第10話 兵法書のレジェンド

 呂琳の勉強熱は上がったり下がったりの繰り返しだった。

 子供らしく飽き性な一面が目立つのである。


 そこで興味を長続きさせるのに一役買ってくれたのが神話。


「知っていると思うが、中華の始めには三皇さんこう五帝ごていというのがいて……」

「うんうん」


 三皇は伏犠ふっき神農しんのう女媧じょかの三人。

 五帝は黄帝こうてい顓頊せんぎょくこくぎょうしゅんの五人。


 顔ぶれは文献によって微妙に異なっているが、今の呂琳には説明しなくていいだろう。


「三皇と五帝って、どっちが強いの?」

「どっちも強いよ」

「もし三皇と五帝が戦ったら、どっちが生き残るの?」


 呂青は『そりゃ、三皇が生き残るだろう』と答えそうになり、ぐっと言葉を飲み込んだ。


「琳はどっちが勝つと思う?」

「三皇!」

「なぜそう考える?」

「だって……」


 しょうもない答えが出てくるだろうな。

 そう思って期待しないでいたら、予想の斜め上を行くアイディアに目を見張ることになる。


「三皇はね、人間を作れるんだよ。だから軍隊をたくさん作れるでしょう。それで五帝を攻めるの。倒されても倒されても新しい軍隊を作れば負けないでしょう。そうしたら五帝は降参するしかないと思うんだ」

「お前……」


 呂青は持っていた木の枝を落とした。


 確かに三帝は泥から人間を生み出したとされている。

 そこから無限の軍隊という着想を得るあたり、呂琳には策略家としての才能があるかもしれない。


「琳の言う通り、三皇が勝つだろうな」

「やった!」


 兄妹の勉強はまだまだ続く。


 ……。

 …………。


 ある日、テンション高めの呂布が帰ってきた。

 居間に腰を下ろすなり、行李かばんからいくつか書物を取り出す。


「あら? また本を借りてきたのですか?」


 英姫がお水を差し出しながら尋ねる。


「都へ出張していた知り合いに買ってきてもらった。それが今日、ようやく届いた」


 呂布がわざわざ買うなんて何の本だろう。

 英姫の後ろから首を伸ばしてみる。


孫子そんしの兵法だ。これは自分の手元に置いておきたい」


 呂青は嬉しさのあまりジャンプした。

 孫子といえば兵法書のレジェンドである。


 この時代の思想について触れておくと……。


 もっとも幅を利かせているのは儒教だろう。

 孔子の論語がバイブルで、礼節とか秩序を重んじるのが良しとされていた。


 一方、孫子は合理主義、効率重視に染まっている。


 目指すべきゴールは利益の最大化。

 ライバルに弱点があればガンガン突いていく。


 儒教と孫子は相性が良くない。

 仁徳うんぬんで解決できないから戦争に発展しているわけで、生きるか死ぬかの場面じゃ、孔子の教えというやつは一気に価値を失ってしまう。


 呂布は書物を広げて、呂青に見せてくれた。


「これが兵法書というやつだ。兵法を知らなくても、千くらいの兵なら指揮できる。でも数千の兵を率いるなら、孫子の兵法は欠かせない」


 呂琳が寄ってくる。

 孫子の二文字を指差す。


「孫、と、子」

「あっはっは! 孫と子ではない。孫子で一人の人物なのだ。孫というのは姓なのだ」

「孫子! 孫子!」

「そうだ。という国に支えていた軍師だ。七百年くらい前に生きていた人だ」


 本物の孫子が目の前にある。

 これも衝撃なのだが、さらに衝撃なのは呂布がこのタイミングで兵法書を買ってきたことだ。


 もうすぐ世の中が乱れると、本能的に察知しているのだろうか。

 皇帝から出陣の命令が下されて、その中の一人に自分も含まれていると。


 だとしたら史実に記録されている百倍くらい、呂布には先見の明があることになる。


 中央の政治は酷くなる一方だ。

 お金で官位を売買する行為が定着している。

 税金は上がっていく一方だから、民衆の不満はそろそろ臨界点を越えようとしている。


 去年は南部の穀倉地帯でとんでもない不作が起こった。

 これを堕落した皇帝に対する天の怒りと解釈する声も少なくない。


 飢え死ぬくらいなら反乱を起こす。

 まだ小規模ではあるが、農民たちの抵抗運動は散見されていた。


 いずれ火山が大爆発するように、怒りのエネルギーはこの世を覆い尽くすだろう。


「どうした? 青も孫子を読みたいのか?」


 元気よく「はい!」と返事すると、呂布は内容を朗読してくれた。

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