高允、主上に答える

rona736

高允、主上に答える

 翟黒子てきこくしは、何を思っていただろう…、高允こういんはそう思った。主上(皇帝)を前にして、今、高允の足は震えている。

「正直に申すのだ」

 主上がおっしゃった。


 高允のもとに太子(皇太子)から呼び出しがあった時には、このようなことになるとは思っていなかった。

「承知いたしております」

 答える高允の隣の列で、太子が頷かれている。高允はそちらに目をやった。私のいう通りにするのですよ、先ほど太子がおっしゃった言葉が耳に残っている。

 ああ、翟黒子よ…。


 遼東公であった翟黒子は殺されていた。主上によって処刑されたのだ。主上は各国からその優秀さで恐れられていたが、その優秀さは臣下にも向けられ、疑いはすぐに死に繋がった。

 翟黒子は并州にて、布千疋を受け取ったのだ。まいないとしてだった。高允は、今、翟黒子とのやりとりを思い出している。


「お主、先に申したように、そのままを申して、主上の許しを請わないのか?」

「うむ、お主は薄情なやつだ、私を陥れるつもりだったのだな」

「なんと、お主は私を信じないのか?」

「信じぬとも」

 翟黒子は高允を睨みつけていった。

崔鑒さいかん公孫質こうそんしつが教えてくれたのだ、そのままを申すな、と」

 中書侍郎の崔鑒と公孫質か…、高允は思った。いずれも寵臣として主上に愛されている面々である。

「やめておけ、やめておけ、お主は帷幄いあくの寵臣ぞ、主上からも愛されておるではないか。もし罪があるのなら、首実(正直に自白)すれば、許されるかもしれないではないか」

 翟黒子は冷たく答えた。

「お前こそ私を死地につかせるつもりだったな、このことは諱み隠して報告しないのに限るのだ、私は崔鑒と公孫質の言を信じる」

 そして、翟黒子は処刑されたのだった。


 今、高允の目の前には主上がおられる。側には太子がおられる。

 翟黒子が亡くなった時には著作郎として国史の編纂にあたっていた高允は、其の人柄を認められ、このごろは、太子の教育係として経典の教授にあたっていた。太子がしきりに目配せしてくるのも、日頃の高允との関係があってのことである。


「お主、崔浩さいこうのことは存じておるな」

 高允は、ああ、そのことか、と思った。主上の目の前に立った時点で、ひょっとすると、とは思っていたが、其のことだったかとここで腑に落ちた。

「はい、存じております」


 崔浩、字は伯深は、この魏の司徒として国を導いていた名臣であった。しかし、先頃、主上の手により、処刑されていた。高允は、当然そのことは知っている。


「崔浩は偽りを書きおった。国史を編纂する首謀者でありながら、偽りを書きおったのだ」

 主上の目はキラキラと、いや爛々らんらんと輝いていた。その目が高允を見つめている。

 高允は汗が流れるのを感じる。射抜かれるような目だ、高允はそう思った。


 崔浩という人は剛直な人だった。

 国史にはみんな自分のいいことを書いてもらいたい、先祖や、祖父や父のことをよく書いてもらいたい。そこで国史を編纂するのに、賄賂わいろを入れてよく書いてもらうことが流行していた。


 しかし崔浩はそれを断った。直筆した(そのままを書いた)。直筆した上に、それを見せびらかし、石碑に刻んで、その人の先祖の悪いことまでも人の目に晒したのだ。恨みを買ったのも当然だった。

 讒言が起こった。

 「崔浩は魏の悪名を書いている」、「主上の悪を暴いている」、そう密かに讒言するものがあった。主上は激怒した。そして、崔浩を処刑した。


 崔浩が殺された時点で、高允も、この日が来るのを予想していたかもしれない。

 太子(皇太子)がおっしゃった。

「高允は司徒のような要職ではなく、微賎のものでございます」

 太子の目が時々、高允の方を向く。その目は、うまくやるのだぞ、と言っている。

「高允は身を責めて、慎密しんみつにしております(謹んでいるということ)、国史の件、ほとんどのことは崔浩がやったことにございます」

 主上の顔がこちらを向いた。爛々と光る目は、その輝きを失っていない、むしろ一層輝きを増したようにも見えた。

「高允よ、本当にその通りか」


「恐れながら」

 高允はゆっくりと話しはじめた。

「臣は崔浩様とともに国史を作っておりました。しかし…」

 高允は一瞬、太子に申し訳ない、と思った。太子は優しい、優しすぎるほどの方だった。しかしその思いを振り切った。

「…のなされていたことは」

「ん、何と」

「崔浩様のなされていたことは、多くは総裁(監督)のみにございます」

 臨席していた他の者たちの息を呑む声が聞こえた、しかし高允は一気に続けた。

「著述につきましては、臣は崔浩様よりも多くをなしております」


「何だと!」

 主上の怒声が飛んだ。高允は頭を下げた。太子の方を向く余裕はない。

「高允の罪は、崔浩よりはなはだしい、どうして生かしてやることなどできようぞ」

 太子の怯えた声が聞こえる。

「天威(皇帝の意)厳重なれども、允は小臣でございます、迷乱してわけがわからなくなったのにございます」


 本当に優しい方だ、高允は思った。しかしここで止まるわけにはいかなかった。

「允は、私が先に聞いた時には、全て崔浩がやった、そう申しておりました」

 太子の声に主上の声がつながった。

「高允よ、それは本当に東宮(皇太子)がもうした通りか」

 高允は答えて、申し上げた。


「臣が罪は、族(族滅、つまり家族・親族の皆殺し)に当たります」

 冷たく、汗が背中をながれた、妻よ、子よ、すまない、父よ、母よ、すいません、それぞれの面持ちが、目の前をよぎったが、高允は、ここでも止まらなかった。


「臣は、敢えて、虚妄せず(偽りません)」

 周りの静けさが、痛いほどだった。張り詰めた空気が、場をしめる。

「殿下は、臣が侍講じこうすること(経典を講義すること)日、久しきことをもって、臣を哀れんで、その生を請わまく(救いたいと請うことを)ほっせらるるのみ、まことは臣に問われず」

 ああ、私の命も、今日までか、そういう思いも高允の心をよぎったが、最後まで、高允は最後まで述べきった。

「臣は、敢えて迷乱せず」


 張り詰めていた沈黙は続いていた。

 主上は、太子を向かれた。

 そしておっしゃられた。


「直なるかな(正直者よ)」

 太子もまた頭を下げられた。

「これ、人の情の成し難いところぞ」

 主上は続けられた。

「しかるに、高允はこれを為した、死に臨んで言葉をかえないとは、信じられる男よ」


 主上は立ち上がりながらおっしゃられた。

「臣となって君を欺かない、これは貞である、よろしくその罪を除いてもってこの者を旌表せいひょうする(表彰する)」

 許されたのだ、熱い思いが、高允の胸を去来した。


 翟黒子よ、お主はなぜ正直に言わなかったのだ、翟黒子よ、主上の前でなぜ偽りを言った。

 私はお主に言った通りにしたぞ、私は、真実に行動したぞ、あの世にいる友に向かって、高允はそう語りかけた。

 熱い思いが、高允の胸を去来した。

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