本編2『AMASERAKUTO』

<プロローグ>

64.一年後の春

「伸尋ー。ご飯だよー」

 階下でふすまの開く音がして、それから祖母のタヱ子が孫の名を呼ぶ声がした。

 伸尋は作業していた手を止め、祖父母の待つ茶の間へと向かう。普段と変わらないこの生活空間がやけに広く感じられるのは、一年前に大切なものを手放したからにほかならなかった。

 八畳ほどの和室の中央にテーブルが置かれ、その一辺にタヱ子と俊之は座っていた。

 伸尋は祖父・俊之の向かいに座り、一拍おいてから茶碗に手を伸ばす。自分のご飯をよそい、別の茶碗に手を伸ばしかけ、はっと気付いてその手を止めた。

「そういえば叶依ちゃんが出ていって、もう一年になるんやなぁ」

 ふーっ、と大きな溜息をつく伸尋の前で俊之が口を開いた。

 一年前、高校卒業後に寮を追い出された叶依は伸尋の家に住むことになった。

 叶依が入る予定だった部屋は荷物で一杯になってしまったので、叶依が寝泊まりすることになったのは伸尋の部屋だった。

 仕事がない日、叶依はたいてい家にいた。

 ギターを弾いたりタヱ子に料理を教えてもらったりして、楽しそうに過ごしていた。その傍らで伸尋は俊之と将来について話し合いながら料理が出来るのを待ち、それを食べるのが好きだった。

 食事の時、いつも叶依は伸尋の横に座っていた。

 炊飯器は伸尋と俊之の間に置かれていたので、タヱ子の分は俊之が、叶依の分は伸尋がよそうというのが習慣だった。

 けれど今、叶依はここにいない。

「今月中に上京する」

 高校卒業数ヵ月後のある晩、叶依は伸尋に言った。

「今までは学校あったからこっちに住んでたけど、これからは仕事も増えるし学校ないから東京にいて欲しいって言われた」

 せっかく一緒に暮らし始めたのにまた一人暮らし、しかも大阪から遠く離れた東京。

 前は寮母がいたけれど、これからはいない。

 かなり心配ではあったけれど、伸尋は叶依を快く送り出すしかなかった。

 翌月から母校のバスケ部にコーチとして雇われていたので叶依について上京するわけにはいかず、ほんの少しではあるけれど身体が衰えてきている祖父母を残して家を出るなど、伸尋に出来ることではなかった。

 叶依と分かれる寂しさに追い討ちをかけたのは「多分海輝のところに行く」という、信じ難い発言だった。

 あまりに衝撃的で、伸尋は耳の奥で銃声を聞いた気がした。

「マンション借りても夜しか使わんと思うし……それやったら誰かのところに入れてもらうほうが安くつくし──伸尋が嫌なら部屋借りるけど」

 悩みに悩んだ結果、伸尋は叶依が海輝──元彼の家に移るというのを『絶対に封印は解くな』という条件付きで承諾した。

 三年前の冬、海輝は叶依の兄貴になるということをラジオによって公にした。それ以来、伸尋が持っていた海輝に対する負の感情は徐々にプラスの感情に変わろうとしていた。

 それを完全なプラスのものにし、海輝は本当に『兄貴』という仕事をこなせているのか見極めようというのが、今回の決断だった。

 叶依が出ていってから、伸尋は毎日の生活に物足りなさを感じていた。叶依が来る前に部屋に一人でいたのとは別の孤独感が、いつも伸尋を苦しめた。

 数週間に一度戻ってきたり、たまにテレビや雑誌で見つけた時は嬉しかったけれど、やはり海輝と生活しているということを考えると悲しみに打ちひしがれ、無意識に叶依のご飯をよそってしまう日々が何ヵ月も続いた。

 LINEや電話も時が経つにつれて回数が減り、ついに一年後の春、連絡は途絶えた。

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