《6》

 殺す。


 その純粋で強烈な情念に導かれるまま、常春とこはるは唯一知る『技』を再び繰り出した。


「『頂陽針ちょうようしん』!!」


 全身に猛烈な指向力が生まれる。空気を押し潰し、踏み込みと同時に拳が突き出され、銃声を何倍もボリュームアップさせたような『雷鳴』が廊下を激震させた。


 押された空気が周囲へ一気に拡散し、台風のような風圧をばら撒く。理科室の引き戸が内側へ抜け、昇降口の下駄箱の上に置いてある来客用スリッパが宙を舞う。


 しかし、殺すべき対象である、目の前の鬼畜漢にはカスリもしていない。


「おーおー、怖い怖い。でもよぉ、わざわざ技名叫んでくれるんだ。テレフォンパンチどころじゃねぇぞぉ? 『頂』って発音した時点で動けば十分間に合うんだからよぉ」


 煽るような、余裕のある声で言う葛躙かつりん


「黙れ」


 常春はそう断じた。自分でも驚くほど、枯れていて、どすの効いた声だった。


 語彙力も、声の大きさも、思考力も、何もかもが激情に吸い取られるような感覚。


 体が落ち着かない。熱い。あの外道を殴れない時間が一秒単位で惜しい。


 感じたことのない感覚。


 これが、憤怒。


 これが、憎悪。


 止められない。


 止めたくない。

 

 動き続けたい。


「『頂陽針』!!」


 常春は再びその呪文を唱えた。破滅的な『内勁ないけい』を秘めた拳を前足ごと剛然と進め、『雷鳴』とともにまたも空気を穿つ。空振り。


 しかし、常春は動きを止めなかった。避けられやすいなら、当たるまで繰り返せばいいだけのこと。


「『頂陽針』!! 『頂陽針』!! 『頂陽針』!! 『頂陽針』!!」


 何度も必殺の正拳突きを繰り返した。


 繰り返される雷鳴。繰り返される爆風。繰り返される空振り。


「『頂陽針』!! 『頂陽針』!! 『頂陽針』!! 『頂陽針』!! 『頂陽針』!! 『頂陽針』!! 『頂陽針』!! 『頂陽針』!! 『頂陽針』!!」


 何度避けられても、常春はただただ『頂陽針』と発し続けた。


 大破壊の波が廊下を流れていき、ガラスというガラスが外側へ破片を散らせる。


 やがて、廊下の果てに到達した。学校の廊下の両端に備え付けられた非常口だ。


 葛躙が非常口のドアを開いて外へ出た次の瞬間、常春の拳がドアのある面全体を木っ端微塵に破壊した。吹きさらしになった非常口の向こうには、誰もいない。


 どこへ行った。殴り殺してやる。常春は未だ冷めぬ憎悪の熱に命じられるまま、外へ飛び出し——非常口を出てすぐ右から鋭く伸びてきた蹴り足によってしたたかに右上腕を打たれた。


「がはっ……!?」


 先細りになった鉄塊を高速でぶつけられたような、鋭さと鈍さの中間くらいの衝撃と痛み。常春の小柄な五体が紙人形のごとく軽々と吹っ飛ばされた。


 蹴りが伸びてきた場所にいた獅子舞仮面の男が、束縛から解放されたようなスッキリした口調で言った。


「あー、やっと広い所に出れたぜぇ。あんな一本道じゃ、思うように動き回れねぇしよぉ。これでようやくお仕置きターイムに入れるぜ」


 常春は周囲を見る。


 廊下の末端を抜けて屋外へ出た先は、校舎と体育館と、それらを繋ぐ連絡路を同時に見渡せる場所だった。そのさらに後方には、広大なサッカーグラウンドが広がっている。


 葛躙は、威嚇するように指をぱきぱき鳴らす。


「殺しゃしねぇけどよぉ……死なねぇ程度に痛い目を見てもらうぜ。こないだブン殴られた借りもあるしなぁ」

 

 常春は答えない。まだ生きているなら、殴り続けるだけだ。


「『頂陽針』!!」


 またも無人の位置を貫いた必殺の正拳が、『雷鳴』と豪風を撒き散らす。さらに次の瞬間、石柱で殴られたような衝撃が胴体へ横一文字に叩きつけられた。葛躙が回避と同時に打ち込んだ回し蹴りである。


 重い鈍痛と気持ち悪さを感じながら、常春は勢いよく打ち飛ばされ、体育館の壁にぶつかった。


「ぐふっ、がはっ! ごほっごほっ……!!」


 常春はうずくまりながら、必死に咳き込んだ。体の奥から少しだけ胃酸が出てきて、喉が焼ける。


 ——痛い、苦しい、吐きそう。


 常春は自分の頑丈さに自信を持っていた。


 トラックにぶつかられたり轢かれたりしても、高所から落下してもビクともしない。風邪だって全然引かない。怪我や病気という言葉が一番似合わない人間であると、心の中で信じていた。


 だが、あの男の蹴りがあびせてくる衝撃は、今まで食らってきた衝撃とは『質』が違った。


 打たれた瞬間、まるで衝撃そのものが尖って突き刺さるような。奥へ奥へと突き進んでくるような、そんな「しつこい衝撃」。


 これが『内勁』か。


 足音を立てずに歩み寄ってくる葛躙が、呆れたような声で言った。


「おいおい……いくらなんでも戦い方が素人臭すぎるんじゃねぇかな? おまけに使う技も一つだけじゃんかよ。もっと見せてみなよ、え?」


 常春は答えない。


 その反応に、葛躙は何かに感づいた声で尋ねてきた。


「まさかお前…………マジで使えねぇの? あの技だけしか」


 なおも常春は答えない。それは「是」と同じだった。


 葛躙は常春をしばし見下ろしてから、すぐに愉快そうに爆笑した。


「ぎゃ————ははははははははっ! こりゃケッサクだぁ! 黎舒聞れいじょぶんってなぁ随分いい加減な教育をするじゃねぇの! 二撃不要!? 一つあれば事足りる!? 相手を殺せりゃいいって実利主義も、ここまでくると怠慢としか言えねぇや! がっははははは可哀想に!」


 何も知らないくせに。好き勝手言われ、常春は歯を食いしばる。


 次の瞬間、真下から腹を蹴り上げられた。食い込むような激痛。


 それから、何度も何度も蹴られ続ける。


「おらっ! どうだ一発野郎! 痛ぇだろ俺の内勁はよぉ! けどなぁ、俺ぁ一昨日、この何十倍も痛え思いしたんだぜぇ!」


 ひとしきり蹴っ飛ばして多少満足したのか、葛躙は一度足を止めた。


 胎児のように寝転がって呻く常春に、葛躙は手のひらを見せつける。岩を削り出したような手の指を、何度かぐっぱぐっぱと開閉させてから、脈絡のない事を言い出した。


「人間の指って、ずいぶん細かく動くよなぁ? こいつがなきゃ、俺らは未だに洞窟で暮らしてるサルの一種だったって言われてるくらい、人間を人間たらしめてるパーツなんだよ。で、問題。この片手の指を動かすための筋肉って、全部で何個あるよ?」


 答える義理はない。


 だが、今は体が辛い。休むための時間を確保するために、この男の語り口を少しでも延ばしておきたかった。なので常春はとりあえず考え、答えた。


「……十、くらいか」


「ぶっぶぅ——♪ ハズレでぇす。正解は二十九個。で、ここからがレクチャーの本題だぁ。この誰もが持ってる二十九個の筋肉は、その動かす筋肉同士の組み合わせや動かす順番、動かすリズムとかの「組み合わせ」がたくさん存在すんだ。だからこそ人間サマはこんなに手先が器用なわけよ。んで、その「組み合わせ」の数は全部で十の二十九乗。つまり十じょうだ。……すげぇよなぁ? 億や兆ってレベルじゃねぇんだぜ? ——んで、その指の動きの「組み合わせ」の話を、動く部位が数百単位で存在する人体全部に置き換えると…………そりゃもう、鹿「組み合わせ」が存在するわけだ。まさに天文学的数字ってやつ。だがよ、常人はその天文学的数字の中の、ほんの0.1パーセントの「組み合わせ」しか実行出来ねぇんだよ。何でだと思う?」


「…………知るか」


「骨格の「理想的な配置」が出来てねぇから——つまり『基骨きこつ』じゃねぇからだよ。『基骨』とは人間の生物体としての機能を最大限に活用できる「理想的な骨格配置」。『基骨』になると、人体の衝撃分散能力が大幅に向上して打たれ強くなり、『気』の流れが活性化して病や老いに強くなり、もう一つ……常人にはできねぇ「体の使い方」ができるようになる。身体活動をつかさどる『気』のコントロールによって肉体を自在に操り、そんな「常人にできねぇ体の使い方」をして、『内勁』は生まれるんだぁ。中華の武芸者はこの『気』と『内勁』を尊び、長い間追求し続けてきたんだよぉ」


 葛躙は両腕を左右に広げ、うそぶいた。


「分かるだろぉ? 人体の持つ未知の可能性と、長い歴史をかけて培われた中華武功の深奥さがよぉ。我々『求真門』は総力を上げて、全ての中華武功を手に入れ、そいつを全て解析する。そしていつの日か必ず手に入れるだろう——『真仙しんせん』を。たとえてめぇが中途半端にしか『雷帝』の教えを受けていないとしても、持ち帰って研究材料にする価値は十分にあるってこった」


 常春は右手で地面を引っ掻いた。 


 ふざけるな、と思った。


 『真仙』とやらがどれほどすごいものなのかは分からないし、興味も無い。


 でも、そんなもののために、どうして他人の『日常』を踏みにじらないといけない。どうして市原さん達が死なないといけないんだ。


 やっぱり、こいつらを許すことは死んでもできない。


 常春は瞬時に立ち上がり、駆け出した。


「おいおい、今度は追いかけっこかい?」

 

 余裕綽綽な態度を崩さぬまま、葛躙は早歩きで追いかける。


 薄暗い日陰の降りた体育館裏。左側にあるコンクリートの壁を伝い、よろよろと葛躙から離れる。


 左に通じる曲がり角を曲がり……そこで常春はくるりと後ろを向いて止まった。


 葛躙が今まさにその曲がり角から出てこようとした瞬間、待ち伏せていた常春は叫んだ。


「『頂陽針』!」


 再び、ロケットじみた推進力で直進しつつの正拳。


 しかし葛躙は常春の拳が到達する前に、再び曲がり角の奥へ引っ込んだ。「曲がり角から出たところへ打ちかかる」という常春の策を読んだ上で、あえて自分の姿を晒したのだ。その上で回避しようとしていた。


 葛躙のその読みは必ずしも間違ってはいないが、一つだけ決定的に間違いがある。


 常春の拳が狙ったのは、葛躙ではないことだ。


 途中までは葛躙へ真っ直ぐ進んでいた左拳は、突き進むにつれて少しずつ角度が右へズレていき——やがて曲がり角を形作るコンクリート材に衝突した。


 少年の小さな拳に宿る重厚極まる内勁が、『雷鳴』とともにコンクリートの一部を削ぎ、無数の瓦礫に変えた。その瓦礫は、曲がり角の向こう側にいた葛躙へ向かって降り注ぐ。


「ぎゃああああああああああああああああ!?」


 途端、強烈な苦痛を訴える汚い絶叫が轟いた。


 常春としては、瓦礫攻撃は単なる牽制のジャブのつもりだった。裏をかいた瓦礫の雨によって敵を一瞬でもいいから怯ませ、そこへ再び『頂陽針』を叩き込む腹積もりだった。


 だが、瓦礫攻撃は、思わぬ損害を相手に与えたようだ。


 半円状に削れた曲がり角の向こうに見える葛躙。獅子舞仮面の左目には、そこから勢いよく血が流れ出ていた。


 潰れた眼球。流れ出る血。苦痛の叫び。


 自分の技がもたらしたそのショッキングな光景が、常春を一瞬だが、硬直させてしまった。


 その「一瞬」が、せっかくのチャンスを潰してしまった。


「この…………ガキィィィィィィ!!」


 葛躙は憤激の叫びを発したかと思うと、これまでで見せたことのない素早い身のこなしで常春の間合いに「ごぉっ!」と詰め寄る。


「『頂——」

「おせぇぇぇぇぇぇ!!」


 迎撃を行うよりもはるかに速く、フック気味に放たれた葛躙の右拳が常春の左頬を鋭くとらえた。


 強烈な衝撃に押し流され、壁に叩きつけられてワンバウンド。仰向けに落下しようとしたところへ今度は胸に蹴りを叩き込まれた。


「ごはっ!?」


 全身の血管が急膨張したようなショックが一瞬響く。目を白黒させている間に今度は頭を掴まれ、放り投げられた。宙を舞い、サッカーグラウンドの土へ叩きつけられる。


 ひるんでしまいそうな気持ちを渾身の意思力で回復させ、常春は立ち上がる。


 足音が近づく。


 葛躙は右目に突き刺さった破片を仮面ごと強引に抜き取ると、血涙を流す左目を閉じ、右目だけで常春を睨めつけてきた。眼光に含まれるのは、ドス黒い憤怒。


「よくも……よくも俺の目玉を潰してくれたなぁ…………許さねぇ、許さねぇぞ……!」


 閉じられた左目からびたびたと血を流しながら歩んでくるその様は、まるで復讐心に取り憑かれた亡霊のように見えた。


 今まで殺意しかなかった常春の心に、とうとう別の感情が芽生えてしまった。恐怖という感情が。


 葛躙はベルトの背中側へ右手を動かし、一条の白い鞭を取り出した。


 しゅぴぃん!! という、一昨日聞いたよりもさらに鋭く、殺気に溢れた風切り音。


「クソがっ! もう生け捕りなんざ関係ねぇっ! 殺す!! 殺してやるっ!! 上の連中にはこう説明すりゃいい!! 『ダチを目の前で殺されたショックで自殺しました』ってな!! そうすりゃ失敗しても微罪で済む!! 俺のせいじゃねぇ、てめぇが悪いんだ!! ——っぐっ、あああああああああああっ!!」 


 左目を左手で強く押さえ、苦痛を叫ぶ葛躙。その左手甲に刻まれた『葛』の字をモチーフにした紋章が、一瞬、赤熱しているさまを幻視した。


 しかし、しばらくするとその痛みを振り払うように両腕を開き、残った右目をギラつかせ、右手の白鞭を神速で疾らせた。


 鞭が通過した場所の地面に、まるで巨大な包丁でつけたような綺麗な切り傷ができていた。


 常春はぶるり、という震えとともに確信する。


 間違いない。あの時の鞭だ。電柱をネギのように斬ってみせた、あの。


 常春の足が、我知らず一歩後ろへ滑る。


 それを見て、葛躙は怒り皺を眉間に残しながら嗜虐の笑みを見せた。


「ビビってるみてぇだなぁ……? こいつで今からてめぇの五体を、ネギみてぇに斬り刻んでやる。——そぉらぁ!」 


 ぴゅい! という音とともに、白閃が宙を疾駆。


 その白閃は常春の左隣の地面を通過。深く綺麗な切り傷が出来ていた。


 常春の背筋を、悪寒が駆け上る。


 ——速過ぎる。


 見えないことはない。だが、見えるのと反応できるのとでは話が全く違う。


 自分に、あの鞭は避けられない……常春はそれを嫌でも思い知ってしまった。


「はははははははは!! 今のは小手調べだ! 今度こそ死んじまえぇ!!」


 葛躙は高笑とともに、今度こそ当てる意図を秘めて鞭を放った。


 迫りくる鞭。


 この鞭はどうしたって避けられない。


 死が訪れるほんの僅かな時間、常春の思考が脳裏で洪水のように流れた。


 ——やっぱり、僕は弱い。


 あれだけ強力な必殺パンチを持っていても、こんな外道一匹殴り飛ばせない。攻撃が当たったには当たったが、ほとんどマグレみたいなものだ。


 結局、僕は何も守れない。『日常』どころか、自分自身さえも。


 僕の守りたいものは、なす術なく僕の掌からこぼれ落ちていく。僕はそれを黙って見ているしかないのだ。


 悔しい。弱いことが、悔しくて仕方がない。


 ——力が欲しい。


 殺すため、私怨を晴らすため、そんな力じゃない。


 僕と、僕の大切な人達の『日常』を守り抜けるだけの力が欲しい————!




 ————いいか、小僧。実戦で必要なのはたった二つの要素だけだ。『敵を必ず倒す力』と『攻撃を必ず当てる力』。覚えるのはたったこれだけでいい。……今からお前に教えてやるのは、その後者に当たる「歩法」だ。




 死が訪れるまでの刹那が、感覚的に大きく引き延ばされた時間の中。




 ————人間というのは、一歩動く時、その一歩のために無駄な動きが多くしてしまうものだ。たった一歩を行うために、体内の運動では何拍子も費やしちまっている。この筋肉動かして、次はこの筋肉、次はこの筋肉、次はこの筋肉……といった具合のルーチンを辿ってようやく体が動く。これでは遅くて当たり前だ。




 とても懐かしい声が、常春の思考の中に割り込むように響き渡った。




 ————この歩法『閃爍せんしゃく』では、一歩に費やされる「拍子」を最小限に圧縮し、一歩を『最速』で移動する。そうすることで、「知覚」から「回避」へ至るまでの工程を極限まで短くできる。つまりどういうことかというと——ということだ。しかも他の技と違って、技の名前を発する必要が無い。体に覚え込ませれば、「やろう」と思っただけでできるようになる。





 傲岸不遜なようでいて、どことなく思いやるような響きの宿った、老夫の声。


 『爺さん』——黎舒聞との、思い出の1ピース。





 ————無論、習得は簡単ではない。しかし小僧、もしお前がこの『閃爍』をモノにできたとしたら——


 


 もう薄皮一枚の距離まで迫った白鞭。


 それと同時に、スモッグのような鈍色の曇天が、フラッシュのようにまばゆく光った。

 

 稲妻が、常春へと電速で近づく。






 ————お前は、







 落雷と白鞭が同時に直撃した——に。


 常春は先ほどまでの立ち位置から、大股一歩分の位置へと移動していた。


「何っ……!?」


 葛躙は両目を見開いた。片目が光を失ったことも忘れて。


 常春は、確かに雷に打たれたはずだった。


 けれど一瞬激しくフラッシュしたかと思ったら、先ほどまでとは立ち位置が変わっていたのだ。自分の鞭が避けられたことより、そこに驚愕を感じていた。


 違う。絶対に違う。


 きっと、片目しか見えなくなったことで遠近感が狂って、見間違いをしたんだ。でなければ、人間の反応速度で雷を避ける光景など見たりしないはずだ。


「死ねぇっ!!」


 再び、神速の白鞭を常春へ振り放つ。その鞭に刃などないが、使い手の体内で練りあげられた『内勁』が送り込まれ、極薄の刃のごとき切れ味を含有させていた。


 その白い曲線が滑らかに宙を駆け、常春へ肉薄し、目標を失って空を切った。常春は、鞭が向かった位置から横へ少しズレていた。


 今度こそ葛躙は確信する。間違いない。非常に信じがたいことだが、雷を避けられるほどの歩法を、この少年は自分の意思で使っている。


 鞭が当たる寸前、常春の姿が残光じみた残像を残し、一瞬で立ち位置を移動させた。動き始めと過程が全く見えない、……ちらちらとランプが点滅するような……そんな動き。


 その歩法『閃爍』が雷をも避けられたのは、「反応速度」という生物として不変の機能を鍛えたのではなく、「一動作にかかる時間」を極限まで省いたからだ——それを知る由もなく、葛躙は痛みも忘れて驚きを抱き続ける。


 いかに黎舒聞の弟子といえど、相手はまだ精神的に未熟な子供であるだけでなく、所属派閥を一切持たない根無し草。『求真門』という巨大な組織がバックについている自分には敵わない。組織の力を使えば、こんな子供などいくらでもあしらえる。まして、今は同門も一緒なのだ——そんな安心感から、葛躙は常春を怖がらず、それどころか少しおちょくってやろうとさえ思った。


 さらにこの少年は、『頂陽針』とかいう突き技しか使って来なかった。なめてかかっているのかと最初は思ったが、愚直に『頂陽針』ばかりを繰り返すその少年を見て、その技しか使えないのだと確信した。


 ところがどうだ。今この少年は、今まで使わなかった「二つ目の技」を使っている。


 最初から使えばよかったものを、なぜ今になって……?


 もしかすると、この少年は、黎舒聞から教えこそ受けたものの、何らかの『封印』のせいで使える技がかなり制限されているのかもしれない。実際、中華武功には、相手の技を肉体の記憶から消去させたり、逆に思い出させたりする技術も存在するのだ。


 つまり、石蕗常春は「龍の子」。


 今でこそちっぽけな小龍に過ぎない。けれど近い将来、その身に宿る潜在能力を全て解放し、誰にも負けない巨龍へと進化する。そんな運命を約束された存在。


 黎舒聞は、特定の門派に所属せず、たった一人で武林に覇を唱えたほどの達人。個人で巨大門派に伯仲するほどの力を持った最強の鬼人。


 もし、この少年がいつか自分の能力を全て取り戻し、成長し、そんな存在と同質になれば……求真門の大いなる脅威となりかねない。おまけにこの少年は、自分の『日常』を壊した求真門に、間違いなく憎悪を抱いている。


 !!


 葛躙は意識の全てを、体の中を任意の順番と拍子に動かすことのみに集中させる。


 右手の鞭を後方へ引き、空いた左手で石蕗常春を照準する。


 一瞬、極限まで心身を鎮静化させ、その次の瞬間……『殺す技』の名を叫んだ。


絶招ぜっしょう————『女媧鞭じょかべん』!!」


 『絶招』。


 それは中華武功における「奥の手」のこと。


 どの武功門派にもたいてい一つは存在し、いずれも精密な『気』の練りが要求される。その『気』の練りの連想トリガーとするべく、使用時には『技の名』を叫ぶ。


 鞭を握る右手の動きが、桁外れに速さを増した。


 白鞭は手首の素早いスナップによって高速で幾度もしなり、鞭尖端部が幾度も常春へ襲いかかる。その様は、まさしく無数の白蛇が鋭く噛みつかんとしているかのようだ。


 この無数の刺突のうち、約六割は視界を撹乱するための『フェイント』。それを隠れ蓑に放たれた残り四割の『本命』の刺突が、研ぎ澄まされた「穿孔力」の性質を秘めた内勁によって常春に殺到。


 タングステンの鋼板にすら穴を穿つほどの刺突が音速で無数に迫る様は、徹甲弾の一斉射撃に等しかった。


 だが、常春は——その全てを『閃爍』で回避していく!


「こ、この野郎っ!?」


 焦りに駆られた葛躙は、再び『女媧鞭』と叫び、その必殺であるはずの『絶招』を発する。


 だがやはり、常春には当たらない。


 四割の『実』が薄皮一枚まで迫った瞬間、少年の小柄な体は残光のような残像だけを残して隣の立ち位置へと瞬時に移動、そこへまた迫った『実』さえも回避……それを何度も繰り返し成功させていく。


 『虚』と『実』が混在する『女媧鞭』のロジックを、常春は当然知らない。ただ、、知覚し、瞬時に回避しているだけだ。


 けれど、それがどれだけ難しいのか、この小僧は理解しているのか——!?


 さらにその小僧は回避しながら、接近まで試みてくるではないか。


 鞭の弾幕が、止まる。


「くそっ、『女媧……うぐっ…………!?」


 三度目の発動を試みたが、中断された。たった二回技を出しただけで、葛躙の額は汗みずくであった。


 『絶招』は強力な技であるが、基本的に体力、精神力の消耗が激しい。それゆえ、使い所を間違えれば自分の首を締めることになりかねない。


 さらに一度その技を見られると、次会う時までに対策を取られる可能性がある。


 だからこそ、『絶招』は『殺し技』なのだ。


 実際、葛躙はこの技を出した時、例外なく相手を殺せた。


 だが、今、その実績を覆された。


 荒い息を繰り返し、大汗を全身の皮膚に浮かべる葛躙。


 今なお強い瞋恚の光を瞳に帯び、着実に、盤石に、足を歩ませてくる常春。


 「獲物」と「狩人」……その図式が今、逆転していた。


「ま、待てやめろ、やめてくれ! 全部あの女の差し金なんだ! だからやめろ! お願いだ! 勘弁してくれよぉ!!」


 先ほどまでの余裕な物腰が嘘のような、情けない命乞いを始める「獲物」。


 対する「狩人」の返答は、実に手短で、雄弁な『死の宣告』だった。


「『頂陽針』」


 極限まで低温化させた発声とともに、拳が莫大な推進力を帯び、葛躙の顔面を打ち砕く。


 弾丸じみた速度で真っ直ぐ吹っ飛び、学校外とグラウンドを隔てる分厚く小高いブロック壁に深くめり込んだ。


 その一撃だけでも、すでに虫の息だった。命乞いの一つすら口にできないほどに。


 しかし常春は、なおも歩み寄り、


「『頂陽針』」


 もう一度、極剛の拳打を胴体へ叩き込んだ。


 空気が激震。ブロック壁に、広々としたクラックが根を張った。


「『頂陽針』」


 またも発声。ブロックの亀裂がさらに増え、さらに深くなる。


 その時点で、葛躙は事切れていた。


 しかし、それをまだ知らない常春は、なおも繰り返した。


「『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』『頂陽針』」


 細胞の一片さえ残さない。そう言外に告げるかのように。


 大地を揺るがしかねないほどの激甚な内勁が幾度も発せられ、いつしかコンクリートブロックは半壊して瓦礫の山と化していた。そのブロックの上にあったフェンスも、絡まった糸クズ同然にひしゃげていた。


 常春の後方の土には、放射状に広がる風圧の跡ができており、それを埋めるようにして常春の前から後ろにかけて赤黒い液体が流れていく。


 その赤黒い液体、すなわち「血」の源泉は……瓦礫の山の中で横たわる葛躙の死骸だった。


 胴体は、とてつもない力で圧壊して真っ二つにされており、上半身と下半身の断面から赤黒い血が絶え間なく吐き出されつづけていた。


 表情はとてつもない衝撃に驚愕と苦痛を同時に感じたような表情で固定されており、瞳にはすでに命の反応がない。


 わざわざ確かめに近づくまでもなく、死んでいた。


「はぁっ、はぁっ、はぁ…………っ!」


 殺した。


 村田、鈴町、そして市原——大切な友達を虫ケラのように殺した鬼畜外道は、もう命の幕を下ろしている。


 仇を取った。


 しかし、常春の気は安らがなかった。


 地面が柔らかくなったような、ぐねぐねした不快感を覚えた。


 自分の拳が人を死なしめた。


 そんな『非日常』的事実が、目の前に存在する。


「っ——ぉええええええぇぇぇっっ…………!」


 とうとうたまらなくなり、常春は地に跪き、不快感のまま胃の中身を吐き戻した。内筋群がポンプのように昼食と胃酸の混合物を体外へ押し戻す。それを実感しながら、常春は考えた。


 殺した。僕が殺したんだ。殺してしまったんだ。


 確かに、最初に殺すとはっきり宣言した。市原にあんな殺し方をした葛躙を、同じ目に遭わせてやりたいと強く思いながら必殺の拳を振るった。


 有言実行。それは達成された。


 けれど、すっきりなんか全然しない。


 これ以上ないくらい不快だった。


 さっきまで普通に息をして、話をしていた人間を、自分の拳が物言わぬ肉塊に変えてしまった。


 そのことに対して感じているこの気持ち悪さは、罪悪感なのか、あるいは……


 とにかく、気分は最悪の一言に尽きる。


 しかも、たった一人を殺したからどうなる?


 こいつの仲間は、他にもたくさんいた。あと十人いたはずだ。


 一人と戦うだけで、こんなにも苦しそうにしている自分に、これ以上何ができるだろう?


 足音が聞こえてくる。数は、三人、四人……六人か。


 かなり遠くから聞こえてきた足音の重複は、あっという間に大きくなっていき、それぞれ分散して常春の周囲を囲い込んだ。


 顔を上げると、周囲には仮面を被った男達がいた。全員、敵対心を示すように身構えている。刀剣を持っている奴もいた。


「あの葛躙をあしらうとは……奴は感情が不安定で激しやすいが、それなりに腕は立つほうだったのにな」


「こんな子供でも、黎舒聞の弟子というわけか」


「だが、随分と疲れきっている様子」


「今なら、俺たち全員が束になってかかれば、捕獲は可能かもしれん」


 口々に言うと、六人は常春を囲う円陣を徐々に、徐々に狭めていく。


 見ると、全員の左手甲には、が刻み込まれていた。『葛』という漢字をモチーフにした紋章。——もしかすると、あれが『求真門』の会員証のようなものなのかもしれない。


 おそらく、こいつらも武功が使えるんだろう。


 新たな技こそ覚えた——正確には、思い出した——ものの、今の疲れきった自分ではむなしい抵抗しかできそうにない。助けてくれる者もいない。


 いっそ、ここで捕まってしまおうか…………学校を襲ったこいつらの事は許せないけど、そもそも僕がいなければ、こんな事態にはならなかったんだ。村田くんも、鈴町さんも、市原さんも、死ぬことはなかったんだ。


 僕は『日常』を守ることができなかった。


「これは……その報い、かな…………」


 蚊の鳴くような声で、一人そう納得する。


 その言葉通り、気持ちを諦めに切り替えようとした、その時だった。






「君は友達のため、慣れない動きで立派に戦ったんだ。どんな報いを受ける必要がある」






 涼やかさと威厳を併せ持つ女の声が、耳を揺さぶった。

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