第42話

 

 家でも学校でも孤独だった凪の唯一の癒しは、百合漫画を読むことだった。


 幼い頃から自分のセクシュアリティは何となく理解していた。

 男性にときめいた事はなく、女性に目を奪われることが多かった。


 何より少女漫画よりも百合漫画にときめいてしまうということは、それが何よりの答えだろう。


 お気に入りの百合漫画を読み終えてから、込み上げてきた感情をそのまま溢れ落とす。


 「私もいつか、誰かと恋したりするのかな…」


 好んで読む百合漫画はどれもハッピーエンドで、みんな幸せそうな顔で結末を迎えている。


 自分もいつか誰かと、そんな素敵な恋をするのだろうかと胸をときめかせるが、すぐに背中の跡を思い出す。


 「……その人はこの跡を見たらどう思うだろう」


 体を捧げてもいいと思うくらい好きな相手は、この火傷の跡をどう受け止めるだろう。


 引かれるのだろうか。

 もし酷い言葉を投げかけられたら、生きるのが辛くなるほど傷ついてしまうような気がした。


 想像するだけで怖くて、もしそうなってしまったら、立ち直れないほどの絶望感に駆られてしまうのだろう。

 





 待ち合わせ場所の喫茶店へと向かえば、そこにはすでに母親の姿があった。

 会うのはおよそ数年ぶりで、高校生になったのを機に会うことになったのだ。


 父親は複雑そうな顔をしていたが、娘の強い意志に首を横に振る気にはなれなかったのだろう。


 「ママ」


 声を掛ければ、嬉しそうに母親が顔を綻ばせる。

 最近は鬱病も良くなっていると聞かされていたが、あの頃のように笑えるくらいには回復していたらしい。


 「綺麗になったね、元気してた?」

 「ママは?」

 「もちろん元気よ…おばあちゃんのお店ついで花屋続けてる」


 身なりもきちんとしているため、お金にも困ってなさそうだった。

 顔色も良くて、きっと少しずつかつてのように前を向き始めている。


 母親には笑っていて欲しかった。

 あの頃のように笑い合って、そしてまた家族3人で暮らしたい。


 まだ口にした事はないけれど、長いことそう考え続けているのだ。


 「凪はどう?」

 「え……」

 「好きな男の子とか出来た?」


 首を横に振れば、母親の頬が引き攣るのが分かった。

 同時に、この人の傷が決して癒えていないことに気づく。


 「……そっか」


 罪悪感に満ちた顔。

 きっと跡のせいで、恋愛が上手くできてないと思っているのだ。


 凪がどれだけ否定しても、母親はこれから先一生自分を責め続ける。

 娘に大きな火傷の跡を負わせた罪悪感は、きっと何一つ変わっていない。


 家族がまた一緒に暮らせるなんて、夢のまた夢なのだと突きつけられたようだった。


 凪自身は母親を責めたことは一度だってないと言うのに。


 「ごめんね」


 この跡を後ろめたく思い始めたのは、周囲による反応だった。

 必死に前を向うとしても、父や祖母が可哀想だと言い続けるから。


 母親が何度も謝ってくるから、その傷の深さに気付かされる。


 気にならないふりをしても、嫌でも現実を突きつけられるのだ。


 「ごめんね、凪。お母さんのせいで」

 「気にしてないよ」

 「痛かったでしょう?……ごめんなさい」


 泣かれるたびに罪悪感で胸が痛んだ。

 自分のせいで母親が苦しみ続けていることが、苦しくて仕方ない。


 どれだけ否定しても母親が涙を流し続けるから、自分の跡が周囲からどう思われるのか、その傷の深さに下を向きたくなってしまうのだ。






 あの子のことは噂で何となく聞いていた。

 隣のクラスの明るくて美人な人気者。


 いつも輪の中心にいて、男女ともに人気がある。


 クラスは別だったが、高校一年生の頃は隣のクラス同士だったため、体育の授業が一緒だったのだ。


 あれは確か、少しずつ蒸し暑くなり始めた7月の頭だったろうか。


 跡を見られるのが嫌で、頑なにプールに入らなかった凪は、体育教師に呼び出されて説教を受けていたのだ。


 「いい加減にしなさい」

 「生理なんで」

 「2ヶ月ずっとなんてありえないわよ。本当だったら病院行きなさい」


 一方的に責め立てられて、ここでため息の一つでも吐いてしまえば更に彼女の怒りを買うのだろう。


 こんなに怒られるのであれば、早いうちに父親から電話を入れて貰えばよかった。

 どうやって切り抜こうかと考えていれば、眩い彼女が助け舟を出してくれたのだ。


 「あの、その子すごく肌が弱くて塩素だめらしいです」


 スクール水着を着て、タオルを首に掛けた彼女。

 ちょうど25メートルを泳ぎ切って、スタートラインへと戻る途中に割って入ってきたのだ。


 生徒指導をしていて怖いと評判の女性教師とは、誰も関わりたがらない。

 

 凪が怒られている間も、ずっとチラチラと視線をやるばかりで誰も助けてはくれなかったのだ。


 お人好しなのか、正義感が強いのか。


 「痛くてかぶれちゃうから、皮膚科にも通ってるんでしょ」

 「え……」


 肩をコツンと小突かれて、咄嗟に言い訳を考える。普段から勉強はできて、頭の回転は早い方なのだ。


 「はい…アレルギーではないんですけど、必要だったら父親からも連絡してもらいます」

 「だったら早く言いなさい!」


 厳しく怒鳴りつけられてから、ようやく解放される。

 教師が教官室へと入っていくのを見送ってから、彼女へ声を掛けた。


 「……ありがとう」

 「別にいいよ。あいつ嫌いだし」

 「陽キャって体育好きじゃないの?」

 「体育の授業は好きだけどあいつは嫌い。人の話聞かないし、運動苦手な子にはめっちゃ当たりキツイじゃん」


 それだけを言い残して、背中を向ける彼女の後ろ姿をジッと眺めていた。


 綺麗な子だった。

 肌が真っ白で、傷一つない。

 スクール水着を着ていても、スタイルの良さが一眼で分かる。


 何よりも天使と呼ばれて遠巻きに見られてばかりだったため、声を掛けられたこと自体嬉しかったのだ。


 愛想もなく、無愛想な凪のことを助けてくれた。

 この事がきっかけで、凪の中で上村雪美の存在は少しずつ大きくなっていったのだ。

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