第17話 選択

 ケイティは、紺碧の絵の前に立った。

 いつもの昼休みの時間。今日も騎士団本署に行くのはやめて、美術館に来たのだ。

 どちらと結婚するかを決めるには、カミルの事をもっと知っておく必要がある。特に約束もせず来てしまったが、会えるだろうか。わざわざ受付に頼んで呼び出して貰うのも気が引ける。

 そんな風に思いながら絵を眺めていると、「ケイティ」と声を掛けられた。よく知る声に、振り向きざま応える。


「あら、アクセル様」

「珍しい所で会うな。カミルに会いに?」

「ええ、アクセル様も?」

「いや、俺はこの絵を見に来ているだけだ」


 そう言うと、アクセルは目を細めて紺碧の絵を見つめていた。タイトルは『降臨と誕生』とあり、作者はレリア・クララックとある。


「アクセル様が絵画に興味あるなんて知らなかったわ」

「まぁ嗜みとしてくらいはな。それでなくともこの絵には惹かれる。これは腹の中にいる赤子が、かつていた空を思い出している絵だ」

「あら、詳しいのね」

「詳しいのは、この絵だからだ」


 アクセルの説明に、ケイティもこの絵に惹かれるはずだと思った。

 かつていた空。そこで遊んだスティーグとの記憶。何故か懐かしい気分になるのはそのためだろう。


「ケイティは、カミルと結婚するのか?」


 唐突に問われ、何と答えるべきか迷う。黙っていると、アクセルは続けた。


「カミルは、いい奴だ。俺はカミルの味方だが、同時にケイティの気持ちも昔から知っている。自分の気持ちを優先して構わないと、俺は思う」

「……うん、ありがとう」

「では、俺は戻る。カミルを見かけたら、早く来るよう伝えておこう」


 そう言うと彼は足早に去って行った。

 アクセルがいなくなった後で、再び紺碧の絵を見る。クララックというと、血塗られた歴史で有名な、ファレンテインの貴族だ。滅多に社交界に現れないが、こんな美しい絵を描く画家だとは知らなかった。


「先生!!」


 閑静な美術館を、館長であるカミルが急いで駆けて来る。アクセルが伝えてくれたのだろう。


「先生、来てくれてたなら受付に言ってくれれば、すぐに会いに来ますよ!」

「ええ、でも大した用も無いから言いづらくって」

「……僕に何か言いづらい事が出来た、という事でしょうか」


 そういう意味ではなかったのだが、結局内容はそうなるのかもしれないと思い、ケイティは微かに頷いた。

 それを見て、カミルは悲しそうに眉根を寄せる。


「何が、ありましたか」

「あのね、実は……スティーグに、求婚されたのよ」

「…………」


 カミルは絶句してしまっていた。絶望的な顔をしている彼を見て、胸が苦しくなる。そして慌てて言い訳をする。


「でも、返事はしていないのよ! あなたとの事もあるし、その……決めきれなくて」


 そう言ってもまだ無言で傷付いているカミルに、ケイティは続ける。


「最初は断ったのよ。でも……ごめんなさい、昨日はあんな事を言っておきながら……私、やっぱりまだスティーグの事が」

「僕を選んでください」


 まだ言葉の途中にも関わらず、カミルは振り絞るようにそう言った。


「先生を一番想っているのは僕です。他の誰にも負けません、そう断言出来ます」

「……ええ、私もそう思うわ。私なんかを好いてくれる人は、恐らくカミル以外に現れない」

「大切にします。今はスティーグ様を忘れられなくても仕方ありません。でも……どうか、僕を選んで下さい」


 カミルの必死さが伝わって来る。その気持ちは痛い程分かった。今の彼は、以前のケイティそのものだ。スティーグに猛アタックを掛けていた頃の。

 そんな青年の思いを砕くような発言など、出来そうになかった。もしもスティーグと結婚すると言えば、彼はきっと涙を流すだろう。その姿を想像するだけで、胸が締め付けられる。


「カミル、私を幸せにしてくれるって、以前言ったわよね?」

「ええ、でも、正直に言うと……」


 ケイティの問いに、カミルははにかんだ笑顔を見せた。


「先生と結婚すると、僕が幸せになれるんです。その幸せな気持ちを先生に伝え続ければ、先生も幸せになれるって、僕はそう信じてます」


 その笑顔が可愛くて、ケイティもまた微笑む。

 幸せな気持ちを伝えてくれる。それはどんな言葉だろうか。

 例えば、「結婚してくれてありがとう」だとか。

 例えば、「一緒にいられて嬉しい」だとか。

 例えば、「愛が溢れてくる」だとか。

 どれもスティーグは言わない台詞であろう。スティーグならば、「お前のために結婚してやった」「生まれた時から傍にいるから結婚しても大して変わらん」「愛に変わるかもしれんが、今はその気配はない」と、そんな所だろうか。


 この先、一生。


 一生を共にする場合、どちらの言葉を聞いて過ごしたいか。

 そんなの決まっている。カミルの言葉の方を聞いて過ごしたい。

 スティーグは、一生、一度も、愛していると言ってくれないかもしれない。

 愛されずに人生を終えてしまうかもしれない。

 後悔しないだろうか。それで、後悔のない幸せになるのだろうか。


 グレイスもギルバートもアルバートも、家の為にしたという結婚で、皆幸せになっているではないか。

 自分も同じではないだろうかと考える。

 カミルと結婚しても幸せになれる。それは、確信だ。カミルの元でなら、必ず幸せになれる。


 では、スティーグの元では。


 分からない。確率は五分だ。

 もしも愛してくれるならば、カミルと結婚するよりも幸せな結婚となるだろう。

 しかし愛してくれなければ、それはただの地獄だ。


 どちらを選べばいいのか、カミルに会う事で余計に分からなくなった。

 確実な幸せを選ぶか、リスクのある最高の幸せを選ぶか。


「カミル……私、自分がこんなに優柔不断な人間だったとは、思わなかったわ。答えが出せないの」


 ケイティは申し訳なくて目を伏せながら言うと、カミルはニッコリと笑った。


「いえ、あのスティーグ様と比べて、真剣に悩んでくれるだけで僕は嬉しいですよ。即答されなかっただけで、ホッとしてます。一生の事なので悩んで当然ですよ。」


 カミルの明るい口調にほっと息が漏れる。しかしその直後、彼の言葉は重い物へと変わった。


「ただ僕としても、スティーグ様と結婚して上手く行かなければ、三年後に離婚して僕とやり直して下さいって訳にはいかないんです。これが僕のラストチャンスだって事は、ご理解いただけますよね?」


 コクリとケイティは首肯する。三年後、ケイティは四十一歳だ。一度も結婚した事がなく子供もいないカミルが、娶る妻の条件としては最低だ。きっとキンダークの家の者が許すはずが無い。

 カミルと結婚出来るのは、この三ヶ月後を逃せば二度と無いだろう。


 期間限定商品に弱いのは、人の性だろうか。

 カミルの様な青年を手放すのは、惜しい。そんな気持ちが湧き起こる。


「しばらく考えてもいいかしら」


 カミルにしてみれば、早く確約が欲しいに違いない。それでも彼は優しく微笑んでくれた。


「ええ。先生に納得頂いた上で、僕も結婚したいですから」


 ケイティは、その優しさに甘えた。


 しかし、なかなか結論は出せなかった。ずるずると時間だけが過ぎていく。

 口うるさいギルバートが、どちらを選ぶのか早く決めろと毎日のように言って来る。それでも決め切れないのだ。

 カミルとの結婚の準備だけが、着々と進んでいく。もう幾日も無いので、それも仕方ないことだろう。なのに、この後に及んでまだ迷っている。

 カミルにしたって、気が気じゃないはずだ。結婚式直前でゴメンナサイなど、キンダーク家の面目丸つぶれであるのだから。

 それでも、彼は約束だからと何も言わないでくれていた。不安になっていないはずはないというのに、笑顔まで見せて。

 そんなカミルの悲しむ顔は見たくなかった。

 スティーグならば、ケイティと一緒にならずとも、誰かと上手くやっていくに違いない。けれども、カミルは。彼を幸せに出来るのは、自分だけなのだなと思い至る。


「ギル兄様」

「なんだ?」

「スティーグの家に行ってくるわ。……お断りをしに」


 ケイティがそう言うと、ギルバートは「そうか」とだけ漏らした。ギルバートはもう『スティーグと結婚しなくていいのか』とは言わなかった。カミルとの結婚式の準備が整っている今、スティーグと結婚すると騒ぎ出されずに済んで、逆にホッとしているようでもある。


 クラインベック家に行くと、スティーグは自室に招き入れてくれた。そこでケイティは丁重に断りを入れる。

 思った通りと言うべきか、スティーグは特段悲しむでもなく、「分かった」とあっさりしたものだった。


「何よ、やけにあっさりしてるじゃない」

「ほっとしてるんだ。カミルとの結婚が一週間後に迫ってる中で、オレと結婚すると言い出されては、面倒な問題が出てくるからな」

「皆、体面ばかり気にするんだから」

「お前も貴族の娘なら、少しは気にしろ。キンダーク家に嫁ぐなら、尚更だ」

「分かったわよ」


 ケイティは帰るべく、扉に手を掛ける。

 もう、この部屋に入る事はないだろう。スティーグとこうやって二人で会話する事も無くなる。

 そう考えると胸が詰まりそうだった。やっぱり、ずっと一緒に育ってきた人と結婚できないのは悲しい。


「どうした? ケイティ」


 優しく問われて、ケイティは振り向く。


 やっぱり、やっぱり。

 スティーグと結婚したい。


 あっちこっちと優柔不断な自分に腹が立つ。もっと早くに決断していれば。もっと自分に素直になっていれば。

 でも、今更だ。家の問題が絡んでくるのは、ケイティにだって分かる。カミルの顔に泥を塗るような事はしたくない。


「スティーグ、私、あなたの事が好きなの」

「……もう、その言葉を言うのはよせ」


 生まれてから何度も口にして来たその言葉を、もう二度と言えなくなる。スティーグは悲しそうに眉を寄せていた。


「スティーグ、私の事、少しは好きだった?」

「ああ、大事な幼馴染みだった。結婚してもいいと思うのが、少し遅かったな。すまん」

「少しどころか、遅すぎよ」


 ケイティが毒付くと、スティーグは自嘲気味に口角を上げた。


「今までごめんね、スティーグ」

「しおらしいことを言ってくれるな。おめでとう、ケイティ。幸せになれ」

「……うん」


 ケイティはスティーグから視線をドアノブに戻す。やたらと涙が出て来そうだ。

 今ならまだ、引き返せるのではないだろうか。

 そんな思いが脳裏をよぎるも、ケイティはその考えを振り払った。ここまで来て、カミルを裏切りたくない。悲しませたくない。彼を、幸せにしてあげたい。

 ケイティは断腸の思いで、その場を去る事となった。

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