金魚の羽、蝶の囀り

星森あんこ

第1話 羽を欲した金魚

 下校時間、生物室にある金魚の様子を見ると何度か浮いてきていた。エラの動きも遅い。もう長くはない。


「お前は自然の恵みと脅威を知らずして死ぬのか。その狭い狭い金魚鉢の中で」


 罵り、嘲るように言葉の分からない金魚に向かって放つ。その時、金魚鉢に反射して映ったのは丸眼鏡を掛けた地味な自分だった。これじゃあ自分に言ってるみたいじゃないか。一体どちらに向かってしたか分からない舌打ちを鳴らす。


「……お前・・にも羽があればな」


 金魚鉢越しにそう呟いた。


「それはどっちに言ってる?」


 背後から爽やかではあるものの、一瞬で男だと分かる低い声が尋ねてきた。驚いた事を悟られたくなくて、ゆっくりと落ち着いている様子を見せるように振り返る。


 そこに立っていたのは、関わりはないが何となく苦手な男、右蝶うちょうが立っていた。彼の事は苦手だが、容姿は褒めざるを得ない。一本一本が細い線で丁寧に描かれたその姿は絵画そのものなのだ。


 儚げで色白、まるで女性だ。しかし、骨張った腕や浮き出た血管、緩やかなウェーブがかかった黒髪は彼がしっかりとした男性であることを示していた。第一印象は雄の蝶だ。さぞかし雌に好かれそうな見た目をしているからな。


「右蝶、なんでここに?」


「えーっと……明かりがあったから消しにきたんだ!」


 これほどまでに嘘が下手な男がいただろうか。早く会話を終わらせたい。理由なんてもうどうでもいい。だけど、ここで冷たい態度をとっては不快にさせてしまう。我慢、我慢だ。ここは先に帰ってもらおう。


「そうだったんだ。ありがとう、もう帰るところだったから大丈夫だよ。だから、先に行ってていいよ」


「あー、ごめんな? 部活の邪魔だったよな」


 その瞬間、全身の血がサーッと勢いよく流れていった。なんで、なんでバレたのだろうか。気を遣わせてしまった。もっと言い方を工夫すれば、もっと腹立たない笑いを浮かべれば……心の壁がバレないように話せば良かった。自分を責める言葉が脳内を駆け巡るが、それが表情に出ることも、声が震えることなく会話を続けた。


「いや大丈夫だよ。この部活、小学校の頃にあった飼育係みたいなもんだから、誰が来ても邪魔にはならないんだよ」


「知ってる。あと、外の窓あるじゃん? あれ、鍵壊れてて誰でも入れるようになってる。校舎の裏側だし、開ける機会もないから放置されっぱなしなんだよな」


「なんでそんなこと─────あ、まさかそこから入ってきたことあるの?」


「た、たまにな! そういえば、そこの金魚鉢替えたんだな」


 疑問点はいくらでも浮かんできた。しかし、今聞けば確実になんとも居心地の悪い空気が流れ、教室でたまたま話す機会があった場合、私は確実に今日のことを後悔する。だから、私は彼の不法侵入の理由や回数などを聞くのはやめた。話を合わせる、いや、現実から目を背けた。


「亀裂があったし、数も減ったから場所を取らずに済む金魚鉢にしたの。まぁ、直にその金魚鉢も空っぽになるよ」


「もしかして……寿命?」


「そう。元は屋台の金魚だから寿命も短い。でも今回はよく生きた方だよ。この子も鳥みたいとは言わないけど、滑空できるトビウオぐらいの羽持てたらここから出られたのにね」


 冗談交じりでそう話すも、彼からの返事は無かった。ロマンチストなんて思われたのかもしれない。人前でポエムを話したみたいな羞恥心と後悔が襲ってきては私の顔の熱が上がっていく。さっさと帰ろうと思ったその時、ちらりと見た彼の横顔はとても悲しそうで……同情しているようにも見えた。


「蝶の異名、夢見鳥というらしい。美しく舞う姿から名付けれたそうだ。随分と皮肉な名前だよな。助けを乞う震え声も、愛を囁く声も、喜びを表す明るい声も出せないのにな。ただ、ヒラヒラと紙よりも薄く脆い翅で飛ぶことしか出来ないんだから」


「……えっと、急になに?」


「ん? 錦戸にしきどが金魚に羽があったらって呟いてたから、俺も蝶に声帯があればなって思ったから話した」


 ニッと笑う彼の顔を見れば分かった。嘘なんてついていない、本気でそう思ってる。同情ではなく、同調。私が言えたもんじゃないけど、ひねくれた男であることは分かった。きっと生きにくいだろうな。この世は懐疑的な人ほど人を信じられずに一人勝手に野垂れ死んでいく。


「金魚に羽、蝶に声……素晴らしい夢物語だね」


「いいじゃん夢物語でも。もしかしたら叶うかもよ?」


「ポジティブ思考だね。まぁ、その方が楽かもね」


 その後、沈黙が続いた。互いの呼吸音と循環ポンプの騒がしい音だけが聴こえて、そこに自分はいないと錯覚を起こすほどの静寂が包んだ。居心地は何故か悪くはなかったが、ふと視線を横にずらすと彼のリュックからはみ出た紙に目がいった。有名な大学、専門学校、就職……三年にもなって進路が定まっていないのだろうか。しかし、どのパンフレットにも全寮制という言葉があった。


「あー……やっぱり気になる? クラスの奴らには内緒にしといて」


 焦ったようにパンフレットをリュックの中に隠し、引きつった笑みを浮かべる。見られたくないものだったのか、思わずパンフレットから目を逸らし、頷きながら愛想笑いを浮かべてしまった。


「進路先、決まってないの?」


 彼は目を大きく開き、驚いた様子で私を見つめてくる。その時に口が滑ってしまったことに気づいたが、もう遅かった。謝らないと、話さなくても良いことを伝えないと、声を震わせながら答えようと口を開く。しかし、私より先に彼の口が開いた。


「一年、二年は良かった。周りに合わせて楽しめば良かったから。でも、三年になると急に自分の夢を語り始め、それに向けて勉学やスポーツに励むようになっていった」


 ポツリポツリと話す彼を制止することなく、ただ聞いていた。胸の内が暖かくなるのを感じながら。


「俺ってなんの取り柄もないわけよ。勉強も運動もそこそこ。趣味も特にない。なりたいものなんてない。父親は聞く耳持たないし……だから、焦って進路先決めようとしてるんだけど、夢もなにもない将来って────」


「怖い?」


「……うん」


 瞬間、初めて呼吸が出来たような気がした。狭い狭い金魚鉢が広く感じ、じっとりしていて肩に重くのしかかっていた何かが無くなった気がした。


『雑魚』を見つけた。自分と同じ、周りを気にしながら生きて周りとは違うことを認識しながらも必死に群れようとする弱者だ。


「私、大学に行くことが決まってるの。でも、行きたいかと言われれば別にそうでもない。でも、親は大学に行かせる気満々で大学生となっても家に縛り続けるつもりなの。あの人達曰く、親と一緒にいる方が安全で支えられるらしい。馬鹿らしいでしょ」


「……それでも大学に行くのは─────」


「夢がないから。なりたい自分が分からない。才能も無ければ得意なこともない。仕方なく行くんだよ」


 そう言うと彼は心の底から安堵したような笑みを浮かべた。目の端にある涙は夕陽で反射しており、私も僅かに透明な膜が張っていた。しかし、それはどちらも指摘することはなかった。その日はただ、狭い金魚鉢を泳ぐ老体の金魚を見つめていた。そうか、私が欲していたのは理解者ではなく、同じ弱者だったのだ。


 酷く安堵し、満足感に溺れる。これが、傷を舐め合うだけの生ぬるく甘い関係であったとしても、私はこの『雑魚』を手放せないと確信した。だって、同じ弱者なのだから、支え合わないと水の中でさえ溺れてしまう。


 金魚は上空を飛ぶ蝶を妬んでいた。しかし、実際は蝶も金魚と同じように孤独で、虫かごに囚われた同種であることを知った。


 ──────……

 家に帰ると、家族であって家族でない者が迎え入れた。顔はもうぼやけて見えない。


「昔、父さんはな───」


「母さんは────」


「私は──────」


 私が一つ物事を話すと、聞いてもいない自慢話を語り始めるその姿に吐き気がした。そんなにも私を笑いたいのだろうか、私の人生を否定したいのだろうか。


 拍手を送る。話も聞かずにお膳立てする。褒めておけば実害はない。愛想笑いのまま褒め続ける私に気づかない哀れな家族。


「お前、大学に行くんだろう? こいつのように就職して資格もなにもない奴になるなよ」


 酔った父は普段よりもデリカシーというものが欠落する。テーブルの下、姉が私の足を何度も蹴り飛ばす。父に貶された姉の機嫌は底辺にまで落ちたからだろう。姉としての威厳だかなんだか知らないけど、私に当たらないで欲しい。努力せずに遊んでたから大学に落ちて就職した、自業自得だ。


「……ねぇ、もし、大学に行きたくないって言ったらどうする?」


 軽いノリで、笑いながら、ごく自然に話すと肩に鈍い痛みが走った。それと同時に視界は天井へと向き、自分がゆっくりと後ろに倒れているのが分かった。


 視界の端に見えたのは……激昂する父とそれを冷めた目で見つめる母と姉であった。


 家族ってこんな感じだっけ。


 ゴッ──────


 鈍い音が頭の中で響いた。

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