第16話 帽子とパンツ
「帰るのか? 飯でも食ってけ。クーオールでは食いづらいだろう」
「……そうね」
ケイティは持ち上げた腰を再び下ろした。それとは逆にスティーグが立ち上がり、階下にいる彼の母親にケイティの分の食事を用意するよう叫んでいる。
それが済むと、スティーグはクローゼットの中から白い帽子を無造作に取り出して来て、ケイティの頭に乗せた。ぱふん、と空気が流れる。
「何?」
「誕生日プレゼントだ」
ケイティは座ったまま姿見を覗いた。つばが広く、黄色のコサージュが付けられた帽子は、これからの季節に丁度いい。そしてスティーグは、相変わらず清楚な物を選ぶ。
「……ありがとう。いつも私の欲しい物をくれるんだから」
「オレも今朝杏仁豆腐を食った。美味かったぞ。また作ってくれ」
「作らないわよ、もう……私、カミルと結婚するのよ?」
「止めておけ。お前も後悔する。グレイスの様にな」
「……グレイス姉様は、幸せになったわ」
「後悔のある幸せだがな」
一体、どちらが後悔しないというのだろうか。好きな人と結婚しても、愛されなければ辛いだけだ。幸いにも、グレイスとは違ってケイティは婚約者に愛されている。今はカミルに愛情を感じなくても、彼を選ぶ方がまだ幸せになれそうな気がした。
「キスするか」
唐突の申し出に、ケイティは目を丸める。
「な、な、な、何よ、急に!」
「お前、誕生日プレゼントに欲しいと言っていただろうが」
「そ、そうだけど……」
スティーグは先ほど自分で被せたプレゼントの帽子を、ひょいと取り上げた。キスには邪魔だと判断したのだろう。
「だ、ダメ! キスはダメ!!」
「何でだ?」
昼にカミルと約束したばかりだ。彼との結婚式まで、大事に取って置く、と。
不機嫌に、そして不可解な顔で、スティーグは睨むようにケイティを見つめてくる。何も言わないケイティに、スティーグは諦めたように「分かった」と頷いた。
「お前は、カミルを選んだ。それで、良いんだな?」
脅し文句とも取れる言葉に、ケイティは悩んだ。
どうすればいいのか、本当に分からない。
どちらを選べば、本当の幸せを手に入れられるかなど。
悔しいかな、冷めたと思っていたスティーグへの気持ちが、徐々に再燃してくるのが分かる。
共にいた年月が長過ぎたのだ。空の上での約束が、ケイティをいつまでも縛り付けるかのように、本能がスティーグでなくてはならないと訴えてくる。
しかしだからと言って、あの誠実な青年の悲しむ顔など見たくはなかった。
ケイティは、カミルにもまた、好意を寄せてしまっていた。
「飯だ。行くぞ」
ケイティが懊悩していると、階下から声がした。食事の用意が出来たようで、ケイティとスティーグは無言で部屋を出る。
食卓に着くとすでにスティーグの両親が着席していて、スティーグとケイティも彼らの前に座った。
「おじさま、おばさま。急に押しかけて、すみません」
「いいのよ、ケイティちゃんならいつでも大歓迎よ」
「スティーグもやっとその気になったようだしな! 近いうちに嫁に来るんだ、遠慮するな!」
わっはっは、とスティーグにそっくりの彼の父親は、豪快に笑う。
「親父、結婚はせん」
スティーグは目の前の食事をポイポイと口に入れながら、なんでも無い事のように言った。
「あ? スティーグ、お前、その気になったんじゃないのか? そう聞いたぞ」
「なった。が、ケイティにその気がないみたいだからな。オレとて、別にどうしてもケイティと結婚したい訳じゃない」
彼の両親の視線が一気にケイティに注がれる。ケイティは居心地が悪くて、俯いた。
「ケイティちゃん、どういう事? あなた、あんなにスティーグにアタックしてくれてたじゃない」
「あの、私……」
「スティーグのセックス、そんなにダメだった?」
男二人が、食べていたものをブーーッと吹き出す。二人がむせるのを横目に、彼女は平然としていた。
「えーっと、ええ、まぁ、そんな感じかしら」
「……おい」
嘘は言っていない。犯されるようにされたと伝えないだけ、マシだと思って欲しい。
「そう、だから今までの彼女とも別れちゃってたのね」
「……お袋、違う」
「ねぇ、だったらケイティちゃん、こちらからお願いするわ。スティーグと結婚してやって頂戴! このままだと、スティーグは誰と付き合っても上手く行かないわ」
「勝手に決めるな」
「長年スティーグを好きだったケイティちゃんなら、スティーグが下手でも我慢出来るわよ、きっと!」
「誰が下手だ、誰が……」
「もし我慢出来ないようなら、つらいけど主人を貸してあげるわ。彼、すごいんだから!」
「オイオイ、俺は息子の嫁に手を出す気はないぞ」
「じゃあ、あなた。スティーグに手解きをしてあげて頂戴! ケイティちゃんが満足出来るように!」
「親父の手解きなんぞいらん。ケイティを満足させるなど、容易いもんだ」
フンッと鼻を鳴らしてスティーグは食事を再開させた。ケイティもその会話を聞きながら、あまり聞かぬフリをして食べ進める。
「じゃあ、満足させてあげてらっしゃい!」
「必要ない」
「必要あるわよ! 私は孫が欲しいの! クーオール家のように、孫や曽孫に囲まれたいのっ!」
「お袋が生きてる間に曽孫は無理だ、諦めてくれ」
「だったら尚更、孫の顔を見せて頂戴!! スティーグ、あなた、ケイティちゃん以外に当てはあるの!?」
「今の所ないが、適当に探す」
「スティーグ、そんな悠長に探してる暇はないわ。私の年齢を考えなさい。明日ポックリ逝くかもしれないのよ?」
「まだ六十五だろう。死ぬには早い。心配しなくても、お袋は八十までは生きる」
「もうっ! あなた、何とか言って下さいな!」
「え? えーと、そうだな。ケイティと結婚しろ」
「オレに言ってくれるな。ケイティが乗り気じゃないんだ」
「だから、満足させてあげなさいと言っているのよ! ほら、二人とも食べたわね! 部屋に戻って! あなた、私達は出掛けるわよ!」
母親は大慌てで出掛ける準備を始めた。彼女の夫はこれまた大慌てで、目の前の食事をかき込んでいる。
「いいわね。しっかりやるのよ、スティーグ! 私達は今日も帰らないから」
「……またか」
父親が、少々げっそりしながらも立ち上がった。
「スティーグ、俺も若くないんだから、頼むぞ」
彼は別の意味での懇願を息子に向け、エルルと共に家を出て行った。
何の口を挟む間も無く決められてしまい、ケイティはスティーグを見る。彼もまた、母親の横行にげんなりしているようだ。
「部屋に、行くか」
「……」
「警戒するな。返す物があるだけだ。それにもう少し話したい」
そう言われて、再び二人は部屋に戻った。するとスティーグは本棚に行き、昨日のエッチな本を手に取る。何か変な事を要求されるのではないかと身構えていたが、スティーグはその本をテーブルの上へと置いた。
「返すって、これ?」
「いや、その中身だ。必要なら本ごと持って帰っていいぞ。元々その本は、ギル兄が結婚する際、処分に困って俺の部屋に置いて行ったやつだからな」
「……ギル兄様、何て物を……」
ギルバートが結婚した時、スティーグはまだ十三歳だったはずだ。そんな子供にこんないやらしい本をあげるだなんて、人として疑ってしまう。
ケイティはその本を手に取り、不自然に膨らんでいるページを捲った。そしてパタンと急いで閉じる。そこにあった物、それは。
「なっ! ちょ、これ……っ!」
「お前のパンツだ」
「きゃ、いやあ! 何でこんなとこに挟んでおくのよ、バカッ!」
ケイティは顔を真っ赤にしながらそれを素早く取り出し、手の中に丸めて隠した。
「えらく少女趣味な物を履いていたんだな」
「……いつもは違うわよ。スティーグの趣味に合わせてみただけ」
「そうか」
奇妙な沈黙が流れる。スティーグも何と言っていいのか分からぬ様子だ。
「話したい事って、これだけ?」
「……いや」
スティーグは椅子に腰掛けた。それを見て、ケイティも己の下着を握り締めたまま、着席する。
「真面目な話、オレと結婚してくれんか?」
「……他に手頃な女がいないからでしょ」
「それはそうだが、オレはお前のためを思って言っている。このまま他の男と結婚しても、グレイスの二の舞を演じるだけだ。結婚してから忘れられないと泣かれても、オレにはどうしてやりようもないからな。一度結婚すればファレンテインでは三年は離婚出来んシステムになっているし、不義を働こうもんならクラインベック家もどうなるかわからん」
「だから必死で説得してくれているのね。それって私の事を好きってことかしら」
「まぁ、嫌いではないからな」
その言い方に、ケイティは嘲笑を見せた。結局は堂々巡りだ。
「愛しては、くれないの?」
「……あのなぁ、ケイティ」
ケイティの言葉に、スティーグは呆れたように物を返す。
「グレイスもそうだが、相思相愛で結婚してる奴なんて、この世にどれだけいると思ってるんだ? 少なくともオレは、ウェルスくらいしか知らんぞ」
「そんな訳ないわ。ギル兄様だってアル兄様だって、イオス様もカールも、皆好き合って結婚してるんじゃない」
「お前は何にも知らんのだな。ギル兄もアル兄も、家の為に結婚してるんだ。特にギル兄は、好きな女と別れさせられて可哀想だった。イオスにしても、ダニエラの気持ちを利用しただけに過ぎんだろう。そうでなければ、結婚式なり披露宴なり、何らかのアクションがあってもいいはずだ。隠すように結婚しているということは、三年後には別れるつもりだろうな」
「……まさか」
とても幸せそうに、とても豪華なお弁当を一人で全部食べていたイオスが、妻であるダニエラを好いていないはずは無いと思うのだが。
「じゃあ、カールは」
「あいつはアンナ殿をかけて、もう一人の男と奪い合ったと言っていた。アンナ殿がカールを率先して選ばなかったってだけで、どういう事か分かるだろう」
「分かんないわよ」
「もう一人の男の方が好きだったか、どちらも選べない状況にあったか。相思相愛で付き合い始めた訳じゃなさそうだ」
本当にそうなのだろうか。スティーグの言う事は、どこまで正しいのだろうか。
「でも皆、幸せそうだわ」
「まぁな。最初は愛情でなくとも、一緒にいるうちに変わったのかもしれん」
「じゃあスティーグも私と結婚すれば、いつかは愛情を抱いてくれるって事?」
「さあな、正直分らん。三十八年も一緒にいるが、そんな感情になったことはないからな。結婚となるとまた別なのかもしれんが、今の状況で確約は出来ん」
スティーグは、自分の思いを正直に話してくれている。無責任に好きになるなど、言いはしない。
「スティーグらしい」
「何がだ?」
「いいえ」
自分はどうすれば良いだろうか。スティーグを選ぶべきか、カミルを選ぶべきか。
一朝一夕で出る答えではない。この問いは、宿題だ。
「スティーグ、私、どうしていいか分からないのよ。だから、考えさせて欲しいの。今すぐ答えは出せない」
ケイティも正直に告げると、スティーグは首肯する。
「そうだな。一生の問題になる。帰ってじっくり考えてくれ」
「ありがとう。答えが決まったら、また来るわ」
ケイティは帽子を被り、パンツを握り締めながら家へと帰った。
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