第8話 とある本

「誕生日おめでとう! スティーグ!」

「ああ、お前もな、ケイティ」

「うふふ、ありがとっ」


 スティーグの家のリビングで、ケイティは愛しの人と向かい合っていた。色々考えたが、強硬手段に出るしかないと結論付けたケイティは、スティーグの家を選んだのだ。お手製の杏仁豆腐を持って。

 自分の家を選ばなかったのは、家族に邪魔される恐れがあるからである。


「さ、沢山食べてね! 山ほど作ってきたわよ!」


 大皿にたっぷりと乗せられた杏仁豆腐を見て、スティーグのヨダレがつつつと落ちていく。


「では、遠慮なく食うか」

「ついでに私も食べていいのよっ!」

「誰が食うか」


 特大スプーンで杏仁豆腐をよそい、口に入れようとしたその時。スティーグの母親のエルルが青い顔をして走り寄って来た。


「うん? どうした、お袋」

「スティーグ、あなたの隊の子が、自殺未遂したって……!」

「誰だ!?」

「分からないわ。玄関に騎士が迎えに来てる」

「行ってくる。すまん、ケイティ。今日は帰ってくれ」


 デートは、一瞬で終わりを告げた。どたどたと鈍重な音だけが部屋に残され、扉の閉まる音と共に静寂が訪れる。残された大量の杏仁豆腐を前に、深い息を吐きたくなった。


「ごめんなさいね、ケイティちゃん」

「いえ、おばさま、お気になさらず! あ、おばさまも食べます?」

「あら、いいの? 私、杏仁豆腐に目がなくって」

「どうぞどうぞ。たくさん作って来たので、食べて下さると嬉しいわ!」


 エルルは小柄にも関わらず、特大スプーンでそれをモグモグ食べ始めた。痩せの大食い、という言葉が頭に浮かぶ。


「あら、これすごく美味しいわ! お店で売ってる物よりも数段よ」

「ありがとう。またいつでも作って持って来るわ」

「そう? でもケイティちゃん、結婚するんじゃ難しくなるでしょう」

「スティーグと結婚すれば問題無いもの!」


 ケイティの言葉に、エルルは苦笑いしている。


「ごめんなさいね、スティーグがあなたの事好きだったら良かったのに……」

「おばさまが謝る必要なんてないわ! 大丈夫、今日は落としてみせるわよ! 勝負パンツだって履いてきたんだものっ」

「勝負、パンツ……」


 エルルはまたも苦笑いしているが、その次はコクリと首肯していた。


「じゃあ私と主人は出掛けて来るわね」

「お気遣いありがとうございますっ」

「今日はホテルにでも泊まってくるから、ゆっくりして行きなさいな。健闘を祈るわ」

「はいっ!」

「私も勝負パンツにしようかしら」


 スティーグの母は茶目っ気のある笑顔を見せて、彼女の夫と出て行った。


 一、二時間で戻ると思っていたケイティだったが、スティーグが帰ってくる気配はなかった。

 ケイティは三十秒毎に時計を見遣る。


「遅いっ」


 苛立ちが募り、お昼ご飯代わりに目の前の杏仁豆腐をムシャムシャ食べる。

 更に五時間が過ぎた。もう夕飯時ではないか。一瞬だけ外に出て、自宅からチーズとパンを持ち出して急いで戻ってきた。それを一人で無言のまま食べ進める。

 更に一時間経過した。それでもまだ帰ってこない。


 カチコチカチコチ


 振り子時計の音がして、ケイティは今まで溜めていた息を、大きく吐き出した。

 時間だけが過ぎて行く。暇だ。暇すぎる。


 カチコチカチコチ


 時計が午後七時を少し回ったところで、ケイティは場所を移動した。スティーグの部屋へと。


「あら、綺麗にしてるわね。片付けてあげようと思ったのに。おばさまがしたのかしら」


 スティーグは整理整頓があまり得意ではないので、昔は雑然としていたものだが。

 ふと本棚に目をやると、PTSDに関する本をいくつか見つけた。他は武器の本や防具の本、指導の指南書、戦争に関するものがいくつかと、エッチな本。本自体が少ない。あまり読まないからだろう。小説の類は、いっさい見当たらなかった。毎週図書館に通っているケイティとは、対照的である。

 その中でケイティはエッチな本を手に取ってみた。ペラリとページを捲り、中の卑猥な絵を見てパタンと閉じる。


「ううう、何を見てんのよ、スティーグったらっ」


 しかし勝負パンツを履いているケイティは、まさにそういう事をしに来たんだと思い出し、勉強のためだと言い聞かせてもう一度本を開いた。


「うううううう~、本当に皆こんな事やってるの?! こんな体勢出来るのかしら……」


 最後まで読み切ると同時に、階下で玄関の扉の開く音がして、ケイティは飛び上がる。持っていたエッチな本を慌てて本棚に戻し、階段を降りていく。


「おい、スティーグ。もう忘れろ。こんな日は、酒食らって女でも抱いて寝ちまえっ! 分かったなっ!!」


 カールの声がして、すぐに扉の閉まる音がした。そっと覗いて見ると、玄関先でスティーグが一人立ち尽くしている。

 ケイティはスティーグのそんな姿を見て、一も二もなく駆け寄った。


「スティーグ! どうしたの?」

「……帰ってなかったのか」


 スティーグは質問には答えず、真っ直ぐ自身の部屋に向かった。


「自殺未遂した人……どうなったの?」

「……ちょっと目を離した隙に、もう一度自決した。………死んだよ」

「…………」

「騎士団治癒師のリゼットが休暇で何処に行ったか分からなくてな。カールに聞いたら、知り合いに治癒師がいるからと、ピネデの街まで行ってくれたんだが……間に合わなかった」

「……そう、残念だったわね……」


 スティーグは自室に入り、ベッドに座ると頭を抱え込んだ。


「オレは、上に立つ器量じゃないのかもしれんなぁ」

「そんな事ないわよ。それとこれとは別の話じゃない」

「他の隊で自殺した奴はおらん。オレの隊は……これで三人目だ。三人目だぞ!!」

「それは、スティーグのせいじゃないわよ!」

「オレのせいでなくて、誰のせいだ!!」


 ガバッと顔を上げ、ケイティを睨みつけるようにスティーグは言った。その形相に、ケイティは身を震わせる。未だかつて、見た事のない表情だ。

 あんな大きな戦争があって、自殺者が三人に抑えられているなら、それはスティーグの努力の賜物だろうと思う。休日を返上して、ケアに当たっているのだ。しかし今の彼にそれを伝えても、何の意味もなさないだろう。

 じっと憐憫の目を向けるとスティーグはハッとし、ケイティから目を逸らせる。


「帰れ」

「嫌よ」


 ケイティは即答する。こんな状態のスティーグを放ってはおけない。


「帰ってくれ。じゃないとオレは、ケイティに八つ当たりしてしまいそうだ」

「いいわよ、存分に八つ当たりしてくれて」

「思い余って殴ってしまうかもしれんぞ」

「…………いいわ」

「マゾか、お前は」

「スティーグが本音を吐いて楽になってくれるなら、顔が歪もうと肋骨が折れようと、構いはしないわ」

「…………」


 ケイティの言葉に、スティーグは再び顔を伏せる。


「ねぇ、スティーグ、どうしたい? 私には気兼ねせずに言えるでしょ?」


 ケイティは自分の倍ほどもある大きな体のスティーグに、子供に話しかけるように優しく問いかける。


「……酒呑んで、女を抱いて、何も考えずに寝たい」

「そ、そう」

「こんな時、騎士は不便だな。普段は売春や買春を取り締まる立場だから、そういう事をする訳にいかん……ケイティ、下から酒を持って来てくれんか」

「分かったわ」


 ケイティは言われた通りに階下に行き、酒とグラスを持ってすぐに戻った。スティーグは手を差し出していて、グラスを渡し、酒を注ぐ。

 彼はそれを一気に呑みほした。


「っはぁ。……悪いが、もう寝る。お前の誕生日は明日だろう。仕事が終わったらお前の家に行ってやるから、今日は帰ってくれ」


 スティーグはゴロンとベッドに転がり、腕を目にして顔を隠した。


「お、女を抱きたいんでしょっ。私、構わないわよっ」

「こんな時に面倒な処女なんか、抱きたいわけないだろう」

「処女と思わなくていいわ! めちゃくちゃにしたいなら、そうしなさいよ!」

「何の技術もないくせに」

「私、もう三十八になるのよ? そんなの、聞いたり調べたりして知ってるわよ」

「そういうのを、耳年増と言うんだ」

「そ、そうだけど……な、何でもやるわよ」

「じゃあ、これが出来るか?」


 そう言うとスティーグは寝転がったまま、本棚に手を伸ばす。スティーグはそれをペラペラと捲ってあるページを開くと、ケイティに見せつけた。

 それは先ほどケイティが見ていたエッチな本で、そのページには可憐な少女が男の物を慈しんでいる姿が描かれている。


「で、で、出来るわよっ」

「じゃあしてくれ。最近女とヤってないし、ろくに抜いてもいないからな」


 スティーグの露骨な表現に、ケイティは顔を歪ませた。スティーグは本を床に落とし、そのまま天を仰ぐかのように転がっている。


「ほ、本当にするの?」

「嫌なら帰ってくれ」

「す、するわよ!」


けれど、手を添えたところでどうすればいいのかおろおろとしてしまう。


「焦らすな」

「どうすればいいのよ」

「さっき見せた本の通りにしてくれ」

「ぬ、脱がせていいの?」

「いちいち聞くな」


 青ざめながらもケイティは服を脱がそうと手を掛ける。望んでいたことのはずなのに、怖くて手が震える。


「……もういい、ケイティ」


 中々ベルトを外せないでいるケイティを押し留め、スティーグは起き上がった。


「な、何よ、これからじゃない!」

「いい、萎えた」

「すぐ、その……元気にさせるわよ!」

「ケイティ、お前、結婚するんだってなぁ」


 ピクリとケイティの耳が動く。


「……誰に聞いたの」

「お袋だ。クーオールの情報は、大抵お袋が持ってくる」

「……しないわよ、私はスティーグと結婚するんだもの」

「そうは言ってももう本決まりだろう。人の婚約者に手を出すなど、焼きが回っていたな。忘れてくれ」


 外れ掛けたベルトを戻そうと、スティーグは己の腰に手をやる。しかしそれより早く、ケイティはズボンに手を滑り込ませた。


「おい」

「続けるわっ」

「無茶するな、処女のくせに」

「もし、私が処女じゃなければ、私を抱いてくれていた?」


 その問いに、スティーグは少し遅れて頷く。


「多分な……めちゃくちゃにしてしまっていたかもしれん」


 その言葉を聞くと、ケイティはその手を止めて立ち上がった。


「分かったわ。今すぐ処女を捨ててくるから、ちょっと待ってて!」

「……は? おい、ケイティ!? ま、待て!!」


 ケイティはスティーグが止めるのも聞かず、クラインベック家を飛び出していた。

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