『それでも書くことをやめない』の感想
それでも書くことをやめない
作者 刈田狼藉
https://kakuyomu.jp/works/1177354054922083436
かつて文芸部だった主人公がカクヨムで掲載するも才能がなく苦悩していると、特別養護老人ホームで創作に苦悩する老女を見かけ、車中で涙する物語。
創作する私達はみんな同じ。
お迎えがくるその日まで、頭を悩ましながら創作し続ける。
この世に爪痕を残すために。
主人公は自営で防災設備の法定点検業務をし、二年ほど前から小説を書き始めた五十歳男性、一人称オレで書かれた文体。モノローグのような自分語りの実況中継で書かれ、描写は少なく、説明に自分の思いをそえて綴られている。詩のように行変換がこまめにされている箇所があり、自問自答や一人ボケツッコミの様。読み安さも意識している。
女性神話の中心軌道に沿って書かれている。
バリバリの純文学志向の学生時代は「文芸部」に所属し、他の部員作品についての印象批評文「レジメ」ばかり書いて創作しなかった。卒業後は家庭を持って防災設備の点検業の激務に追われ、野外フォーク・ゲリラ活動を展開して弾き語り、メタボ予備軍の仲間入りを果たしている。
一年半前に小説投稿サイト「カクヨム」の存在を知り、文芸部だったかつての姿へと誘われて創作活動をし、気づけば弾き語りの趣味は完全に消えていた。
多忙で時間もない中、文章を書くのは苦しい。が、生きた証を残さんがため、創作を愛するゆえに書き続ける。でも、ヘタクソで才能がなく、言葉を紡ぐのに苦しみ続けていた。
設備の点検業務で特別養護老人ホームの廊下を歩いていると、車椅子に乗った綺麗なおばあさんが自分の頭をポカスカと叩き「かけないの、かけないの、あたまがばかになったの、わかんなくなっちゃったの」創作に苦悩する姿を見るのだった。
素晴らしい作品を数多く書き続けてきても、人に与えられた時間に限りがあり、残された時間に抗いながら、それでも血反吐吐く思いをして、書けないと泣きわめきながら作り続ける姿を見た主人公は軽四自動車に乗り込み、一人泣くのだった。
どのお話にも型がある。
型がないのは型なしである。
前半は受け身になりがちな主人公が、反転攻勢のシーンを経て、後半は積極的にドラマを動かしていく。本作も同様、前半は日々の出来事に主人公である作者が感じたことが多分に綴られている。
伝わってくるのは、ただの自分語りの列挙ではなく、説明に感情がそえられているから。説明と感情の組み合わせがあって、伝わりやすくなる。
また、登場人物がほぼ主人公のみなので、読者に飽きさせないような工夫、自問自答しつつも、一人ボケツッコミをしている点だ。
パペットを両手にはめて、質問しながらツッコミをするみたいな、人形遊びをしたことがある人ならば、自分でボケ・ツッコミする姿に共感を得るだろう。
自販機でオロナミンCを飲むも、「こんな少ない量じゃ喉の渇きなんか癒えなかったし、百円も払って二口、三口しか飲めないなんて、コスト・パフォーマンスがあまりに悪すぎる。でも今は、これくらいがちょうどいい」と書き出されている。
おそらく実体験だろう。
自販機でオロナミンCを買ったことがないので、百円で買えるのかがわからない。が、デカビタCは高いけどオロナミンCなら買えるのでは、と思う。
五十になると甘いもの、炭酸飲料が飲めなくなるのかしらん。
それ以前に私は、清涼飲料水や炭酸飲料を普段から飲まないし、人生で数えるほどしか飲んだことがないので、書き出しの下りを読んでも実感がわかない。
「へえ、そうなんだ」という感じしかない。そもそも本作の主人公と同年齢ではないので、わからないのは当然なのだ。
きっと飲み慣れている人は「そうそう、子供の時はよく飲んでたけど、最近は飲むのがキツくなってきて、コーヒーだってブラックだもんね」と相槌を打つかもしれない。
でも、共感できそうな実体験からはじまるのは、読者も作品に入りやすいと思える。
また、書き出しに年齢で感じることを選ぶのは、自分と同じ年代の人に向けた作品だと暗示していると思われる。
本作を十代の人が読んだ場合、産みの苦しみは生涯に渡って続くと教訓を得るかもしれないけれども、「ふうん」「へえ、そうなの」といった感想になると想像する。
なので、年齢の踏み絵のような本作の書き出しは、よく考えられている。
「やれやれ、ここ何年か、いろんな場面で、ひとりそう呟くことが多くなって来たような気がする。やれやれ、って、村上春樹の小説の登場人物か、オレは?」とある。
村上春樹の作品を読んでないと共感を得られないかもしれない。
カクヨムを利用している人で、村上春樹を読んでいる人はどれほどいるかしらん。村上春樹の作品に登場する主人公はモノローグが多い印象がある。
このあと、文芸部にいた話が出てくるので、前フリとして村上春樹を持ってきたのかもしれない。
読者に読み進めてもらおうと、小出しにしていく感じがうまい。
ひとりでつぶやくことが多いことを先に名言したので、このあと一人ボケツッコミが容易に使えるようになっていく。
ギターの弾き語りがカクヨムの創作活動に添加していくのは、自分を表現する方法や形が変わっただけであって、表現する自体は継続している。
なので、文芸部でお話を作らなかった気持ちが、弾き語りをして鬱憤を晴らしたいたけれども、心のなかでは弾き語りでごまかすのではなく小説を書きたい気持ちがくすぶり続けていたのだろう。
だから、カクヨムというきっかけを得て、水を得た魚のように弾き語りを止めて、寸暇を惜しんで創作活動に邁進していったのだ。
作者の「オレは、文章がヘタクソだ」「苦吟するタイプなのである」「文章を書くということは、オレにとって、どちらかと言えば『苦しい』行為なのに違いない」「働き盛りと言われる責任世代のおっさんは忙しいのだ」「だかしかし、それでもオレは書き続ける」
「生きた証を、この世に刻み付けたいのだ」「オレは小説を書くのが好きだ。オレは、創作を愛している」と、自分がどういうタイプの書き手で、どんな思いを持って取り組んでいるのかを赤裸々に語っている。
この部分が反転攻勢のシーンであり、これまでの理性的にみるのはやめて感情的にハラハラしてくださいとメッセージを読者に送っている。
小さな殻を破った瞬間を描いているのだ。
いままで、書かずにいて殻に閉じこもっていたけれど、カクヨムで書くことで殻にヒビを入れ、宣言するほどで更に大きく破ろうとしている。そんなモノローグがあるからこそ、特別養護老人ホームでの出来事がいかされてくるのだ。
生きた証を世に刻むため、「胸に宿しているこの物語たちを、いつか、無に帰すこと無く、そのすべてを紙上に語り尽くしたい、そう願っているのだ」とある。
一般的に言われるのが、女は子供を産むことで生きた証を残せるという。じゃあ男はどうなのかといえば、為政者になって歴史に名を残すとか、社会貢献するか大犯罪を犯さないかぎり残せないと思われている。
なので、創作活動をして世に作品を残すことが手近にある「生きた証を刻む方法」なのだ。
小さな親切をして、顔なじみに覚えておいてもらえるだけでも充分生きた証を残したことになるのだけれども、もっと広く大勢に残したいのだ。
特別養護老人ホームにいる高齢者について、大多数は「皺くちゃ顔のおじいちゃん、おばあちゃん」はいないとある。
訪れなければわからない具体的なことがあるからこそ、現実味を感じる。理由はどうあれ、「みんな、顔の表情から力みが無くなり、険しさが取れて、刻まれた皺が伸び、まるで、思春期を迎える前の少年・少女のような表情をしている。もちろん例外が無い訳ではないが」とシワが無いという。
ここからは理由を詮索せず、そういうものなんだと読んでいったほうが作品を楽しめる。
それでもあえて理由を考えるなら、作者が「怖らくは、入居者の多くが認知症であることが関係しているのでは、と勝手に推察しているのだが、どうだろう?」と推察しているとおりと思われる。
眉間のシワは気持ちの状態、快不快、心の広さや忍耐力などが表れるという。
なので、なにかしら我慢してることがあるから、顔にシワが刻まれるのだ。
平たくいえば、シワができる理由はストレスなので、ストレスの原因となる煩わしいものから解放された状態になれば取れる。
この場合のストレスは、家族かもしれない。
お金や社会、人付き合いなどいろいろだ。
こればかりは人によって違うので、一概には言い切れない。
車椅子のおばあさんの描写が良い。
「廊下のおばあさんも、表情は乏しいものの皺は少なく、つるっとしたきれいな肌をしており、瞳はクッキリとした黒さでその意志の力を物語り、髪は完全な白髪だが、痩せているせいか少し面長なその容貌は年齢不詳な感じ」と主人公が見た人物描写をして説明したうえで、「怖らくは『自分は年寄りだ』という自覚が無く、それが年寄り臭い雰囲気を打ち消しているのだ。だが、ベリーショートのその髪は、ファッションとして、というよりは介護上の理由によるものと思われた」「綺麗なおばあさんだった」と考えや感想をそえている。
説明と主人公の感想、感情がセットになっているから、読者にどういうおばあちゃんなのかが伝わる。
なので、「痩せてはいたが、手足は長く、車椅子から立ち上がれば身長も高い方なのに違いなかった。何より肌が白くて、目立ったシミなども無く、端整な顔立ち」の描写は前にあってもいいと思う。
このあと「そのおばあさんは、車椅子に座ったまま、やや思い詰めたような表情で、廊下の、何にも無い宙空の一点を、ただじっと見詰め、固まっていたのだが」「不意に、両手を握りしめて、その手で自分の頭をポカスカと叩き出した」と続くので、手足が長いなどの描写はどうしても必要だ。
うーうー唸り声を上げながら「眉を辛そうに寄せ、泣き出しそうに口元を歪ませて、彼女は声を上げる。握った拳の根元の骨の部分で、薄い肉と頭骨とを打つ、その地味な弱々しい音が、間近に立っているオレの耳にまで届いた」おばあさんの様子は、シワのない状態と対になっている。
綺麗なおばあちゃんを先に描いているからこそ、泣き出しそうな顔と声を上げる変化が浮き彫りになる。
キレイなものを先に書いて、どう変化したのかを描く。
実にうまい。
「入居者の方が癇癪やパニックを起こしている現場に遭遇した場合、もし近くにスタッフやヘルパーさんがいるなら、慌てず騒がず、静かに立ち去るに限るのだ」
こういう特殊な環境でのルールを書くことも、本作に現実味を感じさせる。
本作は、おそらく体験談なので嘘はないと思われる。
けれども作品にするときには誇張があるかもしれない。
それでも、こういった具体的な本当のことを書くことで、作品にリアリティーが生まれる。とくに前半は主人公の自分語りのモノローグだけだったので、フィクションかノンフィクションか断定できない。
なので、現実味を感じさせる部分があるからこそ、作品が生き生きと感じられる。
「彼女は創作をとても愛していて、怖らくは素晴らしい作品を数多く書き上げて、その溢れる才能から書きたいことが尽きることは無く、しかし人生の有限に阻まれ、肉体の限界に行く手を塞がれて、しかし、絶望という名の壁をその手で叩き、運命に、いまこの瞬間も、抗っているのだ」は、主人公の想像なので、実際は違うかもしれない。
小説ではなく絵のことかもしれないし、漢字を思い出せなくて嘆いているだけかもしれない。それはわからないけれども、すくなくとも主人公はそう思った。
事実はどうでもよくて、主人公にとっての真実が重要。
だから、「創作は血を吐くように苦しい」「人間に与えられた時間はあまりに短い」あのおばあさんは「頭を叩きながら、でも書けなくて、子供みたいに泣きながら、それでも――」作品を書来続けている姿に心を打たれたのだ。
自分は小説を、創作を愛していると言っていたけれども、あのおばあさんと同じ高みに昇っているかと言えば、まだまだだと悟ったに違いない。
残りすくないおばあさんですら、いまも必死に苦しみながら創作している。日々の多忙に追われて時間が取れないが、まだ残りの時間はあるにもかかわらず、「オレは、文章がヘタクソだ」「苦吟するタイプなのである」なんて言ってないで書いて書いて書きまくるしかできないのだと気づいた。
だから、車中で一人「泣いてしまった」のだ。
教訓としたい作品である。
私達は道半ば。
書くしかできないのなら、空に還るその日まで、書いて書いて書きまくるしかない。
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