第8話 イライラ
会社に着いてからもイライラは治まらなかった。
定年間近のおばさんがゆっくり仕事をしているせいで、私に待ち時間が生じる。
「間違えちゃいけないからね」
笑いながらそう言い、おばさんは要領の悪い動きをする。
休み時間、なんとなく近くの椅子に座った同僚と話をする。
誰がどんなミスをしただとか芸能人がどうしただとか下らない話題が続く。
会社で「普通に」「平和に」過ごすために、その下らない話題にも合わせて笑う。
そんな自分が気持ち悪い。話題を提供するお前ら、よくそんな下らない話で盛り上がれるな。ああ、見下しているんだなと思う。でもこの下らない話で盛り上がる主婦やギャルは結婚して子どもがいるし、合コンもしょっちゅう行っている。飲み会に誘われることもない彼氏がいない私よりも「必要とされている」人間なのだ。
本当に下らないのは、私だ。
二十六歳。四捨五入してアラサー側に行く。二十五歳だとまだ中間だと言える。そこから一年経っただけで、アラサー側に行かざるをえないのだ。
「〇〇さんて何歳なの?」
「三十歳だよ」
「えー見えなーい」
「えー本当? ありがとう」
少し離れた場所から聞こえる会話。なにがありがとうなのだろう。三十歳は罪なのか?
それに「三十歳に見えない」と言っただけで、その心は「四十歳に見える」かもしれないのだ。
四十歳に見えるのが嬉しいのかもしれないし、三十歳より若く見えるのが嬉しいのかもしれない。それを判断する単語が削られた会話から、両者の気持ちは読み取れない。
今日はずっとイライラしている。仕事もうまくいかない。
平日をなんとか過ごして、土曜日はライブが待っている。それだけを愉しみに、それだけを糧に毎日を過ごす。
〇
土曜日、グラビティの階段を上がる。足取りが重い。
それでも新しいポスターが増えてはいないか、下りて来る誰かとすれ違うかもしれない、そう思い上を向く。暗い顔で誰かとすれ違いたくないしあのドアを開けたくはなかった。
百合華は来ていなかった。百合華とはバンドの好みが微妙に違う。今日の出演バンドは百合華好みのメンツではなかった。少しホッとする。
なんとなく座る気になれなくて、私は廊下の壁に寄りかかっていた。
長椅子の端に座っている男の子二人組が愉しそうに笑っている。上品な笑い方だった。一瞬、女の子みたいだと思った。男の子があんな風に笑うのを見たことがないだけだった。知らない子だけれどなんだか好感だった。
私もあんな風に笑って愉しみたい。自分をアピールするようにげらげらと大声で笑う人は嫌だな。
そんなげらげらと笑う女が今日は来ている、
サバサバしている女をアピールしているがサバサバではなく、がさつだ。
「女の人はスカートおさえたり大変ですよね~」
そんなことを言う。ライブハウスでは暴れることが前提なので動きやすいファッションで来るべき、そんなことを思っているのだろうか。なんという思い込み。
暴れても後ろで黙って見ていても、どちらでもよいではないか。
ライブが見たい、体感したい。そう思ってライブハウスに来ているのだから。愉しみ方は人それぞれだ。
百合華はスカートやヒールの靴で来たときは後ろで見ているし、パンツを履いてきたときは前で見ている。おしゃれを愉しみつつ、周りへの配慮は欠かさない。百合華は顔が綺麗なだけではない。中身もしっかりしているのだ。それに、百合華こそがサバサバしている性格だ。
野田さんが来ている。演者ではなく観客として。百合華はいないがなんとなく気まずい。勝手に気まずい。
「恵理さん、野田さん今日もかっこいいですね」
美咲が私に声をかける。私はノリで一緒に盛り上がる。きゃぴきゃぴしてみる。
美咲は嫌いだけれどもこんな風に一緒に盛り上がれるのは美咲だけなのも事実だった。
私もこんな、俗なことをしたい人間だったのだ。職場で実年齢に見えません嬉しい会話をしている奴らと同じなのだ。そんなことを思い出して、忘れるように演技する。美咲も私につられてヒートアップする。
「野田さん、私と火遊びしませんか」
美咲は野田さんに声をかける。いつものことだ。美咲はノリでなんでも言ってしまう。野田さんは酔っ払っている。いつものようにあしらうだろう、誰もがそう思っていた。
「野田さんとつきあうことになりました」
美咲が少し、照れながら言う。もうすぐトリのバンドが始まる、そんな時間帯だった。
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