第四章 人形と悪魔 2
村に続く坂道を上っている途中、イザヤは漂ってくる妙な香りに気づいた。薬と煙の混ざったような匂いの中に、わずかな甘さが立ち上ってくる。
その香りが村の入り口近くにある教会から来るものだと知ると、ラザロがはっと息をのんだ。
「これは……没薬?」
二人は思わず顔を見合わせる。教会から漂う、没薬の香り。それが意味するところは、ただ一つ――死者の葬儀だ。
「間に合わなかったのか!」
声を荒げたラザロは、馬を教会へと走らせた。イザヤもあわててそれに続く。
『赤子の葬儀か』
「わかりません。それにしては、早すぎる気もしますが……とにかく、確かめないと」
『密偵とやらもアテにならねえな。まあ、お産のタイミングなんて医者か産婆でもなきゃわかるもんじゃねえか』
産まれた子供は男児だったのだろうか。到着する前に殺されたのか、あるいはトラブルによる流産か……いずれにせよ、まずは調査対象とこの香りの関係を確かめなければならない。
前庭の木に馬を繋ぐと、ラザロは飛ぶ勢いで教会の扉を開けた。
ラザロの肩越しに、中に並んでいた人々が一斉にこちらを振り返るのが見えた。村人たちだ。やや垢じみてはいたが、質素な服装からは誠実さがにじみ出ている。
「どなたですかな」
村人たちの向こうから、穏やかな声がした。
「失礼いたしました。私、カナン第六教会所属のラザロと申します」
ラザロは最前までの様子と打って変わって、大人びた声で丁寧に辞儀をした。
「所用で通りかかりましたところ、こちらの村から没薬の香りが漂ってきまして……故人の追悼に間に合うようにと、つい気が急いてしまいました。大切な儀式の最中のご無礼をお許しください。不躾なお願いですが、よろしければ私からも、故人への祈りの言葉を捧げさせていただけないでしょうか」
「なるほど、そうでしたか」
村人の列を割って歩み寄ってきたのは、一人の老司祭だった。
その面差しに、イザヤははっとした。――似ている。
初めて絵を見た、あの少年の日。
色とりどりの魔石の入ったトランクを持ってやって来た、髭の老司祭。傀儡魔となってイザヤを襲ったあの老司祭に、目の前の男はよく似ていた。
が、その瞳を見た途端、すぐに別人だと気づいた。色が違う。目の前に立つ司祭の目は、濃い灰色。独房でイザヤに絵を見せてくれた老司祭は、深い黒の瞳だった。
「わたくし、このジェリコ村の主任司祭を務めております、ニコデモと申します」
「ラザロと申します。こちらは従者のイザヤです」
そんな設定は聞いていないと思いながらも、イザヤはラザロに倣って頭を下げた。稀人が司祭の従者を務める――本来ありえないことだが、教会と機構の関係を考えればありそうな話ではある。
目を上げたイザヤは、村人たちの視線に晒された。じっと見つめてきた後で、さっと顔を背ける。これまで多くの人にそうされてきたように、今回もそうなのだろう。
だが村人たちの目は、イザヤの顔から離れなかった。それどころかますます彼の顔を注視し、その瞳の輝きを強めていくようだった。中には見開いた目を細め、まぶしそうにイザヤを見つめる者もいる。
『――気味の悪い奴らだな』
エレミヤがそう言う間に、ニコデモ司祭は静かにこちらへと歩み寄ってきた。
「ラザロ司祭。故人を悼み、罪の許しと永遠の生命を祈る心をどうして拒絶できましょう。みなさん、ぜひこのラザロ司祭にも加わっていただこうではないですか。産まれて間もなく神の元に旅立った、哀れな幼子のために」
村人たちの顔に、笑みが浮かべられる。同時にラザロが、「幼子」とつぶやいた。
「産まれて間もなく……とおっしゃいましたか」
「ええ。二日前、粉屋のクレアが産んだ子供です。悲しいことに、産まれたときには既に息をしておりませんでした」
二日前、という言葉でラザロの眉が曇った。
「その子の名前は……」
「アランです。父親の名をそのまま取りました」
『……男か』
ラザロの手が、くっと握られるのがわかった。
二人はニコデモ司祭に導かれ、祭壇のほうへ進んだ。祭壇の前には、蓋の閉まった小さな棺が置かれている。通常のものの半分以下の大きさの、幼児用のものだ。
棺のすぐ横には、一人の若者が立っていた。無表情で、静かにうなだれている。彼が赤子の名の由来にもなった父親、アランだろう。
ラザロはアランに一礼すると、棺の前に跪いた。
「アランの魂が平穏とともに旅立ち、永遠の生命を得られますように」
イザヤも同じように跪き、両手を組む。
「救世主の御名において、誠にそうなりますようお祈り申し上げます」
二人のすぐ後ろでニコデモ司祭が言うと、教会堂の空気がざっと動いた。村人たちが一斉に手を組み、祈りの姿勢になったのだ。
静寂の中、隣のラザロに目をやる。彼はいまだ棺を凝視したまま、唇を固く引き結んでいた。
その後、村人全員で教歌の斉唱が行われた。続いて、祭壇の上に供えられていたローズマリーの枝を、村人たちが順番に棺の上に置いていく。
「ありがとうございます。アランもきっと喜んでいることと思います」
壁際に立っていたイザヤらの元に、ニコデモ司祭が近づいてきた。
「いえ。突然の参加をお許しくださり、ありがとうございます。この後、すぐに埋葬を?」
「ええ。村人たちを帰した後、父親のアランとスーロフ――うちの下男とともに、裏の墓地へ埋葬します」
「最後にアラン君のお顔を拝みたかったのですが、間に合わずに残念です」
「そうですね。ですが、ご安心ください。この私がラザロ司祭のぶんまで、心を込めて弔いの祈りを捧げさせてもらいましたから」
ニコデモ司祭は、ラザロからイザヤへと視線を移した。
「不躾なことを申しますが、あなたの、その目……」
そこで言葉を止めた司祭に代わり、イザヤはうなずいて答えた。
「はい。私は、稀人です」
「やはり、そうでしたか」
ニコデモ司祭はほうっと息を吐き、イザヤの星屑の目を見つめた。
「彼は、魔力回収機構所属の回収人です。本格的に任務に出る前に、僕の従者として外の世界について学んでいる最中なんですよ」
さらりと嘘をついたラザロに、ニコデモは「なるほど」とうなずいた。
「そうでしたか。こうしてその星屑の瞳を目の前にしたのは、久しぶりです。お会いできて光栄ですよ、イザヤさん」
そうして微笑んだニコデモ司祭を前に、イザヤは照れるように言葉を返した。
「この村の方々は、私のような稀人に対しても変わらず接してくださるんですね。他のところでは、目を合わせてもらえないことがほとんどなので」
「ああ、目を合わせると災い云々という迷信ですね。彼らもそのことについては知っていますが、信じている人はひとりもいませんよ」
一笑に付す言い方に、イザヤは思わず村人たちのほうを見た。知らないのではなく、知っていて尚あれだけ見つめてくるとは、にわかには信じ難かった。ラザロが感嘆の息を漏らす。
「なるほど、それはすばらしいですね。司祭のお教えがよく浸透しているのでしょう。災いどころか、村の方々は彼に対して興味すら抱いているように見えます」
「なにぶん、辺鄙なところにある小村です。稀人の存在は知っていても、見るのは初めての者がほとんどですから、珍しいのかもしれません。イザヤさんのお気に障ったなら、申し訳ありません」
「いえ、そんなことは」
頭を下げたニコデモ司祭に、あわてて両手を振る。しかし、彼の次の言葉が、イザヤの手を中空で固まらせることとなった。
「イザヤさん。あなたは稀人と言えど、われわれと同じ人間です」
はっと息をのみ、老司祭の顔を見つめる。
かつて、これと似た言葉を言われたことがあった。イザヤの脳裏に、少年の日の思い出がよみがえる。
イザヤに初めて絵を見せてくれた、髭の老司祭。あるとき、彼は黒い瞳をイザヤに向け、穏やかな声でこう言った。
――あなたは特別なのです。稀人だからではありません。魔力を持っているかどうかに関わらず、あなたはひとりの人間として尊いのです。
それは、今の自分の信念につながる言葉だった。イザヤの中心には、常にこの言葉への信仰にも近い感情があった。
「イザヤさん。あなたは、稀人である前に、とても美しい。美は聖性に繋がる。村人たちは、きっとあなたの美しさに神々しいものを感じたのですよ。私と同じように」
目の前の老司祭に、かつての師の姿が重なったように思えた。力をなくしたイザヤの両手が、ゆっくりと腿に下ろされる。何かを伝えたいのに、なんと言ったらいいのかわからない。
すると、ラザロが遠慮がちに咳払いをした。
「ニコデモ司祭。差し支えなければ、アラン君のお母様に祝福を授けさせていただきたいのですが」
「ええ、ぜひお願いします。アラン」
ニコデモに呼ばれ、棺の横に立つ父親のアランがやって来た。相変わらずの無表情で、思考も感情も読み取ることができない。
しかしニコデモ司祭から話を聞くと、彼は瞳に戸惑いの色を浮かべた。
「いや、でも……」
「わかっている。クレアのことを案じているんだろう。けれども今クレアに必要なのは、天のお力だよ。司祭のお祈りを通してもたらされる救世主の慈悲が、きっと彼女を慰めてくれるだろう」
アランはそれでも迷っているようだったが、やがて小さくうなずくと、
「司祭様がそうおっしゃるのなら」
「よかった。終わったら、戻ってきてくれ。それまでの間、埋葬は待とう。クレアの気が変わって、最後のお別れをしたいと言い出すかもしれないだろうしね」
「わかりました、司祭様」
アランを先頭に、教会堂の入り口へ向かう。と、ラザロがニコデモ司祭のほうを振り返った。
「すみません、馬を厩舎に繋がせていただいてもよろしいでしょうか。できれば、水も与えたいのですが」
「ええ、もちろんです。案内させましょう。スーロフ」
ニコデモ司祭が、視線を背後へ向ける。と、説教台の陰から、背の高い大男が片足を引きずりながら出てきた。
「ラザロ司祭の馬の世話を頼む」
「承知しました、司祭様」
スーロフと呼ばれた大男とともに外へ出ると、ラザロはアランに待ってもらうように頼んだ。スーロフを先頭に、繋いでいた馬を教会裏の厩舎へと連れて行く。
「足を怪我してらっしゃるんですか、スーロフさん」
ラザロが声をかけると、スーロフが愛想のいい笑顔で答えた。
「ええ、若い時分にだいぶ無茶をしましてね」
「そうでしたか。ここには、いつから?」
「ひと月ほど前に行き倒れていたところを、司祭様に拾っていただいたんです」
「さすがニコデモ司祭。よくしていただいているんですね」
「ええ、それはもう」
厩舎まで来ると、ラザロはくすくすと笑った。そうして、いたずらっぽい目つきでイザヤを見る。
「彼が例の密偵だよ。なかなか演技が板についてるじゃないか、スーロフ」
言われたスーロフは馬の手綱にロープを結びながらにやりと笑った。では今の会話も「演技」だったのか。全く思い至らなかったイザヤ同様、ニコデモ司祭も彼を怪しんでいるようには見えなかった。むしろ重用されているようだ。
「こちらは、イザヤ。機構の回収人だ。僕らの仲間だよ」
「どうも」
周囲に人がいないとは言え、イザヤは緊張しながらスーロフに一礼した。
「あまり時間は取れない。手短に報告を頼む」
「出産は、昨夜遅くのことでした。夜中にアランが司祭を呼びに来たので、私もこっそり後をつけました。出産は間違いなく行われたようで、家には産婆の姿もありました。が、赤ん坊の姿を見ることはできませんでした。死体は厳重に布にくるまれた状態で教会に運ばれ、そのまま棺に入れられました。早朝から葬儀の準備が進められ、その途中にラザロさんたちがやって来たわけです」
「やはりそうか。一晩待たずに葬儀、埋葬とは……おかしいと思ったんだ」
死者が出た場合、棺は祭壇の前に一晩置き、葬儀は翌日以降に行うのがリベル教の決まりだった。赤子が亡くなったのは二日前ではない。ニコデモ司祭は嘘をついていたのだ。
「何より不自然なのは、棺の蓋が閉まりっぱなしだったことだ。通常、ローズマリーの枝は棺の中に置くものだからね。ああ、できればやりたくなかったけど、仕方がない」
そこまで言うと、ラザロはため息をついた。
「スーロフ。司祭を棺から遠ざけることはできる?」
「簡単です。おれが懺悔を聞いて欲しいと頼めば、断りません」
「棺の蓋は、すぐに開けられるのかな」
「釘打ちがまだなので、今なら可能です」
「よし。それじゃあ、イザヤ。僕はアランの家に行かなきゃだから、その間にお願いできるかな」
「お願いって……棺の中を見ろということですか?」
思わず眉をひそめると、ラザロは当然と言いたげにうなずいた。
「確認しなきゃでしょう。外傷、索状痕、なんでもいいから、死体の状態を確かめてほしいんだ。死因が特定できれば、謎の解決に繋がるだろう?」
『何を戸惑ってんだ。腐りかけの生首だって見てるんだから、赤ん坊の死体なんてどうってことないだろう』
その二つは全く違う。そう思いながらも、イザヤは「わかりました」と答えていた。これも調査の一環で、必要な作業だ。しかし、産まれてすぐに死んでしまった赤ん坊の体をあちこち調べなければならないなんて、考えただけで気が滅入る。そもそも、生きた赤ん坊にすら触れたことがないというのに。
「よし。怪しまれないうちに行こう。人が完全にいなくなるまで、イザヤはどこか近くに隠れていてくれ」
「ラザロさん、もう一つ報告があります」
スーロフがさらに声を落とす。
「教会には、地下があります」
「地下?」
「はい。祭壇の奥の床に隠し扉があります。旧世界時代に掘られたらしい坑道の跡に繋がってるんです。そこには……」
スーロフはそこでさっと言葉を止めた。教会堂から村人の一団が出てきたのだ。
「――司祭様、ありがたいお話をありがとうございました」
「いえいえ。お務め、がんばってくださいね。僕らの馬、よろしくお願いします」
ラザロはそう言うとイザヤに目配せをし、ひとりでアランのいるほうへと戻っていった。馬の世話に勤しむ下男の役割に集中し始めたスーロフを横目に、イザヤは教会堂の裏へと回った。四方を石塀で囲まれた教会は、正面の門以外に出入り口はないらしい。
『教会に入ってすぐ、左右に扉があったな。建物の構造からして、おそらく右の扉が懺悔室だ。あの茂みに隠れて壁に耳をつけてりゃ、あの大男と司祭が入ったところを確認できるはずだ』
イザヤは同意する代わりに、エレミヤの言う通りに教会堂の右手に広がるサンザシの茂みに身を隠した。白い花から漂う甘い香りが、イザヤの緊張した心を少しだけほぐす。
『やはり司祭が黒幕だろうな。村人の尊敬をあれだけ集めてるのも、魔術によるものかもしれない』
――やはり、そうなのだろうか。
イザヤはエレミヤの言葉には答えず、無音のため息をついた。
稀人も、われわれと同じ人間――心のどこかで揺蕩っていた幻のような言葉を体の外からぶつけられた衝撃を、イザヤはいまだに持て余していた。エレミヤは何も思わなかったのだろうか。こんなことを話したら、私情を挟むなとまた叱られてしまうかもしれない。
『地下も調べる必要がありそうだが、その前に赤ん坊の死体だな。まあ、気持ちのいい仕事じゃねえが、やらなきゃしょうがねえよな』
その口調には、妙な明るさが含まれていた。思わず苦笑する。イザヤの態度を、目の前の任務に対する憂鬱と考えたらしい。
「そうですね。必要なことです」
口の中で転がすようにつぶやくと、『さっさと終わらせようぜ』と安堵したような響きの声が返ってくる。
しばらくすると、壁の向こうから足音が聞こえてきた。続いて、低い話し声。スーロフと司祭だろう。耳を壁に押し当てて確信を得ると、動悸がとたんに激しくなる。
『中が空ならいいんだが』
周囲を見回しながら、素早く正面に回る。扉を開けると、教会の中は静かなものだった。スーロフが、村人がいなくなったタイミングを見計らってくれたのだろう。がらんとした聖堂は、先ほどとは全く違う印象を持ってイザヤを迎えた。身を小さくしながら、一気に棺の前まで進む。
そのときイザヤは、先ほどのエレミヤの言葉は教会堂のことではなく、棺のことを言っていたのかもしれない、と思った。中が空であれば、死んだ赤子は存在しないことになる。そうなれば「嬰児虐殺」ではなく他の主題の魔力を検討する必要があるが、赤子殺しなど行われていないのであれば、そのほうがずっといい。
棺の蓋に、静かに手をかける。もう一度周囲を確認してから、イザヤは腹に力を入れて息を止めた。そうして蓋を持ち上げ、半分ほどずらす。
『――おい。これは、一体……どういうことだよ』
隙間から見えた棺の中は、想像していたものとは違っていた。イザヤは震える手で蓋をさらにずらし、中にあるものの全体像を見据えた。
『人形じゃねえか、これ』
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