【SF】タイムトラベル虎の巻

 町外れのあばら家に年老いた素浪人が一人横たわっていた。

 布団などは無く、床に直に寝ていた。着物も原型が分からないほどのボロ布で、髪や髭の手入れもされておらず、体中に垢が溜まっている。

 その様子は乞食同然とさえ言える有様だった。

 周囲には誰もいない。誰にも気遣われることなく、老人は刻一刻と屍になり果てようとしていた。

 唯一老人に寄り添っていたものは、老人が長年使用してきた一振りの刀だけだった。


 老人は名を兼之助といった。

 子供の頃、商人であった両親の店を継ぐのを嫌って家を飛び出し、剣の道を究めることだけに生きてきた男で、今の姿からは想像もできないが剣聖と呼んで差し支えないほど腕の立つ武芸者だった。


「………」


 虫食いだらけの天井を見上げながら兼之助は後悔の念に苛まれていた。

 剣の道に生涯を懸けたこと自体に後悔はない。

 しかし、ただ強いだけでは何の意味もなかった。

 強くなることだけを考えて人間関係を煩わしいと蔑ろにしてきた結果が、この有様だ。

 結局、他人に認められ、必要とされなければ意味がない。

 存在しないことと何も変わらないのだ。


「………」


 兼之助は身体を起こし、側に置いていた刀に手にした。

 やはり未練を残したまま消えるのは我慢ならない。

 この技の危険性は承知している。しかし私自身にももはや時間がない。

 神罰が下るというならあの世でいくらでも受けてやろうではないか。

 兼之助は鯉口を切り、ゆっくりと刀を抜いた。

 上段に構え、何かをじっと待つように静止していたが、やがてすっと刃を振り下ろした。

 傍目にはただ構えを解いただけに見えた。しかしそうではなかった。

 兼之助が刀を納めて間もなく異変が起きた。

 先ほど振り下ろした刃の軌跡に沿って次第に空間にずれて行き、人間が目を開けるようにぱっくりと広がった。

 開いた穴の中は真っ黒で何も見えない。


 剣閃により空間そのものを断ち切り、時空の穴を開ける絶技。

 兼之助が辿り着いた神の境地の技の一つだった。

 この技を編み出したとき、兼之助はこの穴を通じて過去と未来のあらゆる時代、あらゆる場所に影響を与えらえることを直感的に理解した。

 この穴の中へ刃を突き立てればいつの時代の誰であろうと殺せるし、自分自身が穴に飛び込めば望みの場所・時代へ移動できるのだ。

 しかしそれはどう考えても自然の摂理に反する。反動で何が起こるかわからない。

 だからこの技を編み出したとき、兼之助は即座にこれを封印したのだった。


 だがもう自分は間もなく死ぬ。もはやどんな事になろうと知ったことではない。

 兼之助は懐から一冊の書物を取り出した。

 自分の剣術について記した奥義書。

 兼之助が今の境地に至るまでに行った数々の修行と習慣、その先で習得できる奥義についてしたためたものだった。


 そして数日前、今の境遇の原因である出世や人間関係の大切さについて追記した。


 これを元に修行に励めばいずれ自分と並ぶ腕前になれるだけでなく、今のような惨めな末路を辿ることもなくなるだろう。

 今生よりさらに険しい道にはなるだろうが、きっと成し遂げてくれるはず。


 そう。私ならば。


 兼之助は書物を時空の裂け目に投げ入れた。

 そしてそのまま崩れ落ち、息絶えた。


 時空の裂け目は間もなく消えた。

 辺りは何事もなかったように静かだった。

 風で草木が揺れる音だけが微かに聞こえていた。




 時代は数十年前に遡り、とある小さな店の前。


 兼之助少年は両親と口論の末に店を飛び出した。

 両親は自分たちの店を継げという。

 しかし兼之助は嫌だった。

 取引相手や商売敵と煩雑な駆け引きをしたり、冷やかし半分の客に媚びへつらってなんとか商品を買ってもらったり。

 そういった苦労を重ねながら、利益はといえばほんの僅かしか入らない。

 そんな大変そうな両親を見て育った兼之助は、もっと自由な世界――剣の道にに憧れていた。

 そういった意識の違いからいつしか毎日のように口論をするようになり、とうとうこの日、怒りにまかせて家を飛び出してしまったのだ。


 兼之助は、いい機会だ、このままどこかの道場へ入門してしまおう、などと考えていた。

 そんなとき、不意に上から本が振ってきて頭に当たった。


「あいたっ」


 誰かが悪戯で投げたのかと周囲を見回したが人の姿はない。

 訝しく思いながらもその書物を拾い上げてみると、なんとそれは剣の奥義について記した本のようだった。

 兼之助は驚喜した。

 これはきっと神の思し召しに違いない。

 私に剣の道へ進めと言っているのだ。

 兼之助は夢中になってそれを読み始めた。



 その本の内容は三部で構成されていた。


 まず、修行について。

 今の自分では一週間はかかりそうな訓練内容を半日のうちに毎日欠かさずこなせと書いてある。

 また、感覚を狂わす酒や無駄な肉となる暴食は厳禁といった規律が並んでいた。

 これらは特に問題なかった。剣の道に進む以上はそれくらいの覚悟はある。

 むしろ右も左もわからない自分に対し具体的な方法を示してくれるのだ。従わない理由はない。


 次に、奥義について。

 この部分は兼之助には何が書かれているのかわからなかった。

 いや、文字自体は読めるし文章の内容もわかる。

 しかしその意味が全く理解できない。

 きっとある程度の域に達してようやく意味が掴めるものなのだろう。

 そこに辿り着くまでに果たしてどれ程の鍛錬が必要なのか。

 それは途方もないものに思われたが、兼之助は却って鼓動の高まりを感じた。

 少なくともこれを記した人間はその境地へ辿り着けたのだろう。

 同じ人間に出来たことなら自分にもきっと出来る。そう思った。


 ……しかし。


 最後の部を読み始めると、兼之助の顔つきが変わった。

 そこは後から追記されたらしい内容で、人との関りについてと題されており、こんな書き出しから始まっていた。


『剣の道を究めたとしても、人に認められなければ何の意味もない』


 それまでの二部に比べるとかなり乱雑な内容だった。

 余程急いで記したのか走り書きのようで余裕が無く、内容もただ思いついた事を書き連ねただけといった感じで推敲された形跡もない。

 要約すると次のような内容が繰り返されていた。


『上司に取り入り、同門の者を立てよ。それが将来の出世に繋がる』

『他人の動向に常に気を配り根回しを怠るな。味方を増やせ』

『頂点に立つまでは雌伏の時と考え、謙虚であれ』


 そして最後はこう締めくくられていた。


『これらの心得を守ればお前は時代に名を残す剣聖になれるであろう』



 兼之助は肩を落として奥義書を閉じた。

 何ともまあ。剣の道も結局は小さな店の商いと変わらないのか。


 兼之助が剣の道に憧れたのは、純粋に強くなりたいという思いからだった。

 だがそれと同時に、商人のような人間関係の煩わしさと無縁になりたいから、という側面も多分にあった。

 しかしこの書が正しいなら、剣の道もまた人のしがらみからは逃れられないらしい。

 それでは何の意味もない。

 兼之助の剣への憧れはすっかり霧散してしまった。

 大人しく家に帰ると、両親の跡を継いで商人となった。



 剣の道を諦めはしたものの、元来、必要と判断したことに対しては苦労を厭わない根気強さを持った兼之助である。

 地道な努力を積み重ねるうちに兼之助はゆっくりだが確実に頭角を現ていった。

 そして気が付けば、国中でも指折りの豪商にまで登り詰めていた。

 年を取り、寿命を迎えたその日、兼之助は長年連れ添った妻、たくさんの子供や孫、そして店に入りきらないほどの親戚縁者友人達に見守られながら布団の上で静かに息を引き取った。

 その顔はとても穏やかで、満足気であったという。

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