第四章 人形と悪魔 7

「――待った」

 セトの手から生まれた蛇は、牢ではなく彼の背後へとするりと回った。振り向いたセトの背中越しに、亜麻色の髪の毛が見える。

「ザカリアさん!」

「君の蛇には、僕の髑髏がお似合いだよ」

 ザカリアの胸の前には、白い頭蓋骨がぼんやりと浮かんでいた。半分透けたそれは突如飛び出すように動き、セトの蛇を自身の眼窩へとくぐらせた。途端に蛇は動きを止め、だらりと垂れたかと思うと霧のように消えた。

「『無常』や『虚栄』の象徴たるこの髑髏は、アダムの頭蓋骨――つまり原罪の象徴として磔刑図にも描かれる。その時点で原罪を引き起こした蛇は僕の魔石の敵じゃないんだよ。君も同じようになりたいか? 僕がまばたきする間に、髑髏は君の頭にかぶりつく」

「おまえも、機構の稀人か」

 セトが抑えた声でつぶやく。

「何人来ても同じことだ。魔術の訓練を続けてきたおれの魔力は、半日戦い続けたとしても枯れない。半端な魔術は通用しないぞ」

「なるほど。試してみようじゃないか」

 ザカリアはにっこりと笑みを浮かべた。その瞬間、大きく膨れ上がった髑髏がセトの上半身をすっぽりと飲み込んだ。

「形あるものは全て滅びる。おまえの王国など、風に吹き飛ばされる塵のようなものだ」

 髑髏が傾き、セトの体ごとゆっくりと倒れる。その瞬間髑髏は消え、後には唇を真っ青にして目を見開いたセトの姿だけが残った。

「死んだ、んですか」

 ラザロが鉄格子に顔を押しつけるようにしながら尋ねる。 

「まさか。静かに己の生を見つめ直しているだけだよ」

 そう言うと、ザカリアはセトの手元に落ちた鍵を拾い、二人を牢から解放した。素早くラザロの縄を解くと、辺りを見回した。

「司祭に用がある。彼はどこだ」

「聖堂です」

 イザヤが答えるなり、ザカリアは彼があごで示したほうへと走った。ラザロに肩を貸して立ち上がらせると、「いないぞ」とザカリアが戻ってくる。

「まさか。さっき、確かに……」

「……逃げられたか」

 ザカリアは顔を歪めて小さくつぶやいた。

「ザカリアさん、どうしてここに? なぜ、ニコデモ司祭を捜しているのです」

 イザヤの問いかけに、ザカリアは首を振った。

「話は後だ。仕事を終わらせて、さっさとここを出よう。急がずとも後始末はできる」

「子供たちはどうするんです。このまま置いていくんですか」

「それも後だ! イザヤ、今は自分の仕事のことだけを考えろ。おまえは回収人だろう」

「イザヤさん、ここは危険です。とりあえず、外に出ましょう」

 二人に言われて、イザヤは子供たちに目を向けた。不安げな表情の彼らにうなずくと、後ろ髪をひかれる思いで坑道を駆け、梯子を上る。

「回収が必要なアトリビュートは何だ」

「没薬です」

 イザヤが答えると、ザカリアは聖堂を見回した。

「急いで探すんだ。ラザロ、見当はつくか」

「聖具室のような場所があれば、そこかと。こっちです」

 走り出したラザロについていき、懺悔室の反対側の扉を抜ける。廊下の片側にいくつかある扉のうち、一番手前の部屋に入った。

 壁際の棚の中に、燭台や香炉、ミサ典書などが収められている。昼間使っていた天秤や、納税、行事、村人に関する記録簿も同じ棚にあった。だが没薬は見つからない。

 イザヤは壁にかけられた無地のタペストリーに注目した。違和感を覚えて引くとそこに壁はなく、いくつもの棺や長持とともに、台の上にたくさんの木彫りの人形が並べられているのが見えた。ぞっとするのを事とせず、長持を一つずつ開けていく。果たして、その中に大量の没薬が収められた袋を発見した。

「ありました」

「よし。僕がやろう」

 ザカリアの魔石から光が放たれる。没薬の袋から迸る光は、夜空の色をしていた。押し固められた光を手に取り、ザカリアは目に当てる。

「ベラスケス『東方三博士の礼拝』か。これで、村人たちは正気を取り戻した。子供たちを取り返したがるかもしれないが、機構で保護しなければならないことを理解してもらおう。それにしても、稀人を崇拝する人間とは……驚いたね」

「ええ、全くです」

 ラザロだった。めくられたタペストリーの向こう側から、静かに青い目を覗かせている。

「ありえませんよ。稀人は、悪魔の子供だと言うのに」

「……ラザロさん?」

 突然の言葉に戸惑うイザヤにかまわず、ラザロは他の長持を次々と開けていく。

 その中の一つからラザロが取り上げたのは、一振りの剣だった。錆び付いて汚れた切っ先、蛇の巻き付く彫刻が施された柄――旧世界の遺物だ。

「ここの司祭、あんなものまで隠し持って――」

 ザカリアのつぶやきは、剣をイザヤに突きつけたラザロを前にして止まった。

「悪を滅ぼす救世主の使いとして、役割を果たすときだ」

「やめろ、ラザロ。落ち着くんだ」

 ラザロはいつの間にか持っていた天秤を、もう片方の手で掲げた。瞬時に気づく。剣と、天秤。そのアトリビュートが意味するところは……

「大天使ミカエル……」

「どいてください、ザカリアさん。私はイザヤさんを斬らねばなりません。完全なる『最後の審判』の訪れのために」

「ラザロ、退くんだ。彼を殺してはならない」

 ザカリアがラザロを制するように手を伸ばす。

「最後の審判」。まさしく大天使ミカエルが悪魔を倒す様が描かれている、リベルの書の最終章「黙示録」が語る救世主再臨の物語だ。世界の終末から、救世主による地上の王国の建国までが記されている。

『あいつ……ミカエルの傀儡魔になったのか』

 エレミヤの愕然としたつぶやきが脳内に響く。

『回収は――無理か』

 アトリビュートは剣と天秤のどちらか、あるいは両方だ。それがわかっていながら、目の前にしていながら、魔術を放つことすら怪しいイザヤはもちろん、回収をかけたばかりのザカリアも何もすることができない。

「ラザロさん、落ち着いてください。剣を置いて、天秤からも手を離してください。そうすれば、あるいは……」

「無駄だよ、イザヤ」

 ザカリアが首を振る。

「少しだけ……少しだけでいい。時間を稼いでくれ。僕がなんとかする」

 言うなり、ザカリアはイザヤから離れるように飛び退いた。そのままタペストリーの向こうに消えてしまう。

『あいつ、逃げたのか!?』

 エレミヤの叫びとともに、イザヤの中の動揺が一気に膨らんだ。落ち着け。あれは傀儡魔。自分の知っているラザロではない。ラザロが自分を斬ろうとするはずがない。だって、ラザロは――……

「実に百年以上だよ、イザヤ」

 ラザロが、ゆらりと近づいてくる。

「それだけの間魔力を回収し続けたのに、傀儡魔は減るどころかむしろ増えている。この世界にはびこる魔力は、かつての大罪人の残存魔力などではないんだよ。今ここに存在する悪魔……君たち稀人が生み出しているものなんだ」

「ラザロさん。今あなたが語っている言葉は、あなたの意志によるものではないはずです」

 自分に言い聞かせるような言葉に、じわりと涙が滲む。

「お願いです、思い出してください。私はイザヤ。さっき、話したじゃありませんか。いつか、私が回収人でなくなったら……」

「この世界から稀人を殲滅させ、すべての魔力の痕跡を払底する」

 イザヤの声は、もはやラザロの耳に届いていないようだった。ラザロ――傀儡魔は、剣を鼻のすぐ先で垂直に立てた。その途端、剣から錆が消え、みるみる銀色に光り出す。

 傀儡魔が、青い瞳をかっと見開いた。その鋭い視線の先には、イザヤの白い顔。

「それがリベルの司祭として、僕に課された使命!」

『イザヤ、よけろ!』

 剣を大きく振り上げた傀儡魔は、イザヤの足が力を入れる前にそれを一息に振り下ろした。

『――畜生!』

 左腕が熱い。心臓がどくどくと唸るように鳴る。――痛い。

 肘の先がなかった。咄嗟に突き出した腕に斜めに入れられた刃は、床に落ちたイザヤの左手に赤い血を滴らせていた。離れた左手が生む血だまりが、意志を持っているかのようにイザヤのほうへと流れてくる。

『腕を取れ! 今ならまだ治せるぞ!』

 時間が経てば、肉体の欠損は自動的に補われる。腕を失えば腕が、脚を失えば脚が、植物が伸びるよう生えてくるのだ。だが欠損部位が大きければ大きいほど時間がかかるし、体力だけでなく魔力も大きく消し、寿命を短くすることにも繋がる。欠損箇所が残っている場合は早いうちに断面を合わせることで、元通りに戻すことができるのだ。

 イザヤはあまりの痛みに身をかがめた。鼓動のたびに断面から噴き出す血液が、体力と意識を奪っていく。

『イザヤ! しっかりしろ、イザヤ! ここで終わってもいいのかよ!』

「エレ、ミヤさん……私は……」

 声が続かない。ラザロは剣についた血を汚いもののように振って落とすと、再び同じ構えでイザヤに近づいてきた。その途中で、落ちた左手をタペストリーのほうへと蹴飛ばす。

「化け物であることを忘れていました。次はしっかりと心臓を仕留めねば」

 剣が振り上げられた、そのとき。切っ先が、銀色に光った。月だ。窓から差し込む月の光が、刃を通してイザヤの目を照らしたのだった。

『イザヤ!』

 そうだ。失っても、右手がまだ残っている。

 ――『エンデュミオンの眠り』。

 傀儡魔の動きが、ぴたりと止まった。手にした剣が、がちゃりと床に落ちる。

 倒れる、と思った瞬間、傀儡魔は両手を床につき、膝を立てた状態でぶるぶると震えた。重いまぶたを必死に持ち上げ、眠るまいと抵抗している。

 イザヤは床をいざり、タペストリーの下で何かを受け止めるように上を向いている自身の左手を引き寄せた。血を吐く左腕をなんとか前に突き出し、断面同士をくっつける。

 が、その瞬間、傀儡魔がイザヤの足を掴んだ。左腕がしゅるしゅると血管や神経を繋ぎ出す中、傀儡魔は落とした剣を杖のように床に突き刺し、ゆっくりと立ち上がった。

 今大きな動きをしたら、繋がり始めたばかりの左腕はまた別れてしまうだろう。これ以上出血すれば意識を失うばかりか、命だって危ない。

 イザヤは右腕を使って傀儡魔から少しでも離れようと床を這った。懐かしい香りが鼻をくすぐったのは、そのときだ。イザヤの体を飛び越えて舞う、黄金色の液体。マグダラのマリアのアトリビュート、ナルドの香油だ。

 足を掴んでいた手から力が消えると、ザカリアがイザヤを抱き起こした。

「すまない、ぎりぎりだった。魔術を放てるだけの魔力が溜まるまで待っていたんだ」

「……また、助けられてしまいましたね」

 皮膚の繋がった左腕を見下ろしながら、乾いた息をつく。ザカリアは問題ないと言いたげに首を振った。

「君が魔術を放たなければ、間に合わなかったかもしれない。腕はどうだ? 動くか?」

「なんとか、繋がりそうです」

 棚にあった縄でラザロを拘束したザカリアは、壺や食器などの旧世界の遺物が収められている長持ちを見渡した。

「おそらく、魔力を回収した後のアトリビュートの抜け殻だろう。改めて回収・調査する必要があるな。ひとまず、剣と天秤ミカエルのアトリビュートを持ってここを出よう」

 どちらかが回収をかけられるようになるには、明朝を待たねばならないだろう。なんとか動くようになった左手を使って、イザヤは剣と天秤を抱えた。

 ラザロを肩に担ぎ上げたザカリアに続き、廊下へと出る。すると、 

『おい。まだ朝には早えよな』

 エレミヤの声と同時に、イザヤは顔をしかめた。明るい。そして、焦げ臭い。

「火だ!」

 ザカリアが叫ぶ。廊下を走って聖堂の入り口まで来ると、祭壇と内陣が赤々と燃え上がっているのが見えた。その手前に、黒い人影。

「ニコデモ司祭!」

 イザヤの叫びで振り返った人物は、確かにニコデモ司祭その人だった。

 なぜだ。ディアナの矢は、確かに彼の胸を貫いたはずなのに。

『手加減、したのか』

 そんなはずはない、と思いながらも、イザヤは奥歯を噛み締めた。二本目の矢を射る際、無意識のうちに弓を引く力がゆるんだのかもしれない。

「イザヤさん。勝手をお許しください」

「何をしているんです。子供達は……」

「隠し通路を通して逃がしました。厩舎の飼い葉桶の下に、出口があります。不本意ではありますが、イザヤさんに一旦お預けします。彼らのことを、どうかよろしくお願いします」

 もうもうと立ち上る黒煙を背に、ニコデモ司祭は静かに頭を下げた。

「なぜ、こんなことを……これから、どうするつもりです」

「詳しく調べられると厄介ですから、全てを焼くことに決めました。私には、全てを捨ててでも果たさねばならない使命があります。イサク司祭と合流し、彼とともに願いを実現させるつもりです」

「――イサク?」

 胸がつきんと突かれたようだった。同時に蘇る、少年の日の記憶。

「待ってください。その、イサク司祭というのは……」

「悪いが、急ぐんだ」

 司祭の足元から、黒い塊がのっそりと立ち上がった。セトだ。

「おまえたちの魔術はまだまだだ。表面的で、薄くて浅い。次までに、せいぜい腕を磨いておくんだな」

「待て!」

 ザカリアが手を伸ばした瞬間、司祭の前に揺らめく鋤の像が出現した。

「『ノリ・メ・タンゲレ』」

 セトの低い声とともに、ザカリアが後方へ弾き飛ばされる。ニコデモ司祭を片手で引き寄せると、セトは魔石のネックレスを繰った。そのひとつに口づけすると、途端に二人の姿が消える。

『ハデスの隠れ兜か』

「ニコデモ、待て! 逃げるな!」

 起き上がったザカリアは、二人のいた場所目がけて駆け出そうとした。イザヤは彼のマントを掴み、それを制する。

「ザカリアさん、危険です。早く外へ!」

 祭壇の炎は天井高く手を伸ばし、黒煙を吐き続けていた。ラザロはしばらくの間悔しそうにそれを睨みつけていたが、やがてイザヤとともにラザロを抱え、聖堂を飛び出した。そのまま正面の扉を開け、外へと転がり出る。二人は、抱えたラザロごとサンザシの茂みに倒れ込んだ。

「くそ。姿を消されるとは思わなかった」

「ひとまず、子供達の安全を確認しましょう。幸い村人のみなさんの家は離れているから、延焼することはなさそうです」

 二人は厩舎の飼い葉桶を動かし、藁に隠されていた扉を開けた。中は聖堂ほどの広さの空間になっているらしく、エノシュを初めとした子供達が、怯えた目つきでイザヤたちを見上げていた。

「よかった。全員、無事のようです」

「かわいそうだが、もうしばらくここで我慢してもらおう」

 ザカリアが手持ちの水と食料を渡す。

「どうするんですか」

「後で手を回して、秘密裏に機構に保護させる。村人たちには、焼け死んだと伝えよう」

 勢いを増した炎は、教会堂を包み込んで燃え続けていた。まだ闇の濃い空に吸い込まれるように、黒煙が立ち上っていく。

 教会の火に気づいて家から出てきた村人たちが、通りに集まり始めていた。もはや傀儡魔でなくなった彼らは、イザヤとザカリアを激しく罵倒した。「よそ者が教会に入ったからだ」と非難し、司祭とセトの死を嘆いて泣き暮れた。

「待って。子供がいるはずよ」

 歩み出てきた女性がイザヤに言った。起き抜けにそのまま飛び出してきたようで、黒い巻き毛が乱れている。彼女の後ろには、見覚えのある青年が立っていた。

「クレアさん、ですね」

 女性はうなずく。

「産んだばかりの子供が、地下にいるの。きっとどこかを通って、別の場所に避難しているはずだわ」

「いえ、お子さんは……」

「助け出そうとしましたが、無理でした」

 ザカリアが口を挟んだ。

「原因は、司祭の火の不始末のようです。倒れた燭台の周囲が激しく燃え上がっているのを見ました。地下も調べましたが、隠し通路はありませんでした」

「そんな。嘘よ。本当にちゃんと調べたの?」

「クレア。もう、諦めよう。あの葬儀が、本当のアランとのお別れだったんだ」

 静かに声をかけたアランを、クレアは睨みつけた。

「違うわ、棺の中は人形じゃないの。あのばかげた儀式は、もう終わりよ。私は、私の産んだ子をこの手で育てるわ。絶対に、諦めないんだから!」

 言うなり、クレアは寝間着の裾を引きずりながら炎に包まれる教会へと走っていった。夫のアランに引き留められ、炎に照らされた横顔で泣きわめく。

「いやよ! アラン! 私のアラン!」

 彼女の泣き声に答えるように、ハルピュイアが鳴いた。姿の見えないその鳥の声は、クレアの悲しみに同調しているように聞こえた。

「セト様は、われわれの中心だった」

 イザヤの背後で、白い髭をたくわえた老人が静かにつぶやいた。

「彼と司祭様のおかげで、すべてがうまく回っていたのに。この村はまた、独占と奪い合いのはびこるさもしい村に逆戻りしてしまうのか」

 イザヤは踊るように波打つ炎をぼんやりと見上げた。それはまるで、教会堂に落とされた天の怒りのように見えた。

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