本山金二郎の過去

 めいが徒歩で牧場に戻ってきたとき。すでに太陽は沈んでいて、夜闇が空を覆っていた。警察への通報は済ませたが、こんな何もない場所ではすぐ駆けつけられないだろうし、犯人を捕まえるのも難しいだろう。


「大丈夫ですか? 酒呑坂さん」

「はい……何とか……」

「拳銃とは……物騒な限りです」


 事務所には岩倉一人しかいなかったので、彼に事件のことを伝えた。岩倉はめいを気遣いつつも、まごつき怯えていた。不審人物が本山金二郎をかたって近づき、拳銃を持ち出して命を奪おうとしてきたのだ。こんな物騒な事件はそうそうない。ヒグマの次は拳銃男だ。異様なことが矢継ぎ早に起こりすぎている。


 寮に戻っためいを待っていたのは、夕食のぶり大根定食だった。あの古田さんが腕を振るっただけあって、味がしみていておいしい。怖い思いをした後だからか、温かいぶり大根が体の芯までじんわり温めてくれるような、そんな気分になった。


「隣いいですか?」


 そう言ってトレーを運んできたのは、鯖江だった。相変わらず化粧が濃く、ちょっとキツめの香水が香ってくる。


「ええ、どうぞ」

「それじゃあお言葉に甘えて」


 めいの隣に座った鯖江は、料理に手をつける前に話しかけてきた。


「本山さん、面倒な人でしょう」

「ええ、まぁ……」


 確かに、荒っぽくて気難しい老人、といった印象だ。少なくとも好感をもてるタイプではない。ただ、ヒグマのことでは確かに頼りになりそうだ。


「酒呑坂さんには、話してもいいでしょう。どうせここの者はみんな知っていることですし。さっきうちの岩倉が、本山さんに息子はいないって電話で言ったでしょう」

「はい」

「本山さんのお子さんはね、ずっと昔に死んじゃったのよ」

「え……」


 それは知らなかった。最初からいなかったのではなく、死亡していたのか。


「もう私が生まれるより前の、かなり昔の話なんだけどね。本山さん、二十三で結婚したのよ。その後何年かして、夫婦の間に娘と息子が生まれたの。でも……」


 本山について語る鯖江の面持ちは暗い。子どもが命を落とした話であるから、明るい話にならないのは当然だろう。


「娘が四歳、息子が二歳になった年の冬のことよ。本山さんはクマ撃ちの師匠と一緒に、一頭のヒグマを追いかけてたの。そのヒグマも穴持たずで、クビオリと同じくらい大きなヒグマだったというわ。牛を襲って食べたらしくて「ウシクイ」なんて呼ばれてたそうだけど、牛だけじゃなくて農家のおじいさんを一人食い殺してたから、人の味も覚えてたのよ。そういうヒグマは人間を積極的に襲うから、家族のためにも、地域の人たちのためにも、絶対に見逃すわけにはいかなかったの」

「穴持たずって、北海道じゃ結構ありふれてるんですか?」

「いいえ、そんなに頻繁に出てくるものじゃないわ。ただ、出てくるととても厄介で危険なの。そのウシクイも大きいだけじゃなくて知恵の回るクマで、なかなか仕留められなかった。本山さんと師匠は深追いして、近隣の民家を転々としながら何日もウシクイを追いかけ回したらしいわ。それで、ようやく本山さんが心臓を狙い撃ちして一撃死させたんだけど……」


 ここから先のことは言いづらい……とばかりに、鯖江はひと呼吸置いた。


「実は同じ時期に、東京から風景写真を撮るカメラマンが来ていたの。本山さんの奥さんはその人と不倫関係になってて、夫が帰ってこないうちにその人と駆け落ちしちゃったの。それだけでも可哀そうな話だけど……ひどいことに娘と息子を置き去りにしちゃったのよ。ウシクイを仕留めて帰ってきた本山さんが見たのは……多分、お互いの体温で温め合おうとしたんでしょうね……抱き合った状態で凍え死んでた二人の子どもだった……」


 話を聞いためいは、唖然としていた。あの老人にそんな壮絶な過去があったとは思わなかった。


「その後しばらくして、周りの人たちは本山さんに再婚を進めたわ。ほら、本山さんが若い頃って、独身者への風当たりは今より強かったじゃない? 何度か縁談が持ち込まれたそうだけど……本山さんは頑なにはねつけたの。すっかり女の人が嫌いになっちゃったみたいなのよね」


 めいは返す言葉を紡げず、下を向いて押し黙っていた。母親に見捨てられ、二人きりで凍え死んだ子どもたちは、一体どんなにつらかったことだろう。そして、死んだ子どもたちの姿を見た本山の心境も、いかなるものだっただろうか……


「これはお父さんから聞いた話なんだけど、農家の人たちの宴会に本山さんが加わったときに、ある農家さんが本山さんをからかおうとしたのよ。その人はこっそり芸者さんを呼んで、本山さんに近づけたそうなのよね。そしたら本山さん、「俺に触るんじゃねぇ!」なんて怒り狂って、芸者さんも農家のおじさんたちもみんな怖がっちゃって、宴会の席が一気にシーンと静まりかえったなんていうことがあったらしいの。本山さんにとって世の中の女の人は全員元妻と同じに見えちゃうんだわって、周りの人たちは言っているわ」

「それはまた……相当ですね」

「何十年もクマ撃ちやってるだけあって、ヒグマのことでは頼りになる人なんですけどね。一人で九十頭も仕留めたクマ撃ちなんて、今いる中ではあの人ぐらいなものよ」

「き、九十頭!? そんなに……」

 

 あんな怪物じみた相手を今まで九十頭も仕留めてきたとは、確かにすごい。獣と向かい合ってきた歴が自分とは違うのだ……と、めいは恐れ入った。


「ごめんなさいね、ご飯時にこんな湿っぽい話しちゃって」

「いいえ、貴重なお話ありがとうございます」


 めいの感謝の言葉は、本心から出たものであった。重たい話ではあったが、本山という人間について少しでも知ることができたのはいい収穫だった。

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