第43話 兄さんはわたしの兄さんだから

 菫は上機嫌に鼻歌を歌いながら鍋をかき回していた。

 鍋の中身はカレーだ。つい先日、零斗と菫が一緒にテレビを見ていた時に零斗がカレーを食べたいと言ったのを菫は覚えていたのだ。

 だから今日の学校帰りにスーパーにカレーの材料を買って帰ってきたのだ。


「今日のカレーは美味しくできた気がする」


 そう言って誰知らず笑顔を浮かべる菫。普段表情が希薄な菫がはっきりそれとわかる笑顔を浮かべていることに、普段の菫を知る者がいれば驚いたことだろう。

 だがそこで綾乃は笑顔を引っ込めて、心配そうな表情で時計を見つめる。時間はすでに午後の七時を回ったところだった。

 普段の零斗であればもうとっくに帰ってきていてもおかしくない時間。それなのにまだ零斗は帰って来ていなかった。


「今日は生徒会の仕事も無いって言ってたのに」


 帰り道に何かあったのではないかと心配する菫。自分のスマホを見ても零斗からの連絡は無い。いよいよ電話しようとしたその時、玄関の扉が開く音がして菫は玄関へと向かう。

 そこに居たのは零斗で、菫が心配していたことになど気づいていないのかあっけらかんとした様子だった。


「おぉ、ただいま菫」

「お帰りなさい兄さん。今日は遅かったね、何かあったの? また生徒会の仕事?」

「あ、そうか。そういえば連絡し忘れてたな。生徒会の仕事と言えば仕事なんだけど。今日は綾乃と一緒に愛ヶ咲スターシティに行ってたんだよ」

「え、あ……そうなんだ……」


 綾乃と一緒に、その一言に菫の心がどうしようもないほどにざわめく。

 零斗には悟られないように必死に内心の動揺を押し殺しながら努めて冷静を装う。


「今度ゴールデンウィークがあるだろ。とりあえず一回行って見て、どんな所か見て起きたかったんだとさ。わざわざ自分で行こうとするあたりあいつも真面目だよな」

「そうだね。さすが生徒会長さんっていうか」

 

 菫は自分の口にした言葉の白々しさに思わず自嘲しそうになる。綾乃が何を考えてショッピングモールに行ったかなど考えなくてもわかる。

 零斗とデートをするためなのだと。綾乃と零斗が付き合い始めてからまだ一度もデートに行っていないことを菫は知っている。

 だから生徒会の仕事にかこつけて綾乃は零斗をデートに誘った。少し考えればそれくらいのことはわかった。


(兄さん……ものすごく嬉しそう。生徒会長さんとのデート、楽しかったのかな。楽しかったんだろうな。こんなに上機嫌なの珍しいし)


 菫は軽く頭を振って気持ちを切り替える。

 零斗が無事に帰ってきたんだからそれで良いと。


「兄さん、荷物持とうか? ご飯の用意もすぐにできるけどどうする? お風呂も入れるよ」

「そうだな……ショッピングモールでちょっと食べてきてまだお腹空いてないから、先に風呂に入ることにする。荷物はこのまま部屋に置いてくるよ」

「そう……わかった。それじゃあリビングで待ってるね」


 自分の部屋へと向かう零斗のことを見送る。

 

「できればお腹空かして帰って来て欲しかったんだけど」


 思わず文句のような言葉が零れた。

 もちろん零斗が悪くないのは菫にもわかっている。

 彼女と一緒にショッピングモールに行って、何かを食べて帰ってくる。全く不思議なことじゃない。むしろ夜ご飯を食べてきたと言われなかっただけずっとマシだろう。

 そう自分を無理矢理納得させながら菫はリビングへと戻る。

 お風呂に入っている零斗のことを待っている間も、考えるのは零斗と綾乃のことばかり。

 最近の菫は時間があればついそのことにばかり気を取られるようになってしまった。

 

「兄さん……わたし、おかしくなっちゃったのかな?」


 以前までの菫であれば、たとえ零斗と綾乃がショッピングモールに行った話を聞いてもここまで心を乱すことは無かっただろう。それが変わったのはやはり零斗に綾乃と恋人になったという話を聞いてからだ。


「生徒会長……桜小路綾乃……兄さんの恋人……どうして……どうして兄さんだったの?」


 返ってくるはずもない問いが零れて消える。

 どれほどの時間そうしてグルグルと考え込んでいただろうか。リビングへと近づいてくる足音を聞いて菫は現実へと引き戻される。


「上がったぞーって、この匂いもしかしてカレーか!」

「うん、そうだよ。前に食べたいって言ってたでしょ。ちょうどスーパーでカレーの材料が安売りしてたから。チキンカレーにしたんだけど、良かったかな?」

「もちろんいいぞ。むしろチキンカレーで嬉しいくらいだ」

「そっか。それじゃあ温め直すからちょっと待ってて」


 キッチンへ向かった菫は手早く夕食の用意を進める。もう手慣れたものだった。

 カレーとサラダを机の上に並べる。


「おかわりもあるからいっぱい食べてね」

「もうすでに山盛り入ってるけどな。なんかいつもより多めに盛ってないか?」

「え、そうかな? いつも通り盛ったつもりだったんだけど。減らす?」

「いや、大丈夫だ。多いって言っても多すぎるわけでもないしな。それじゃあいただきます」

「どうぞ召し上がれ」


 零斗は好物であるカレーを勢いよく食べていく。その食べっぷりに菫は思わず笑みを浮かべていた。


「兄さん、そんなに急いで食べなくても。喉に詰まっちゃうよ」

「大丈夫だって――うぐっ!?」

「っ、兄さん水!」

「んぐ、んぐ……ぷはぁっ。わ、悪い菫。助かった」

「もう、だから言ったのに。ふふっ」

「なんで笑ってるんだよ」

「だって兄さん子供みたいだったから」

「こ、子供で悪かったな。お前の作るカレーが美味かったらついつい勢いよく食べ過ぎたんだ」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど。そういえば兄さん、ショッピングモールで食べて来たって言ってたけど何を食べてきたの?」

「あぁ、ケーキだよ。ほらこの間菫と行った喫茶店」

「え?」

「あそこのケーキ美味かったからな。綾乃も気に入るだろうと思ったんだ。まぁ案の定気に入ってたけどな。俺、そういう店全然知らなかったから助かったよ」

「そっ……か……うん、なら良かった」


 また一つ零斗との思い出が塗り替えられたような感覚に陥る菫。

 

(わたし……このまま全部奪われていくの? 兄さんとの思い出を全部……嫌だ、やだやだそんなの嫌だ! 兄さんはわたしの兄さんなのに!)


 痛み軋む心が悲鳴を上げる。その声はいよいよ菫自身が無視できないほどに大きくなっていた。


「……ねぇ兄さん。この間、生徒会長さんに会わせてくれるって言ってたの覚えてる?」

「ん、あぁ。覚えてるぞ。なんだかんだあって流れてたけど」

「明日、生徒会室にお邪魔してもいいかな?」


 菫は静かに決意を秘めて、零斗にそう提案した。

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