第9話 脱処女
「カール、ケイティが来たわよ。話があるんですって」
「あ? ケイティ?」
ケイティがカールの家に上がると、カールは上半身裸で首にタオルをかけている。手はチェスの駒を動かしていた。対戦相手は、彼の息子のロイドだ。
「ちょっとカール、そろそろ服を着なさい。風邪引くわよ」
「次、父さんの番」
「だって、あちーんだもんよ。これでどうだ!」
カールが大袈裟に駒を動かすも、ロイドは表情をかえずに淡々と自分の駒を動かした。
「ちょっと二人とも、お客様が来てるんだからゲームは終わりにしなさい」
「もう終わるよ、母さん」
「なんだと? 優勢だからって調子に乗んなよ、巻き返してやら」
カツン、とカールが駒を動かすと同時に、ロイドは待ってましたとばかりに声を上げた。
「はい、チェックメイト。父さんの負け」
「ぐっ!」
カールは息子が出した最後の一手を見て、悔しそうに顔を歪ませている。
「くっそー、もう一回だ!」
「やだよ。父さんの攻めってワンパターンだから面白くない」
「ああ!?」
「お父さん、私が相手してあげよっか」
「くっくっく。アイリス、父さんに勝てると思うなよ」
「偉そうに、勝率は五分五分じゃない」
「っぐぐ!」
駒を並べ始める夫と娘に、アンナは声を上げる。
「いい加減にしなさい、カール! アイリスも明日にして! お客様がいるのよ!」
「はーい」
「わぁったよ。おいアンナ、牛乳くれ」
「はいはい」
「で、どうした? ケイティ」
カールは髪を拭き拭きこちらを向いた。しっとりと濡れているところを見ると、風呂上りに息子とチェスをしていたのだろう。
「カール、はい牛乳」
「ちょっと込み入った話だから、カールと二人にさせて貰って構わないかしら」
ケイティは牛乳を持って来たアンナに、了承を得るためそう尋ねた。アンナは少し訝し気な顔をしつつも、首肯してくれる。
「分かったわ。ロイド、アイリス、部屋に戻りなさい。私も部屋に行ってるから、何かあったら呼んでね」
「おう、悪りぃな」
三人がリビングを出て行き、パタンと扉が閉まると、カールはコップに口をつける。
「んで、何の用だよ? こんな時間に。やっぱスティーグの事か?」
「ええ、それもあるけど、折り入ってお願いがあって」
「んん?」
カールは牛乳を口に含みながらケイティを見下ろした。ケイティはそんな彼を真っ直ぐ見上げてお願いを口にする。
「カール、私を非処女にしてくれない?」
「ぶぼぉかはああああああああっ!!」
カールは鼻から口から、果ては耳から牛乳を噴射させ、ケイティはもれなく牛乳のシャワーを浴びた。
「ちょっと!! 汚いわねっ!!」
「ケイティが変な事言うからだろうがっ!!」
「服に染みが付いちゃったらどうしてくれんのよ! 今日はスティーグの誕生日だから気合入れてたのに!!」
「拭きゃーいいんだろ、拭きゃー!」
そう言ってカールは首に巻いていたタオルを手に取り、乱雑にケイティを拭き始めた。
ケイティの目の前には、カールの鍛えられた肉体がある。四十を超えているとは思えないほどの艶やかな肉体が。
その体からは、石鹸の香りとカールの男らしい体臭が混ざり合ってケイティの鼻を掠める。それと、牛乳。
「おい、何赤くなってんだよ」
「今からこの体に抱かれるのかと思うと、赤くもなるわよ」
「誰が抱くか! ボケッ!!」
ケイティの予想と違う反応だ。カールならすぐにオーケーしてくれると思っていたのだが。
「どうして? いいじゃない」
「よかねーよ! ケイティお前、俺が妻帯者って知ってんだろ!」
「浮気の四、五十回でもしてるんでしょう? 一回くらい増えたって、大した事ないじゃないの」
「なんっだぁその認識! 俺ァアンナと付き合い始めてから、一度だって他の女に手ェ出した事ないってぇの!」
「うっそー?!」
「嘘じゃねーって!」
「……大誤算だわ……」
カールなら気軽に引き受けてくれそうな気がしたのに、とガックリ肩を落とす。
では、誰に頼めば良いだろうか。イオス……はダメだ。新婚だし、もう頼らないと宣言してしまっている。
アクセル……はもっと駄目だ。カミルの友人なのだから、手を出してくれはしまい。あの男は潔癖だから、そういう事を嫌うであろうし。
では、カミルはどうだろうか。頼めば抱いてくれそうな気がする。しかしもれなく結婚というオプションがついて来るだろう。それはいただけない。
他に仲の良い男の知り合いは……いない。
「じゃ、カールの初めての浮気相手が私って事でいいじゃない。サクッとやっちゃってくれる?」
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。風邪でも引いたのだろうか。目の前にいるカールの汗が、尋常でないほど吹き出している。
「おい、今の言葉を撤回しろ、早く!」
「私、早く処女を捨てなきゃならなくなったのよ。カール以外に相手が思い浮かばないの。お願い!」
「わぁった、わぁったから! お前が脱処女する方法を一緒に考えてやる! だから、俺とはセックスしねーって宣言してくれ!頼むッ!!」
「本当っ?!」
「本当だッ」
「分かったわ、カールとはセックスしない!」
その瞬間、背筋の悪寒がピタリと消えた。何だったのだろうか。
カールはダラダラと冷や汗をかきながら、小刻みに息を吐いていた。
「はぁ、はぁ……。十五年ぶりに地獄の使者が舞い降りるかと思ったぜ……ケイティ、大丈夫か?」
「何が?」
「何がって、お前……殺気を感じなかったか?」
「殺気? 寒気ならしたけど、風邪ひいちゃったのかなって」
そう言うとカールは呆気に取られた顔で「鈍感な女って怖ぇ」と呟いていた。どういう意味だろうか。
「そんな事よりカール、私の脱処女方法を考えてくれるって言ったわよね! どうすればいい?」
「っつーかケイティはずっとスティーグに処女をあげるっつってたんだから、スティーグにやりゃーいいじゃねーか」
「そのスティーグに抱かれるために捨てるのよ」
「どういうこった? 何があった?」
カールの問いに答えるべく、ケイティはここに来るまでの経緯を話した。
聞き終えたカールは、うーんと腕を組んで首を捻らせている。
「なるほどなぁ。でもだからって、俺んとこ来んなよ」
「他に適役がいなかったんだもの」
「俺だって適役じゃねーってのっ! そうだなぁ、ロレンツォ辺りに頼めばいいんじゃねーか?」
「なるほど、ロレンツォ様ね! どこに住んでるの?」
「家はイーストドールストリート沿いにあるが、そこに居た試しがないらしいぞ。女の家を渡り歩いてるって話だ」
「駄目だわ、今すぐ処女を捨てなきゃならないのに、探してる暇なんてない」
「んーじゃあ、『処女を貰って下さい』って書いた紙でも持って、その辺うろついてみろよ。誰かしら貰ってくれんじゃねーの」
カカカと笑うカールに、ケイティは深く頷く。
「そうね! 手段を選んでる場合じゃなかったわ! ありがとう!」
「え!? あ、おい、今のは冗談……ッ」
カールの言葉などすでに耳に入らず、ケイティはカールの家を飛び出した。
その提案をした男が「やべぇ」と呟いて青ざめていた事など、ケイティは知らない。
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