第64話 小枝母襲来

 水族館を回り終え、海の見えるカフェテリアで休んでいると、小枝の電話が鳴る。


「はい。あ、母さんですか? はい、はい」


 電話の先は小枝母らしい。どうやら到着した様子……小枝が今、どのあたりにいるかを電話口で説明していく。


「母さん、ここに向かってるようです」


「そ、そっか」


 いよいよ運命の時間か。気を引き締めねば……俺は飲みかけのカップジュースを飲み干し、気合を入れる。


「あ、母さ~ん。こっちです~」


 しばらく経ち、むこうからツカツカと速足はやあしで歩いてくる女性が見えた。フォーマルなスーツ姿に、髪は小枝の髪の色を少し赤濃くしたようで、小枝と同様に後ろで結い、おさげにしている。そして娘がいるようには見えない童顔。うむ、間違いない……小枝母だ。その人物に気づいた小枝がイスから立ち上がって大きく手を振っているため、俺も席を立ち、頭を下げた。

 だが、小枝母は歩みのスピードを緩めることなく、真っ先に俺の前へやってきた、と思いきや……。


「ぐばっ!」


「こんの不届きもの!」


 言葉を発する前に振りかぶった拳がさく裂。あまりの鈍痛と衝撃に俺はテーブル席へと突っ込んでいく。だが、そんな様子をあわれむ様子もなく、何度も俺を踏みつけるストンピング攻撃。


「このっ、このっ! よくも私のひよりちゃんを!」


「ヒィィィ!」


「か、母さん! やめてください!」


 ただ事ではない騒動に、周りの人が仲裁に入る事態となってしまった。


♢♢♢


「あだぁ~……グーで殴られた」


「グーで!?」


 小枝が濡れたハンカチで、殴られた頬を冷やしてくれている。


「親にも殴られたことないのに……ひどいよ」


「ごめんなさい、普段はあんな母さんじゃないのですが」


 二人して小枝母の方を見やる。駆けつけた水族館関係者に必死に頭を下げ、事情を説明をしている小枝母であった。その後、俺たちからも事情を説明し、警察を呼ぶ事態だけはどうにか回避できた。


「すいません、安藤君。少し取り乱してしまいました」


「い、いえ……」


 小枝母がお詫びと言わんばかりに、缶ジュースを差し出してきた。缶で引き続き、頬を冷やす。


「でもですね、一人娘を持つ母親としては、どうしても抑えられなかったんです。なんというか、あなたから放たれる負のオーラに対する嫌悪感と言いますか」


 小枝母、俺が昨日禁忌きんきを破ったことを、もしかしてご存じ? 小枝の膝でついつい……でもあれは不可抗力で。でも、それもしょせん言い訳で。青ざめた俺の顔から、どんどん汗が滴っていく。


「そ、そんなことよりも母さんもシャチさん見ませんか? すごいんですよ?」


「ひよりちゃん、今は学校を休んでいる身なんですよ。もう帰ります」


「そうですよね」


「安藤君、あなたもです。このまま放っておくわけにはいきませんから」


「あ、すいません。ご迷惑おかけします」


「あ、あの……母さん。例のお話は考えていただけましたか?」


「彼を我が家で面倒みるということですか?」


「えっ?」


 その話については寝耳に水の俺であった。


「いや、そこまで迷惑をかけるわけには……」


「お願いします! かわいそうな人なんです! ひとりぼっちで……」


 小枝……その一言が俺をよりかわいそうにしてないか?


「はぁ、まだ何も言ってませんよ。こちらの話も聞いてください」


 二人とも黙って小枝母の言葉に耳を傾ける。


「安藤君、あなたはしばらく小枝家で面倒を見ることにします。アパートの引っ越しとか、住む場所とか、色々り用でしょうし」


「え!? で、ですが……」


「問答無用。前も言いましたが、あなたは子供なんです。意地を張らず、こんな時くらい大人を頼りなさい」


「よかったですね、安藤君♪」


「あ、ありがとうございます!」


 俺は思わずひざをついて頭を下げた。今までどんな悪行をしても、こんな無様な姿はさらしたことはない。だが、今はこれですら足らないくらいにありがたかった。


「頭を上げてください。帰りのフライトもありますし、もう行きますよ」


「は、はい!」


 速足で歩いてく小枝母についていくように、俺と小枝も駆けだした。

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