対怪異アンドロイド開発研究室⑧
近城大学・白川研究室。
またの名を「対怪異アンドロイド開発研究室」という。
その名の通り「アンドロイド」をテーマとした工学部の研究室であるが、特筆すべきは「対怪異」という点にある。
おばけ、妖怪、超常現象――そういった人智の及ばぬ存在を「怪異」という用語で定義づけ、「現実にある」という前提で調査・研究を行う。民俗学や文化人類学のアプローチとはまったく異なるものだ。
学生のお遊びでオカルト研究会などが設営されているのとはわけが違う。権威ある「研究室」として活動している。
ただし、「対怪異」の部分でまともに関わっている研究生はわずか二名。
その奇特さと、身に迫る恐怖から多くのメンバーが離脱した。残ったのは六名、うち三名は「アンドロイド」の部分でのみ関わり、「怪異」とは距離をとっている。未だ「怪異調査」に精力を出しているのは、白川教授を除けば二名。
学部生の新島ゆかりと、院生の青木大輔だ。そして多忙の身である教授は不在で、現在研究室にいる人間はこの二人だけである。
「ヤバくないですかこれ」
アリサの記録映像を眺めながら、新島はつぶやいた。
「数時間昏倒していた、ってことで病院で精密検査をしてもらったけどね。血液検査に尿検査、血圧に心電図、あるいはCTやらMRIやら。とにかく異常なし。本人の自己認識としてもね。今も問題なく学校に通ってるよ」
「じゃあよかったじゃないすか」
「どうだかね」
鮎川浩紀が消えたあとも、アリサは泥塗れの鏡を観察し続けていた。夏目きゆが泣きじゃくりながら帰ったあとも、鏡の前で安定姿勢を取りカメラを向け続けた。
鏡が泥に塗れていた、という噂はない。異常存在リサーチ部の二人にとってもまったく未知の現象であったらしい。であるなら、朝までこの状態が持続する可能性は低いだろうと彼女は判断した。どこかのタイミングで泥は消えてなくなるのではないか。そう仮説を立てた。
そして四時間。変化が生じた。
泥が生き物のように蠢き始め、一箇所に寄り集まっていく。うねうねと静かに波打つように、やがてそれは一つの塊になった。塊はさらに大きく、鏡に塗れていた泥の体積を上回るサイズに膨れ上がる。まるで鏡の奥から新たな泥が供給されているかのように。そして泥の塊には形が生じてくる。丸みを帯び、あるいは棒状に細り、具体性をもって鏡から這い出てくる。
それは人の形だ。
ずるりと、肩が出て、まずは胸像のように。腰が出て、脚が出て、びくびくと痙攣しながら。足先から鏡を離れ、打ち捨てられた魚のように泥の塊は床へと転がった。
曖昧な形が確かなものになっていく。みるみるうちに泥の造形はディティールを深め、関節、手指の形、爪先、目鼻、髪の毛までも判別可能になり、個人の特定も可能になった。
鮎川浩紀である。
そのまま泥は肌を髪を服をより高精度に再現し、残るのはただ踊り場に転がる一人の少年となった。
その映像を、新島と青木はすでに何度も観ている。
実のところ、CG技術でいくらでも再現可能な映像だ。アリサの能力でも似たような動画は生成できる。そうではないと知っているから意味を持つ映像に過ぎない。物証となる泥もほとんど残っていないし、泥そのものに異常はない。最終的に鏡からすべての泥は消え失せ、普段と変わらぬ輝きで踊り場を映している。
なにかがあったという証拠は、一晩ですべて消えた。
「アリサが回収した泥のサンプルも、まあ特になんの変哲もない泥だよ。ただの粘土。ケイ酸塩鉱物。地質学部に調べてもらったけど、産地の特定もできなさそうだ」
「となると、客観的には三人の生徒が夜の学校に侵入。一人が鏡の前で四時間寝てた。そういう感じになるんすかね。浩紀くんもそのへん特に記憶ないらしいですし」
「それでも十分怪談だけどね……」
「で、再現性もないんすよね。アリサちゃん無事ですし」
異常存在リサーチ部の鏡巡りから数日が経っている。アリサはその翌日にも同様にロッカーに潜み、単独で同じ鏡を調査した。だが、泥が発生することもなければ飲み込まれることもなかった。怪異検出AIでも数値は1%以下だ。
「私が人間ではないからかもしれませんが」
結局のところ、彼らの「怪異調査」はこのような結末を辿りがちだ。
「怪異はある」という前提で活動し、そのような事例に複数遭遇してはいるものの、「決定的な証拠」にまでは至らない。そもそも、「噂」がどこから発生したのかも不明だ。鏡になにか謂れでもあったのか。鮎川浩紀と同じように「存在しない友人」に惑わされたものが他にもいたのだろうか。アンドロイドをもって挑んでも、雲を掴むかのようだ。
対怪異とは、かくも手強い研究テーマなのである。
「これって、どう解釈すればいいんすかね先輩」
「……鮎川浩紀は鏡の中に消えた。鏡は泥に覆われていた。四時間後、泥が鮎川浩紀になった」
「泥塗れで鏡の中から出てきた……ってわけじゃなさそうっすよね」
「うん。明らかにこれは、泥が人の形になっている。泥塗れの人の上から泥が消えたわけじゃない。その場合でも十分よくできた手品だけど」
「となると……今の浩紀くんは泥人間!」
「そうなるよな……」
青木は天井を仰いだ。教授の説明はなんだったかと思い出す。
放っておいても、中学生は勝手に調査する。危ないからやめろ、といったところで子供は大人の目を盗む。だったら監視の目をつけた方がよい――とかなんとか。
アリサを投入したことで、状況は明らかに加速している。あるいは、アリサがいなければ夜の学校に潜入などそもそもできなかったのではないか。嫌がる二人を無理やり引きずっていく光景も、モニターしていて冷や汗ものだった。
そしてこうなることは、初めからわかりきっていたことでもあった。アリサは「怪異調査」を最優先の行動原理とするアンドロイドだからだ。
今回の月代中学校への潜入は、網谷氏からの提案だという。網谷氏は白川教授の友人であり、研究室と提携関係にあるアミヤ・ロボティクスの社長である。
甥である鮎川浩紀が心配で、とのことだったが、彼にはこの事態が予想できなかったのだろうか。かつて新島もアリサを「護衛」にしようとして同じような目に遭っているが、まさかアミヤの社長が新島と同レベルの予測能力しか持たないとは思えない。
研究室としては、七不思議を調査できるなら願ってもないことではあるが。
「鏡と泥からの連想にはなるけど……今の鮎川浩紀は、鏡から生み出されたコピー人間。そう考えるとしよう。姿形はもちろん、記憶も人格もまったくその通りにコピーされてる。本人からも他人からもまったく見分けがつかない。だとしたら、なにか問題ある?」
「怪異検出AIで見ると1%だけ増えてるんですっけ」
「まあ、でも1%じゃあね。お前だって増えてるだろ」
「はい。なぜか9%です」
「じゃあ問題ない?」
「うーん。どっかで本性表して人間を襲いはじめたら問題ですけど」
「少なくとも外見上は正常。他人の内心まではわからない。ましてや人間でないなら……たとえばアリサなら、内部パラメータと無関係に表情筋を操作できるわけだし」
「あ、そういえばアリサちゃん! あれやって!」
新島はメンテナンスチェアに横たわるアリサに声をかける。
「気になってたんだよね。映像記録ってアリサちゃん視点だからさ。満面の笑みってやつ。どんな顔だったの?」
「にこー」
「うわ! キモ!」
「スン……」
「あ、ごめん。さすがにキモいは言いすぎたね……いやでも!」
まだ言うことがあった。
「なんだっけ、『私の識別名としては「アリサ」の方が適当です』――だっけ。あの台詞! 人間の生徒として潜入してる自覚ある? 演技下手すぎ!」
「正確性を期した表現です」
「またすぐ言い訳する! さっきの笑顔もアレだったからね?」
と、演技指導の後、話を戻す。
「えーっと。今の浩紀くんはコピーかも知れない。でも、『完璧なコピー』なら別に問題ないんじゃないか。先輩はそう考えてるわけですね? うわ、ありがちな哲学議論……」
「そんな哲学の思考実験が現実の問題として横たわってくると頭が痛いね」
ちらり、と青木は横目でアリサを見る。
今のアリサは、彼らがよく知るアリサではない。子供型ボディに記憶・人格データをコピーした、いわば「アリサβ」である。オリジナルの「アリサα」はアミヤ・ロボティクスにて今も修理を受けている。
仮にアリサβが子供型ではなくαと同じ大人型であったなら、両者を区別することはできないだろう。だが、それで特に問題はない。アリサの機体は設計図があるから予算さえあれば量産できるし、ソフトウェアはデジタルデータなのでコピーできる。
ならば、人間も同じことではないか。
「でも、もしコピーなんだとしたら……オリジナルはどうしてるんすかね」
「そこなんだよな……」
仮に今の鮎川浩紀がコピーされた泥人間だというなら、オリジナルは未だ鏡の中に囚われているのではないか。そのように想像できる。
だが、あくまで想像にすぎない。彼がコピーされたという証拠もなければ、鏡の中に囚われているという証拠もない。客観的にはやはり、鏡の前で四時間昏倒していた少年がいただけなのだ。泥についても、ただの見間違いと処理してなんの問題もない。
「そういや四時間、ってのもなんなんでしょうね」
「消化……」
「え?」
「消化にかかった時間が、四時間」
「え……」
「いや、単なる連想だよ。それでまったく同じものを吐き出すなんて、意味わかんないだろ」
「……やっぱり本性隠してて、人間と一人ずつ入れ替わろうとしてるんじゃ」
「そうでなくても、なにか後遺症はあるかもしれない。けど……それも経過観察かな。もしかしたら、と考えたらキリがない。問題はなかった、と今は考えよう」
「いえ、やっぱり一つだけ重大な問題があると思います」
新島は真剣な顔で話す。
「浩紀くん……アリサちゃんに恋しちゃってません?」
「あー……」
二人は主犯であるアリサの顔を眺めた。
アリサのモデルは教授の妹である白川有紗という人物だという。彼女は十二年前から失踪しているらしい。こんな人間が本当にいるのか、もしかしたら教授の美化が入っているのではないか、というほどに「美人」として造形されている。
たしかに、こんな子が転校生としてやってきたのなら。多感な男子中学生はイチコロかもしれない、と新島は思った。
「それは問題ではないと思います」
と、アリサ。
「私の容姿・姿勢制御・言動・機能、あるいはそれらの複合によって人間の感性を刺激し魅了しているのであれば、調査のモチベーション向上に繋がり、有用な協力者として期待できます」
「うーん、最悪!」
こんなアンドロイドに振り回されるであろう少年を思うと、哀れだ。これからの活動が思いやられる。あるいは、早々に中止した方がよいのかもしれない。
七不思議は、あと六つ。
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