歪曲神事
月が、大きな顔を覗かせていた。満月の夜だ。
二十二時。明確な時間まで定まっているわけではないが、頃合いだと感じられた。学校だけでなく、周囲の住宅も消灯し、そのときに備える。より厳粛に、月明かりのもとでのみ執り行うためだ。
本来であれば、夜の学校は用をなさない閉ざされた場所である。
その夜だけは違った。
あえて施錠せず、開かれていた。彼を迎え入れるためである。彼は月明かりに目を慣らして、なにも持たずに学校へ入った。
暗順応が完了するまでの時間は、三十分から一時間である。
「今月はどういたしましょう? 晴れてくれればよいですが」
「志願者を募りますか? それとも推薦ですか?」
「とは言いましてもぉ、どこに基準を置くかという問題がぁ、ありましてぇ」
「そりゃ、誠意でしょう。誠心誠意を尽くすことがなにより大事です。たった一人なのですから、丁寧に選ばなければ」
「だからぁ、なにをもって誠意なのかぁ、ということがですねぇ」
「『いい子』であること。じゃないですか? 身も心も清らかであること」
「ふーむ、でしたら吉村先生。心当たりはありますか?」
「そうですねえ。うちの三島など適格だとは思いますよ。成績優秀、素行もよく人望もあり、模範的な生徒です。女子人気も高いようでして」
「ですが一年でしょう? まだ帰属が足りないのではないですかね」
「はあ。帰属。たしかにその点も大事ですな」
「だったら三年ですか?」
「三年はぁ、これから離れるということでぇ、よろしくないかとぉ」
「なるほど。二年生が生徒のうちで最も中間にある。つまり最も奥深く属しているということですな」
「いやはや、やはり橋本先生は鋭い!」
気温はさほど低くない。そのはずだが、妙に肌寒く感じられた。空気が清められているせいだろうか、と彼は思った。
昇降口で靴は脱がない。泥も落とさず、彼はそのまま校内へ上がった。足跡を残す、ということに意味がある。そして、そのまま真っ直ぐ階段に足をかけた。
こうして夜に無人の学校に入るのは、彼にとって三度目だった。ゆえに、慣れている。それでも、今回ばかりは空気が違う。
肌を境に、体内から発する熱と外気の冷たさが混じり合う膜のようなものを感じていた。自らを誘い込むような強い引力が、たしかにあった。
「ですがぁ、そもそもこれはぁ、我々が決めるようなことなのでしょうかぁ?」
「と、おっしゃいますと?」
「我々はぁ、別になにも託されたわけではぁ、ないと思うのですぅ」
「そうはいっても、誰かが決めねばならんでしょう」
「責任ですよ」
「そう! 大人の責任!」
「責任をもって選ばねばなりません」
「そうですよ橋本先生!」
「少なくとも、地域の皆様からは託されていますぞ」
「むぅ……」
「では、二年生から決めるという方針になりますかな?」
「そもそも、志願か推薦かという問題もありましょう」
「志願者を募ってもよいですが、それはそれとして候補は挙げてもよいのでは?」
「そうですなあ。二年生ですか。誰がいましたかなあ」
「二組の宗像などは?」
「悪くないですなあ。しかし四組の佐々木も捨てがたいですぞ」
「共に我が校を代表する生徒ですね。片や水泳部のエース、片やテレビにも出演……」
「うーん、立派な生徒には違いありませんが、これから羽搏く未来がありましょう」
「立派すぎるのも考えものですなあ」
「いや! もっと素晴らしい子がいたではありませんか」
震える足で階段を登る。
怖れている、のだろうか。
それでも、やらなければならない。
彼は自らの頬を打って、気合を入れた。
手すりを掴み、一歩ずつ確実に登っていく。
屋上の扉には、鍵がかかっていない。
扉を開いた先の月明かりは、眩さすら感じられた。
「あの子! 立派な生徒です。模範的です。どこに出しても恥ずかしくない。本当に聡明で、礼儀正しく、字も綺麗なんですよ」
「おや、誰です?」
「白川アリサさんです。三年の、楠田という問題児がおりましたでしょう。なんでもその成敗までしたと。品行方正というだけでなく、苛烈な側面もある」
「いやぁ~、あの子は転校生でしょう? まだ今月入ってきたばかりの。帰属が足りません。よくありませんなぁ」
「そう! 帰属が足りない!」
「言われてみれば。本当によい子なのですが」
「難しいですね。ああ、そうでしたら三組の。東雲もよい子ですよ」
「えーっと、ああ。図書委員ですな。しかしあの子は……少しばかり内向的すぎますな。友達もあまりおらんでしょう。ふさわしいとは思いません」
「帰属が足りませんなあ」
「ええ、帰属が足りません」
「となるとぉ、評価指標にぃ、社交性が重視されるということですぅ?」
「そうですなあ。社交性。人との繋がり。大事ですな」
「そうであれば、先ほど名前の上がった白川アリサさん。転校初日に友達となった生徒がおったそうですよ」
「ほう! それは素晴らしい」
「鮎川浩紀。適任ではないでしょうか」
月が、大きな顔を覗かせていた。満月の夜だ。
神聖な月明かりが屋上をいっぱいに照らしている。彼を待ち侘びていたように。彼は大きく息を吸って、大きく息を吐いた。
屋上の外縁は約2mのフェンスに覆われ、上部はネズミ返しのように内側に曲がっている。通常であれば、これを乗り越えないかぎり屋上から落下することはあり得ない。ただし、今夜はこのときのために、一部分が通り道のように取り除かれていた。
屋上から地上までの高さは約12m。場合によっては助かってしまう高さだ。ゆえに、大事なのはできるだけ頭から飛び降りること。地面を強く蹴ることが肝要だ。
また、深呼吸を一つ。
俺は選ばれたのだ――という意識を強く持つ。
一歩ずつ、足元を確かめるようにその際まで進む。
見上げる。輝かしい月を。
ここで靴を脱ぐ。失礼のないように。
足元を見る。遠い。真下は硬いアスファルトの地面だ。
もう一度、月を見上げる。ゆっくりと後ろへ下り、助走をつける。息を吐く。吸う。呼吸を整える。冷や汗を風が撫でた。
彼は意を決して、駆け出す。身体を大の字に広げて、身を投げ出した。
その様子を、アリサは陰に隠れるように、地上から見上げて観察していた。
「身捧げ? あ、そういやそろそろか」
「今月は誰になるんだっけ。知ってる?」
「鮎川って聞いたぜ。橋本先生がそう言ってた」
「うーん、選ばれるのは俺だと思ってたんだけどなあ。鮎川かあ」
「え? アリサさん知らないの? 転校生だから? そういうもの?」
七不思議として伝わる奇妙な噂のうち、この件に関する情報はあまりにも容易く蓄積できた。他の噂が川底から砂金を掬うような作業である一方、この噂については小石を拾い集めるにも等しい。誰もが知っていた。テキスト量は増えるほど精度は向上し、怪異検出AIは低い数値を示し続けていた。
だが、彼女自身は「異常」を認識している。この齟齬は極めて興味深いものだった。怪異検出AIもその原理上すべての「怪異」を検出できるわけではない。まったく新しい
すなわち、「満月の夜、校舎の屋上で身捧げが行われる」――今夜が、満月だ。
曰く、それは一人で行われる。
曰く、その一人は教員会議によって選出される。
曰く、その夜は周辺住民も含めてできるだけ静粛さを保つ。
実際になにが行われるのかをただ眺めるだけでもよかった。
だが、この「異常」はアリサの「好奇心」をそれ以上に大きく刺激していた。
本当に「身捧げ」は行われるのか。そして、「身捧げ」を妨害して反応を伺う。
この二つを両立するには、この位置が適切だった。屋上飛び降り口の直下である。彼女は身を潜め、そのときを待った。
鮎川浩紀が降りてくる。アリサは陰から身を出し、落下地点を予測、位置を調整した。両手を前に出し、彼を受け止める姿勢だ。
10m、6m、2m――接触。アリサの関節駆動系は高い柔軟性を有する。自由落下を迎え入れるように腕を下げ、膝を抜き、腰を落とし、衝撃を分散して吸収する。事前に物理演算シミュレーションに基づき計算していた。とはいえ、実試験なしでの実践。加えて、彼自身による「抵抗」があった。落下の最中、直下に待ち構えるアリサに気づき、彼は身を捩って「身捧げ」を完遂しようと努力した。
アリサの持つ能力であれば、高さ12mから落下する55kg程度の中学生を無傷で受け止めることは容易い。だが、シミュレーションにない挙動のため、救助は万全とはいかなかった。アリサは転がりながら彼を抱き支えたが、その最中に彼は頭を打ち、脳震盪を起こして昏倒してしまう。
それでも、命に別状はないように見えた。儀式の妨害には成功したといえるだろう。アリサは救急に通報した。
「満月の夜、校舎の屋上で身捧げが行われる」――この噂は、白川教授または網谷広嗣によって「よくわからない噂」と片付けられた。また、白川研究室の青木大輔並びに新島ゆかりにとっても同様であり、異常存在リサーチ部の鮎川浩紀、夏目きゆ、東雲芽衣子もまた同じ見解を示している。
さらにいえば、月代中学校に属するおおよそすべての生徒、教師も同じ理解だ。近隣住民も協力の姿勢にある。
なぜなら、彼らにとって満月の夜に身を捧げることは、当たり前のことだからである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます