22 隣人の骨
十
後日、僕が塾に行くと、机が一つ増えていた。
誰か新しく入塾したんだなあ、なんて思いながら自分の席に着くと、不意に後ろから、とんとんと肩を叩かれた。
振り向くと、そこには見覚えのある女生徒の姿がある。しかし、はて? どうして彼女がここにいるのだろう。
「今日からよろしく」
横川さんが言った。
彼女の言葉と、新しい席。それを交互に思い浮かべて、ようやく合点がいった。
「塾に入ったんだ」
「うん。あまりにも成績が悪いから、問答無用で入れられたの」
入れられた、という割には、気落ちした様子はない。
「お母さんが?」
横川さんは苦い顔をして頷く。
「こっぴどく怒られたよ。お父さんは何も言わなかったけど、私がお母さんに怒られているのを見て、矛を収めたんだろうね。バイトのこともいつの間にかバレてたし。全部やめさせられた」
「そう」
「これまでのテストも全部見せろって。運悪く捨ててなかったテストが鞄から出てきて、それを見せたら、間髪入れずに『塾に入れ』って言われたよ。でも私の周りで塾に入っている人あんまりいないし、義母さんが貯めてた塾のチラシは全部名門塾で私には敷居が高かったし。大御名くんがこの個人塾に通っているのを思い出して、ここにしたんだ」
「そうなんだ。結構良いところだよ。定期的にテストがあって、成績順に席の入れ替えをさせられるんだ」
「げぇ、じゃあテストの結果が目に見えるってこと? 恥ずかしいねそれ、頑張らないと」
「ちなみに、今日がそのテストの日だよ」
横川さんが、絶句した。
「……最初は仕方ないよね」
「そうだね。次頑張ろう」
「暗に今回は駄目だって言うのやめてよ」
「ふふ、みんな甘くないよ」
決して意地悪のつもりではない。ただこれまでの空白を、しっかりと認識する機会になれば良いと思う。
今回のテストのことは諦めたらしい横川さんは、潔くスマートフォンを取り出し、なにやら操作を始めた。そうして、画面を僕に見せてくる。
「観てこれ」
それは動画だった。赤ん坊が手づかみでペースト状の離乳食を食べている。しかし眠いのか、こくこくと頭を上下させ、動画が始まって二十秒ほどのところで、離乳食の皿に頭を突っ込んで眠ってしまった。大人の女性の笑い声が入り、そこで動画は終わる。
「可愛いね」
「今のうちに恥ずかしいエピソードを貯めておいて、いつか反抗期が来た時のネタにしてやるの」
「ひどいお姉ちゃんだ」
「ふふ、お姉ちゃんですので」
どうやら、義母との仲はそれなりらしい。義母の提案した通塾を受け入れたり、これまで毛嫌いしていた腹違いの姉妹に愛情を示すことのできるほどには。
とりあえず一安心した。これなら、彼女が以前のような無理な生活を送ることはないだろう。
ホッとして首元を掻くと、ふと、横川さんが僕の首筋に目を留めた。
「大御名くん、いつもネックレスしてるよね」
「よく気付いたね」
「女子って目ざといんだよ、男子と違って」
「男に手厳しい」
「でも大御名くんがアクセサリーを付けてるなんて意外だな。真面目そうなのに。ねえ、どこのネックレスなの? 見せて」
「良いよ」
留め具はそのままに、首元からチェーンの先端を取り出す。指先でつまんだそれは、銀製の小さな円柱。
「ずいぶんシンプルなネックレスだね。……あれ、切れ目がある。……あっもしかしてこれロケット?」
「当たり」
「中に何か入れてるの?」
「入ってる」
「薬?」
「違うよ」
横川さんが手を伸ばしてきたので、ロケットを渡す。彼女はロケットを軽く揺する……が、特に音はしない。
「うーん分からないなぁ、開けても良い?」
僕は首を横に振る。
「開けたら零れちゃうから駄目」
「零れるってことは、液体?」
「残念」
横川さんは、じっとロケットを見つめて思案する。しばらく思案して、何か思いついたように顔を上げた。
「そうだ、これに似たネックレスをお店で見たことがある。確かペットショップで。何だったかな……ペットの遺灰を入れる、メモリアルジュエリーってやつだったかな」
「正解」
え、と彼女が素っ頓狂な声を上げる。
「骨だよ」
すると彼女は、またちょっと考え込んで、摘まみ上げていたそれからそっと手を放した。
「やっぱり真面目じゃん。……私が触って良かったの? 嫌な思い、させなかった?」
「ひどい扱いをされたわけじゃないし」
そういうあたりが妙に律儀で、微笑ましくなる。ふと時間が気になって時計を確認すると、もう授業が始まる時間だった。
「さあ、もうすぐ予鈴が鳴るよ。席につかないと」
「もうそんな時間かあ。……テスト、最下位だったら笑ってね」
「あはは」
「まだ笑わないでよね」
言いながら、彼女も笑っていた。
「……大御名くん、ありがとうね」
何のことかな、と首を傾げると、横川さんは不満そうに唇を尖らせた。
「ううん、何でもない。ただ何となく、お礼が言いたい気分だっただけ」
「なら大人しく貰っておくよ」
彼女は小さく笑った。それにつられて、僕も笑う。
予鈴が鳴り、僕たちはそれぞれ席に着いた。作務衣を着た変わり者の塾長がやって来て、早速テスト用紙が配られる。僕は早々に問題を解き終えて、字の薄い部分を書き足すなどという時間つぶしをしていた。目の端に映る横川さんは、頭を抱えて、うろうろと鉛筆を動かしている。最前列は免れないだろうなぁ、と、頬杖をついた手で口元を隠してこっそり笑った。
ふと、先ほどのやり取りが思い出されて、僕はそっと、服越しにロケットを触った。
メモリアルジュエリーとは手元供養の一形態だ。遺灰を保管するロケットの他にも、遺髪を使ったブローチや、骨を熱加工した指輪なんかもあるらしい。それらはペット動物だけではなく、人間の場合もある。
人間であれペットであれ、死してなお側にいてほしい大切な存在だから、こうして肌身離さずにおけるアクセサリーの形になったのだろう。故人を大切に思う故の悲しみは察して余りある。
だが僕の場合、これを眺めて思い出に浸るなんてことはない。何故なら……この骨の持ち主は存命しているからだ。
――ううん、存命……で合ってるのかな。
内心で呟いてみて、やはり厳密じゃない気がした。
骨があるということはその肉体は朽ちている。手術で四肢を切断したなら、生きたまま骨と対面することがあるだろうけど、「彼」はそれに当てはまらない。だが果たして、一度死んでから蘇った存在に「存命」という言葉は当てはまるだろうか? マイノリティすぎて、辞書は役に立ちそうにない。ではどう表現しよう。いくら考えたところで、この骨の持ち主の状態をどう表現するか、良い案は浮かばなかった。とにかくこのロケットの中には、遺骨が入っている。月日が経って溶け出してしまい、土と判別のつかなくなった骨が。
僕は骨の持ち主に同情する。
なんて可哀そうな男だろう。肉体が朽ちても死ぬことが許されず、骨が土に還ってなお、土ごと掘り返されるなんて。
僕はそっと銀のロケット――クロの骨を収めたそれを、労わるように撫でた。
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