偽想鏡面③
「無理無理無理無理!」
夜の学校で、二人の中学生が駄々を捏ねている。
一体のアンドロイドがその手を掴み、強引に引きずっている。
生体筋に対し五倍の発生力を持つ
「力つよっ……強すぎだろ!」
鮎川浩紀の語る「友人」は実在しなかった。
夏目きゆの指摘によって、彼はそのことを思い出す。具体的な顔も名前もわからないまま、「鏡を調査して消えた」という不自然な記憶だけがあることに気づいてしまった。そもそも、どうやって夜の学校に侵入したのか。「友人」だというなら、なぜ浩紀を誘わず一人で行ったのか。考えれば気づいていたはずの違和感に、彼は気づかなかった。まるで、なんらかの意図によって偽りの記憶を植えつけられていたかのように。
だとしたら、それはなにを意味するのか。
つまり、誘われていた――のではないか。
彼らの連想は繋がり、「最後の鏡」の調査を断固として拒否するようになった。一方で、俄然と怪異の確率が増したのでアリサにとって調査意義はより大きなものとなった。
「待て。待ってくれ。わかったから」
なにがわかったのかはわからないが、無理やり連れるより正式な協力が得られる方が効率的なのは確かだ。アリサは彼らを引きずるのをやめ、話を聞いた。
「ここまで来たなら、覚悟を決める。このままだとモヤモヤするし」
「いやヤバいって。いくら浩紀がバカでも、存在しない友人の記憶があったとか……。どう考えても異常だって。嘘ついてるわけでもないでしょ? あんな絶妙な演技できるわけないし」
「俺もビビってる。怖ぇよ。ついさっきまで本気で、なにもわからない友人がいると信じてたんだ」
「だったら……!」
「それでも、逃げ帰るわけにはいかない。俺たちは異常存在リサーチ部だ。これはもしかしたら、初めて出会う『異常存在』かもしれないんだ」
意見は割れ、いくらか議論を続けていたが、どうやら鮎川浩紀に傾いたようだ。アリサは二人の手を離す。ちなみに、アリサは人間の微表情を分析する能力も持っている。彼らの態度が嘘や演技でないことは高い精度で確信を持っていた。
「……行こう。なにかあったら助けてくれ」
残るは、南校舎・西階段。二人の歩みは侵入当初のように慎重なものになっていた。おっかなびっくり、高い緊張感が伺える。とはいえ、どれだけ遅くとも一分もかからない距離である。目的地にはすぐに辿り着いた。
「よしっ!」
鮎川浩紀は拳を握り、階段奥の闇を見上げている。夏目きゆは隣でなにか言いたげに口を開いたが、言葉が出てくることはなかった。
彼は同様にロープを手に取り、腰に結びつける。結び目の固さを何度も慎重に確認していた。
「夏目、心配すんなって。単に俺がバカだっただけかも知れないだろ。なんだったら命綱もあるし」
そういい、笑顔を見せて彼は階段を登っていく。アリサと、そして夏目きゆもロープの端を強く握った。一歩ずつ、ときおり大きく息を吐きながら、彼は段を上がっていく。LEDライトで足元を照らし、手すりに掴まりながら、足場をしっかり確かめるように。
そして、踊り場に足を踏み入れる。少しだけ振り向いて頷くと、彼の姿は死角に隠れた。彼は今、鏡の前に立っているはずだ。
「な、なんだこりゃ」
その言葉とほぼ同時に、ロープが床に落ちる音が聞こえた。超音波による反響定位でも、彼の姿を捉えられない。ロープの弛みに変化があったことに夏目きゆも気づいたようだった。
「鮎川浩紀さん。なにかありましたか」
呼びかける。返事はない。
「浩紀!?」
夏目きゆが駆け出す。「異常」の発生は確実であるため、アリサも階段を上がる。「人を飲み込む」という現象が複数人に対して何度も起きるというのであれば、次の被害者は夏目きゆになるだろう。彼女が鏡の前に到達した直後を狙って、踊り場に足を掛ける。
「な、なにこれ……」
彼女は無事だった。鏡の前で呆然としている。
ただし、それが本当に鏡であるのかは不明だ。
一面が泥に覆われ、なにも映してはいなかったからだ。
湿った、重力の影響で垂れ落ちようとしている粘性の高い泥だ。
鏡がかかっているであろう長方形の面が、得体の知れない泥によって塗れている。
その手前には、解けたロープとLEDライトが落ちていた。
「……浩紀? からかってるわけ?」
夏目きゆは三階の方を見上げた。常識的に考えるなら、鮎川浩紀が隠れる場所は上階しか考えられない。だが、そのような足音は聞こえなかったし、ロープを解く速度も早すぎる。なにより、鏡には明確な「怪異」が検出された。その確率は、実に90%である。
鮎川浩紀は鏡に「飲み込まれて」しまったのだろうか。アリサのカメラは100ピコ秒の時間分解能を持つが、死角に隠れた姿まで捉えることはできない。決定的瞬間を撮ることができなかったため、新たな疑問が生じる。
「鮎川浩紀さんはこの泥に覆われた鏡を覗いたのでしょうか。それとも、鏡を覗いたことで泥が発生したのでしょうか」
「知らないけど! なにこれ手品かなにか? もしかして浩紀と共謀してる!?」
「そのような事実はありません」
「ああもう! 浩紀ー! いい加減にしないと……! あ、そうだ」
彼女はスマートフォンを取り出し、震える手先でなにか操作する。耳に当てたことから、電話をかけているのだとわかった。
「出ろ出ろ出ろ……」
音が聞こえる。おそらく初期設定の、騒がしい着信メロディ。
その音は、鏡の中から聞こえた。
***
夢だったのだと思えればよかった。
どれだけ探しても浩紀の姿がない。そんなことが現実であるはずがなかった。
そもそも、急に入部して来て調査に精力的で夜まで学校に潜んだり長いロープを当たり前に持参している異常女の存在からしておかしい。
慌てて帰って、シャワーで汗を流して、パジャマに着替えた。
きっと夢だ。最悪の悪夢だが、目が覚めれば笑い話だ。眠るまでが夢の一部だ。
そのはずだった、のに。彼女はその夜、眠ることができなかった。
ベッドに入っても動悸が落ち着かず、ぐるぐると思考だけが巡っていた。
どれだけ姿勢を整えても眠りにつくことができなかった。
結局一睡もできずに、朝を迎えることになる。
胃がムカムカしている。微熱もあるような気がしている。
それでも。
朝になれば、億劫でも身体を起こして学校に向かわねばならない。
もしかしたら、浩紀も当たり前のように登校しているかも知れないからだ。
鏡に映る自分の顔は悲惨そのものだった。それこそ、死んだ魚のような目をしている。本当に瞳のハイライトが失われることがあるのだと笑えてくる。顔を洗い、歯を磨き、寝癖を直す。眠れてもいないのに寝癖ができているとは皮肉だな、とまた薄く笑う。
鏡。ただ光を反射するだけの物体だ。「鏡の中の世界」を題材にしたファンタジーや怪談は多いが、なにがそんなに想像力を刺激するのだろう、と思う。こんなものに、なにかあるはずはないと、手で触れる。
浩紀が消えた。鏡の前で。
夢ではなくとも、きっとなにか勘違いがあったのだ。浩紀も、存在しない友人を捜していた。
――あれはいったい、なんだったのか。
思考は未だ、ぐるぐると巡り続けている。
ぼーっとしたまま、気づけばほとんど無意識に、曇り空の通学路を歩いていた。ふと、浩紀の家を訪ねることを考えたが、やめた。わざわざそうして確かめるのが、怖かった。
そしていつの間にか、校門の前まで差し掛かる。
見慣れた学校が色褪せて見えた。ここまで来て、やっぱり帰ろうかという気がしてくる。
ふと振り向くと、ワゴン車から降りてくる女子生徒の姿を見かけた。車通学の子もいるのか、まるでお姫様だなとまで考えて、それが見知った女だと気づく。
アリサだ。夏目は思わず、激昂して弾かれたように駆け寄っていた。
「あんたの、あんたのせいで……!」
行き場のない感情が爆発した。
「なにか問題がありましたか?」
「は、はあ!? なにかって、あんた、はあ……!?」
胸ぐらを掴むが、アリサはビクともしなかった。綺麗な顔を一ミリだって歪ませることもない。それがまた彼女の頭を加熱させる。
筋違いだという自覚はあった。そもそも、浩紀を「異常存在リサーチ」なるものに焚きつけたのは彼女自身なのだから。その自覚も、誰に向けるべきかわからない怒りに押し潰されそうだった。
「おい! なんで俺を置いてったんだよ!」
聞き覚えのある声が、駆けてくる。
浩紀は、当たり前のように登校してきた。
いつものように、やたらデカいバケツのようなリュックを背負っている。
「おはよ。アリサちゃんも。ん? なんか喧嘩してた?」
浩紀はきょとんとしたまま、変わらぬ間抜け面を見せている。夏目は目を丸くし、あんぐりと口を開けたまま言葉が出ない。きっと、もっと間抜けな顔をしているはずだ。彼女は茫然としたまま、浩紀の顔を見つめていた。
「おいおい、めちゃくちゃ月並みな台詞いうけどいい? 俺の顔になにかついてる?」
「……その、どうしたの」
彼女は喉の奥から振り絞った声で問う。
「どうしたって? 俺の台詞だよ。まあいいや。もう急がないとまずいぜ。夜遅かったから危うく寝坊するとこだった」
浩紀は駆けていく。本当に、なんでもなかったように。
夢ではなかった、はずだ。浩紀と、そしてアリサと共に、夜の学校で鏡巡りをした。そこまでは現実のはずだ。
――だが、そのあとは?
奇妙な違和感のために、夏目きゆは足を止めた。
「あれ、浩紀の眉毛って……」
どっちだっけ? と思ったが、彼女はあまり深く考えないことにした。浩紀が無事である以上、きっと重要なことではないはずだからだ。
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