私は「この職場では囲碁をやる人はいないんですか。」と聞きました。


 囲碁は 2人の対局者が それぞれ白い碁石と黒い碁石を持って 碁盤上に切られた19本×19本の直交する格子点の361の地点に 碁石を交互に置き 獲得した陣地の広さを競うゲームです。


 囲碁は 棋力の違いがあっても 棋力の弱いものが 予め碁盤の所定の位置に碁石を置いて戦うハンデ戦ができるので 棋力によらず 誰とでも楽しめるゲームです。


 私の問いに 近くにいた福山さんは「私 やってました。」と言いました。


 30歳代後半、中背ふっくら体型、温厚そうな表情の彼は 訛りのあるイントネーションで「川緑さん 昼休みに 囲碁やりませんか。」と言いました。



 これまで 私は 会社の昼休みに 食事が終わると 居室に戻り パソコンでメールをチェックしたり 自社のポータルサイトにアップされた情報を見たり 検索エンジンで ニュースや技術情報等の社外情報にアクセスして過ごしていました。


 経営状況が悪くなって以来 会社は 社員の仕事の効率化を図る取り組みを始めていて その中で社外情報へのアクセスについて 閲覧できるサイトに制限を掛けていました。


 従業員の社外情報へのアクセスは 情報システム部でチェックされていて 業務と関係ない情報へのアクセスと判断された場合は 即時に モニターに「警告」の赤い文字が表示されました。


 ところが どの情報が業務と関係があり どの情報がそうでないかは線引きが難しく 社員の中には なぜ彼のパソコンのモニターに警告の文字が表示されたのか理解できないケースが多くありました。


 自分の仕事に役立てようと 技術情報サイトにアクセスしても  「警告」の赤い文字が表示されると 嫌な気分にさせられる事が多々ありました。



 そのような昼休みを過ごしていた私は 「昼休みに 囲碁やりませんか。」と誘われた時に 囲碁を打つことが 仕事のストレスを解消してリフレッシュさせるものかどうか試したくなりました。


 私は 「やりましょう。明日 碁盤と碁石を持ってきます。」と言いました。 


 すると 福山さんは「それじゃあ 私は 蛍光スタンドを持ってきます。」と弾んだ声で言いました。


 経営状況が悪くなって以降 昼休みには省エネのために居室の天井の蛍光灯を消すことになり 文字通りに暗い職場になっていて 囲碁を打つのには 照明が必要でした。


 

 翌日の昼休みに居室に戻った2人は 早速 折りたたみ式の碁盤を机の上に広げて「お願いします。」と言って碁を打ち始めました。


 福山さんの棋力は初段であり 私は1級くらいなので ハンデ無しの対局となり 黒石を持った 私は 右上隅付近に 石を置いて 対戦が始まりました。


 勝負事は 何であれ 初対戦の時は 独特の緊張感に包まれるものでした。 


 互いに 慎重に時間を使って打ち進めたので 昼休み終了5分前の予鈴が鳴った時には 勝負はつかず 二人は碁石を碁笥に戻して対局を終了することにしました。



 碁石を片付けながら 私は 以前に勤めていた会社の昼休みの休憩室の様子を思い出しました。


 そこでは多くの社員たちが囲碁や将棋の対局を行っていて それを観戦する人も多く居ました。


 「バシッ!」と碁石を碁盤に叩きつける音や 「あいたた!」とか「そりゃあ ないよー!」などと言う声が上がり 休憩室とは 名ばかりで 熱気にあふれた戦いの場所と化していました。

 

 この日の福山さんとの対局は 静かなものでしたが それまでの昼休みとは異なり 真剣に頭を使ったせいか 私の頭の中は熱気にあふれていました。



 翌日の昼休み 碁盤に向かった2人は 昼休み中に決着をつけようと 差し手を早めました。


 序盤は 思ったところに自由に石を置くことができますが 次第に相手の石とぶつかり始めると戦いになり 場面は緊張し 対局者は碁盤に集中しました。


 2人は 黙々と打ち進めて 中盤に勝負所があり そこで福山さんは 優位に立ちました。


 劣勢に立った私は 何とか逆転の道を探そうと 頭をフル回転させましたが 福山さんは 最後まで優勢を保ち 寄せきりました。


 終局すると 二人は碁盤上の石を並べて それぞれ獲得した目数を数えて勝敗を確認しました。


 「いやあ 参りました。またお願いします。」と負けを認めた私は 沸々としたリベンジ意欲に燃えていました。


 私は これまで昼食後に暗い居室で眠くなっていた時間帯に 囲碁の対戦で 頭をフル回転させたことで これまでとは違う新鮮な感じを覚えました。



 その後 昼食後に居室に戻った二人は お互いに相手を見つけると笑顔になり「囲碁打ちますか。」「もちろん!」と声を掛けるようになりました。 

 

 囲碁の対戦が習慣になると 私は 仕事のリズムに変化が起きていることに気付きました。


 囲碁を始める前の昼休みは 暗い居室で ぼんやりと過ごし 脳の機能が低下して エネルギーの消費量が少なくなり 体温が下がり 動きが鈍くなっていました。 


 そのような状態で 午後に会議や報告会があり座り続けていると 更に全身の機能が低下して 意識が遠のいていき 目を開けていられなくなっていました。


 会社の経営不振の常態化は 対策会議の場を多くし 参加したメンバーの多くは居眠りすることが多くなり 彼等は 会議が終わった後に 一体何の会議だったのは分らないという始末でした。


 昼休みに囲碁を打ち始めて以降 私は 対戦で活性化した自身の脳が 午後の会議中にも活発に動き 議題に上がる課題に対して反応していることに気付きました。



 私は 自身の変化を感じながら 以前勤めていた会社で 昼休みに 囲碁や将棋を指す人達の中に いい仕事をする人が多くいたことを思い出しました。 


 当時 私は 彼等がいい仕事をするのは 元々 彼等には深くものを考えることができる能力があるからだろうと考えていました。


 しかし 今の自身の変化を振り返ると 彼等がいい仕事をすることができたのは 昼休みに囲碁や将棋を打つことで 脳を活性化させて その状態で仕事に臨んでいたからだろうと考え直しました。



 ある日の昼休み 2人は いつもの様に囲碁の対局を始めました。


 この日は 終盤まで 優劣が分らない状態が続き 一手のミスが勝敗を分ける状況が続きました。


 そのような状況下で 両者は供に 打ち手が慎重になり 時間を使うようになりました。


 二人は 碁盤の隅から隅まで 見回し どこへ打つのが良いかを考え続け それぞれの頭の中は 高速で演算処理を行う計算機の様になりヒートアップしていました。


 そうなると 周りのことは見に入らなくなり 時間の感覚も無くなっていきました。



 時間は流れ 昼休みの終了前の予鈴がなったのに気付かず 碁を打ち終える前に 午後の業務開始時間を知らせる音楽が流れ始めました。


 二人は「いけない 時間です。」「急ぎましょう。」と言って 碁を打ち終わると 碁盤上の石を並べ始めました。


 居室の天井の蛍光灯が点けられ 机についていた社員等は 昼会に参加するために 居室の窓側中央付近に集まって行きました。


 二人は 勝敗を確認するために 碁盤上の陣地を 数えやすく整理して 陣地の目数を数えました。 


 僅差で勝利した私は「では また。」と言うと 急いで碁盤を片付けて 昼会の場へ向かいました。


 窓側の方へ歩きながら 私は あっと言う間に昼休みの時間が過ぎ去ったと感じたのと同時に 以前に 聞いたラジオの番組を思い出しました。



 番組は 昨年のクリスマスに外国で行われた「子供電話相談室」を取り上げたものであり 電話を通しての子供の質問に ノーベル賞を受賞した学者等が答える様子を紹介したものでした。


 番組の中で 質問者の女の子は「楽しい時は 直ぐに時間が過ぎるのに つまらない時は なかなか時間が過ぎないのはなぜ?」と問いました。


 生化学分野の学者は「人の脳は 体内の脈動をカウントすることで 時間の流れを感知しています。 でも 楽しいことがあると そちらへ意識が向いてしまい 脈動のカウントを忘れてしまうので 知らないうちに時間が過ぎたように感じるのです。」と答えました。


 その話が頭を過ぎった私は 自分の脳が時間の経過を忘れてしまうくらいに 囲碁の対局を楽しめたのだと思いました。



 職場の昼会は 当番制で行われ 当番は 窓側に立ち「昼会を始めます。」と言うと 社訓を唱え 皆は 彼に追従しました。


 昼会の最後に 当番は皆へ向かって「連絡事項はありませんか。」と言うと 私の所属するチームのリーダーが挙手をして 前に出できました。


 彼は こちらを振り向くと「いうまでもないことですが 業務期間は厳守しましょう。 誰のことを言っているのか 本人たちは分ると思いますが。」と私達のことを暗に指し示しました。  

 

 衆目の中での彼の発言は 業務時間厳守を職場の全員に訴えるものでしたが 同時に当該する二人を吊るし上げるものでした。



 晒し者にされていると感じながら 私は その原因となった昼休みの囲碁が「強靭で柔軟な心身作り」に効果があるのかどうか 改めて検証してみました。 


 昼休みの囲碁の効果の1つは 会社で過ごす時間の中に 1つの楽しみを持てたことでした。 


 囲碁を打つ前までは 朝の集金時間から夜の退社時間までの間に 仕事の課題以外に何か考える時間は少なく 会社で過ごす時間は 会社の経営を改善するための課題解決を考え続けるものになっていました。


 おいそれとは解決できない課題を抱える中 業務の進捗報告会が予定されている日の朝には 私は 暗い気分になり 会社へ向かう足取りが重くなりました。


 そんな日でも 昼休みの囲碁の対局を思い浮かべると 私は ちょっと嬉しくなり 会社へ向かう足取りが軽くなりました。


 

 昼休みの囲碁の効果の1つは 頭の中を空にしてリフレッシュできることでした。


 囲碁の対局中には 勝つか負けるかの局面があり それは対局者の全神経を集中させるものであり 私の脳の働きを極限状態にまで高めるものであり その結果 外部からの刺激を遮断する作用がありました。


 その作用は 午後に予定されている会議のことを忘れさせ 会議の中で追求される局面を忘れさせ その追求を防御しようとする自身の緊張感を解放し 頭の中を空にする効果がありました。


 これらの昼休みの囲碁の効果は 私の会社生活にメリハリを与え 目標とする「強靭で柔軟な心身作り」を推進するように思えました。



 昼休みの囲碁は 私を 現実から離れた勝負の世界に誘い 業務開始の時間も忘れさせるものでしたが それは業務管理を徹底しようとする職場では 許されないことでした。


 私は 昼休みの囲碁は止めることにして 「強靭で柔軟な心作り」のための別の取り組みを考えることにしました。

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