第63話

 意外にも、ルキアは健脚だった。

 全力疾走のフィリップの後ろを、いっそ優雅に息も切らせず付いてくる。


 それなら先に行けと言いたいところだが、アイホートが介入してくるのなら、いくらルキアが強力な魔術師だといっても荷が勝ちすぎる。彼女が先着することに意味は無い。

 抑止力となるのはフィリップであり、その背後にいる外神だ。


 「──退けッ!! 《萎縮シューヴリング》ッ!」


 行く手を阻む魔物を雑に殺し、全身を炭化させて頽れる死体を蹴飛ばして走る。


 迷宮型ダンジョンは罠も魔物も二次的な妨害で、入り組んだ通路それ自体が最大の進行妨害となる。

 ルキアが主となって罠や魔物を処理してくれるが、肝心の迂回路を探すのにもう十数分も走っている。リチャードとシルヴィアにしてみれば、雛を植え付けられた人間との──不死身の相手との殺し合いというだけでも絶望的なはず。そのうえ、アイホートが介入してくるかもしれないのだ。


 たかが十数分、などと軽視することはできない。


 「フィリップ、この辺りよ!」

 「やってください!」


 ルキアの合図で足を止める。

 彼女は指を一弾きして周囲を暗闇に染めあげると、生成した光球を壁に向けて解き放った。


 技量が許す限界まで破壊範囲を制限し、しかし迷宮の壁を貫通するだけの威力は残すという妙技を見せてくれた。


 フィリップたちが探していたのは、リチャードたちがいるはずの通路に隣接した箇所だ。

 マッピングした方眼紙を持っていたのはユリアだったが、ルキアの記憶力と空間把握能力はその補助を必要としなかった。


 ルキアは人一人がようやく通れるくらいの隙間を作ったつもりだったが、迷宮の壁は想定以上に脆かった。

 着弾点からひび割れが走り、人間三人分くらいの大穴へと崩れる。もうもうと立ち込める土煙の中に突っ込んでいくフィリップに慌てて、その背中に向かって風魔術を撃ち込んだ。


 恐るべきは先天の才か、積み上げた努力か。取り立てて得意というわけでもない属性の魔術を咄嗟に行使したにしては、その精密性は驚異的なものだった。


 最優先したのは舞い上がる砂塵を押さえつけ、壁際へと追いやるようなダウンウォッシュ。フィリップの前方には押し留めるような向かい風を配置し、先走りを抑える。


 援護を受け、フィリップの視界が開ける。


 目に飛び込んできたのは、鮮烈な赤色だった。


 「──カーター猊下!?」

 「……っ!?」


 全身を斑模様に赤く染め、子犬ほどの大きさの肉塊を膝に抱えて涙を流しているシルヴィアがいる。安堵と驚愕と、ほんの僅かに怒りも感じ取れる叫び声でフィリップを呼んだのは彼女だ。

 右腕にそこそこ大きな打撲擦過傷があるようだが、一見しただけでは分からないほど全身が血や肉片に塗れている。地面に座り込んでいるということは、既に戦闘が終結しているのか。


 愕然としたまま視界の両端にある肉塊に顔を向ける。

 フィリップの右側にはカリストの右半身が、左側には左半身が、鋭利な刃物で切断された触手と肉の断面を覗かせていた。


 「これ、は……」


 呆然と立ち尽くしたままのフィリップの下まで来て、同じものを目にしたルキアが呟く。血と臓物と肉とをぶちまけた惨状に、吐き気を堪えるように口を覆った。


 「ライウス──触手の怪物は、彼が倒してくれました。私を庇いながら、刺し違えて」


 シルヴィアが労うように、慈しむように、膝上の肉塊を撫でる。

 

 「治療は……可能、でしょうか」


 フィリップが問いかけた先はルキアだったが、答えたのはシルヴィアが先だった。


 「無理です。死者の蘇生には儀式による天使の降臨が不可欠──使徒である貴方様なら、ご存知でしょう?」

 「──僕は」

 「──でも」


 フィリップの言葉を遮り──いや、フィリップの言葉が、もはや聞こえていないのか。

 フィリップは口を噤み、耳を傾けた。


 「彼の遺体は、私が必ず持ち帰ります。きちんと埋葬して、彼に命を救われたことをご家族にお伝えして、それで…………」


 どさり、と。シルヴィアの身体が横倒しになる。

 腹に空いた大穴から零れ出た大切そうに抱き締めたまま、双眸に宿る愛おしむような光がゆっくりと失われていった。


 リチャードの全身は余すところなく全て、バラバラに引き裂かれてそこいらに散らばっている。肉は細分され、骨は砕かれ、内臓は挽き潰され、血と共にぶちまけられている。抱き締められる大きさの残骸など残っていなかった。


 きゅっと、ルキアが背中を掴んでくる。

 何を言えばいいのか。何というべき場面なのか。フィリップには分からない。


 顔を覆って表情を隠し、深々と息を吐く。


 あの森と同じだ。フィリップは守るべき相手を守れなかった。

 前回の原住黒山羊とは違い、今回のアイホートは完全にフィリップを目的として絡んできた。フィリップの存在が、彼らを殺したのだ。


 「はぁ…………」 


 それに、あの時とは違い、フィリップは彼らを知っている。

 リチャードはフィリップと同じで通常魔術の適性に乏しく、しかし「それでも」と努力して、付与魔術と剣術の双方を高度に極めた尊敬できる人だ。

 シルヴィアは「猊下」なんて呼んでくるから少し苦手だったが、フィリップにはない信仰心に溢れており、羨望に近いものを抱いていた。


 そう、思い込んでいた。


 自分自身も、シルヴィアも守れず死んでいったリチャード。

 狂い、自分の内臓をリチャードだと思い込んだまま死んだシルヴィア。


 彼らの死に触れて、残骸を見て、初めに抱く感想が「気持ち悪い」とは。我が事ながら驚きだ。


 「はぁ……」


 ずるり、背後で這いずるような音がする。ルキアが弾かれたように振り返り、魔術を照準するのが目を向けずとも感じられた。


 結局、リチャードは何もできずに死んでいったのか。

 それもまた人間らしい無意味さ、価値の無さだと、外神の智慧が嘲笑う。


 「あの時、貴方を殺しておけば──僕は、僕を嫌わずにいられたのに」


 吐き捨て、振り返る。

 斬られた触手を排出し、未だ生きている触手を蠢かせ絡ませながら、カリストの両半身が癒着しているところだった。


 背中から翼のように飛び出した触手の塊が身体を跳ね起こし、虚ろな顔をフィリップへ向ける。


 班員を殺された怒りも、殺されるのではないかという恐怖も無い。

 あるのは抱くべき怒りや悲しみの、その一片すら湧き起こらない自分への嫌悪と、それすら薄れつつあることへの諦めだ。


 「まいったな……」


 怒鳴りつけて、殴りかかりでもするのが正解なのだろう。

 だが一欠片の怒りも、ほんの数滴の悲しみも、憎悪も恐怖も、身体を突き動かす衝動の原動力になるような激しい感情が、何一つ湧き上がらない。


 思わず苦笑して頭を掻く。フィリップを庇うように立っているルキアの手を引き、立ち位置を入れ替える。


 「フィリップ・カーター……」


 無感動に名を呼ぶ、異形と化したカリストを見ても、湧き上がってくるのは眼前の矮小な存在に対する冷笑と嘲笑だけ。

 アイホートに利用されたことへの同情や憐憫すら浮かばない。


 「動かないで」


 律儀にもフィリップに誘導された位置から動かず、ルキアが魔術を照準する。尤も、ほんの数歩の差で照準精度を狂わせはしないだろうが。

 

 最強の魔術師が見せる敵意にしかし、カリストは嘲笑で応えた。


 「──貴女に、私は殺せません。サークリス様」


 自信たっぷりな台詞の内容に反して、表情は虚ろで、声色には覚えのある嘲笑だけが込められている。

 自分も、相手も、目に映る全てがくだらない。冷笑し嘲笑し、何より諦観に溺れ笑うしかなくなった者のそれ。


 モノが違えば──せめて、アイホートの雛に寄生されてさえいなければ、彼はフィリップと道を同じくしていたのかもしれない。

 そう考えると、彼は──カリストはとても幸運だ。彼の知る悍ましい世界は氷山の一角に過ぎない。真の絶望、真の恐怖、真の狂気。善良も邪悪も超越したところに存在する、ただ偉大なるモノを知らずに死ねるなんて。


 「貴女の最高火力『明けの明星』は確かに凄まじい威力ですが──私の全身を呑み込むだけの一撃を放てば、この迷宮も無事では済みません。貴女も、フィリップ・カーターも」


 カリストは誇るでもなく、淡々と語る。


 「そして『粛清の光』は、この地下空間では使えません。私は貴女たちをここから出すつもりも無い。手詰まりですよ」

 「あら、『粛清の光』が地下では使えないと、私が一度でもそう言ったかしら?」


 ルキアが片手を掲げると、カリストは即座に警戒姿勢をとった。

 より正確には、翼による刺突を準備した攻撃姿勢だ。『粛清の光』は光速ゆえの回避不能、性質ゆえの防御不能、そして追尾とマルチロックを兼ね備えた最高の格下殺し。


 故に、撃たれる前に殺す必要がある。


 「ブラフ──では、ないのでしょうね」


 焦っている様な口ぶりだが、表情は変わらず虚ろなまま変わらない。

 全く気色の悪いことだが、今はそんなことより。


 「待ってください」

 

 片腕を差し出し、ルキアを制止する。

 『粛清の光』は確かに強力な魔術だ。カリストを塩の柱に変えることなど造作も無いだろう。


 だが、アイホートの雛にも通用するかと言われれば微妙だ。最悪の場合、カリストの肉体という巣を失った無数の雛が、次の宿主を求めてフィリップやルキアに襲い掛かってくるかもしれない。

 やるなら一撃で全身を破壊し、雛も全滅させるだけの火力を用意しなければならないということだ。


 「……どういうおつもりで? 先ほどの後悔を、もうお忘れになったのですか?」


 カリストが嘲笑をこめて問いかけるが、フィリップはそれを完全に無視した。


 正直に言って、眼前敵の完全消滅は容易いことだ。

 それはルキアに頼ってもいいし、クトゥグアを使ってもいい。ヤマンソが出てきても結果は変わらないし、ヨグ=ソトースを当てにして攻撃を喰らうという方法でもいい。ナイアーラトテップやシュブ=ニグラスも、たぶん呼べば来るだろう。前者はちょっと怪しいが。


 その気になれば、フィリップはカリストをどうとでも殺せる。殺さない方が難しいくらいだ。


 ──だが、その気が起きない。


 班員を殺された程度では、逡巡や躊躇といった思考をぶっちぎるだけの激情が、どうしても湧き起こらない。


 別に、カリストを殺すことに躊躇いがあるわけではない。四肢を捩じ切り、臓物を抉り出し、代わりに瓦礫を埋めて海に捨てるような行為でも、「気持ち悪いなぁ」以外の感想を抱かずに実行できる。

 フィリップが嫌なのは、まさにそれだ。


 人を殺すのなら、些かなりとも理由があるべきだ。


 リチャードやシルヴィアは「殺さなければ殺される」という状況であれば、躊躇いなく賊の頸を刎ね雷を降らせることのできる人物だった。

 ルキアのように「敵だから」と簡単に割り切ってもいいし、衛士や騎士のように「国と民のため」でもいい。喧嘩を売られた、恨みがあった、むしゃくしゃしてやった。何でもいい。


 だが何の感動も無く殺すのは、そこにいるだけで人を殺し認知すらしない外神と何ら変わりない。

 そうなるのが嫌で、自分が既に「そう」だと突き付けられるのが嫌で、躊躇する。逡巡する。


 カリストは「敵」か? 否。否だ。


 フィリップたちに攻撃してきた。 ──それがどうした?

 今も敵意を向けている。 ──それがどうした?

 リチャードを、シルヴィアを、ユリアを殺した。 ──それが、どうしたというんだ。 


 カリストはフィリップに敵対している。だが、それはフィリップの敵であるということとイコールではない。

 旧支配者や旧神は外神に敵対しているが、外神は彼らを冷笑するだけで敵と見做していないのと同じだ。


 それを理解しているから、「敵を殺す」という最も簡単な理由付けができない。生かしておく価値がないから、という理由も思い付いたが、それでは全人類が対象になってしまう。


 「拘泥できる分、人間だと思うしかないか……」


 深々と、たかが10歳の子供が抱くにしては異常に淀んだ諦めを垣間見せる溜息に、カリストが興味を惹かれたように視線を向ける。

 対して、フィリップがカリストに向ける視線には一片の興味も含まれていなかった。


 「貴方は死にます。僕を殺そうと生かそうと関係なく、貴方に棲み付いた雛が殺す」


 カリストが口を開くが、言葉を発する前にフィリップが続ける。


 「貴方は何も分かってない。アイホートも同じです。外神が尖兵なんて小賢しいモノを用意すると、本気で思ってるのなら嘲笑に値します。こんな小さな星に攻め込む理由も価値も無い、人間を先触れに使う必要も無い。僕が彼らに重用されてると思ってるのなら、あまりに視座が低すぎる。外神を侮ってるのか、それとも人間を買い被ってるのかは知らないけど、改めた方がいい」


 口早に言い切ったフィリップの背中に、ルキアの心配そうな視線が刺さる。

 フィリップが語った内容の半分も理解できていないだろうが、それでいい。そうでなくては困る。


 腹の底に溜まった色々なものを溜息にして吐き出し、気分を晴らす。


 「……ただの八つ当たりです。忘れてください」


 ルキアは何も言わず、瞑目して頷いた。


 「──私は」


 カリストが何かを言いかけ、途中で何かに気付いたようにはっと口を閉じる。

 ルキアが吐き気を堪えるように口元に手を遣り、フィリップは諦めに満ちた顔で首を振る。


 カリストの腹の内側で何かが蠢いている。その勢いたるや、服越しにも分かるほどで──今にも、腹の肉を破りそうなほどだ。


 時間か、と。フィリップは自分の仮説が正しかったことを知った。

 雛の発育速度は餌の質に依存する。カリストが植え付けられたのは昨日かそこらだろうが、流石は一級の魔術師と言うべきか。


 思わず「下がれ」と手で示すが、後ろは崩落して道が潰れているし、そもそも迷宮の奥側だ。


 「──ッ!!」


 ルキアの手を取り、走り出す。

 カリストの横を通り抜けるが、触手の翼どころか既に全身から力が抜けている。内側で暴れ回っている雛の方がよほど元気に見えるくらいだ。


 うろ覚えの来た道を全力で駆け戻るフィリップとルキアの背後から、ぱぁん! と、水袋の破裂するような音が届いた。



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