恐怖の作者(後編)

貝沢出雲を、俺は殺してしまった。


この手で。


ナイフで奴を刺したときの感触。


わたに手を突っ込んでしまったときの感触。


あのあと、何度も手を洗ったのに。


指がちぎれるかと思うほど、何度も何度も手を洗ったのに。


まだ残っている。感触が。


それと、むせかえるような血のにおいも、脳裏にこびりついて離れない。




角三は、ガラ空きの電車の中でただ一人、赤いシートに腰掛け、両手を見つめていた。

なぜいつもと同じ帰路を辿っているのか、角三自身もわかっていない。

結局、現場はあのまま放置してきてしまった。

男の死体一つ片付けるだけでも難しいのに、厨房の血だまりを拭き取っていたら朝まで終わらない。第一、殺すところを既に誰かに見られてしまっている。

八方塞がりな状況を考えると、さっさと逃げてきたのはあながち間違いでもなさそうだ。

だからといって、自首するのはごめんだ。罪は軽くなるかもしれないが、貝沢あいつのためにムショ送りになるのは我慢できない。


そうだ、貝沢あいつのほうから先に俺を殺しにきた、ことにしよう。

この際、正当防衛だ。

そんな証拠はあるわけないが、逆にそうでない証拠もない。

不利になったら、弁護士がなんとかしてくれる。

だが、それだったら目撃証言を見間違いだったと誤魔化して、別の犯人をでっちあげるほうが確実か?

それともやっぱり、荷物をまとめて行方をくらますほうがいいのか?


そんなことを脳内で議論していると、電車が目的の駅で停まった。

角三が、鞄を抱えて席を立ち、電車を降りようとしたとき。


連結部分のドアが開いて、車掌が入ってきた。


車掌は、じっと角三の目を見つめる。


車掌の目が、風船みたいに膨れ上がり、パン、と破裂した。


「…うわああっ!!」

思わず、角三は尻餅をついた。


目の前の車掌は、二つの洞穴で角三を見下ろしている。


車掌の乾燥した唇の間から、歯の並んだ歯茎がせり出してきて、


カチカチカチ


と音を立てた。



角三は昇降口から飛び出した。

改札に向かってダッシュする。


何か、緑色に光るものとすれ違った。


左の上腕に、鋭い痛みが走る。


「ぐっ…」

見ると、切り傷ができて出血している。


振り向くと、


メタリックグリーンのサソリが、尻尾で立っている。


ショキンショキン


ハサミが鳴った。


「ぐあああああっ!!!」


改札口に突進する角三。


ブーッ


切符を入れていないので、改札が閉まる。


「うおっ…」


ぶつかりそうになる。

しかし今、鞄から切符を取り出している余裕はない。

四つん這いになって改札をくぐると、立ち上がって再び走り出した。



自宅に向かって走り続けた角三は、ついに息を切らして立ち止まった。

ここまで走れば、もう追ってこないだろう。

そう思って振り向き、後ろを確認すると


頭のとんがった黒い影が、街灯の下に仁王立ちしている。


影は、ピョンピョンと反復横跳びし始めた。


エエーファッファッファッファッファ!


くぐもった笑い声。


疲れ切っているはずの角三の足は、目的地めがけて再び走り出していた。



走って走って、漸く自宅であるアパートまでたどり着いた。


ゴミの集積場の前で、二メートルほどの黒い影がもぞもぞと蠢いている。


グルルルルル


そいつは炊飯器みたいな大きな口を開け、よだれを垂らした。


ケラトサウルスだ。


まだ角三に気づいている様子はない。

角三は、そうっと恐竜の背後を通り抜けて、階段に足をかけた。


ゴン


用心したつもりが、思ったより大きな音を立ててしまう。


ケラトサウルスが、くるりと振り返った。


角三は既に階段を駆け上がっていたので、ケラトサウルスは獲物を捕らえ損ねた。


鞄から強引に鍵を引っ張り出し、鍵穴にねじ込む。

ドアを半分だけ開けて滑り込み、再びドアを閉めた。


部屋に入った直後、角三は異変に気づかなかった。

が、玄関の鍵を閉めて振り返ったとき、気づかざるを得なくなってしまった。


真っ暗な部屋の中で、ノートパソコンの画面だけが、青白く光っている。


そんな馬鹿な!!

出てくるとき、ちゃんと電源を切っておいたはずなのに!!


「き、きっと間違えてスリープモードにしてたんだ…」

言い聞かせるように独り言を呟く角三。


壁のスイッチを手探りで探し、部屋の明かりを付けた。


…というより、付けようとした。

何度カチカチ押しても、明かりがつかない!

「停電か!?」

だが、パソコンは起動している!…といっても、ノートパソコンなのだから別に停電中に電源が入ること自体はおかしくないのだが…


一瞬、玄関を開けて部屋から飛び出しそうになった。が、外にはもっと恐ろしい連中がうじゃうじゃいる。

もしかしたら、ドア一枚隔てて、角三が出てくるのを今か今かと待っているかもしれない。


恐る恐る、パソコンに近づき、画面を覗き込む。


既にページが開かれている。


それは、角三が短編ホラー小説を投稿しているサイト。


“恐怖の雑誌”

“恐怖の路地裏”

“恐怖の宅配便”

“恐怖の靴下(前編)”

“恐怖の靴下(後編)”

“恐怖のトチノキ”

“恐怖の屋敷”

“恐怖の放課後”

“恐怖の朝”


その下に、執筆した覚えのないタイトルが。


“恐怖の作者(前編)”

“恐怖の作者(中編)”

“恐怖の作者(後編)”


「何だよこれ…」

マウスの上で震える手。カーソルを合わせ、まず“前編”を開く。


岩山いわやま 角三かくぞうは、ネット上で小説の投稿をやっていた。”


その一文から始まり、


“案の定彼の目論見は成功し、バレンタインには他の男子に大きく差をつけて大量のチョコをもらったり、女子の告白を受け入れてデートするまでに至った。…が、家で一人でいるときはというと、ネットで検索した成人向けの画像にクラスの女子の顔を合成したり、妹が脱いだパンツを夜中にこっそり洗濯かごから取り出して履いたりと、プライベートのほうはかなり歪んでいた。”


“正社員という安定した立場と一月三十万の給料、わずかな休日の前日の夜中に飲むビール。そしてバイトの半数を占める、十代後半から二十歳までの女子達。以上が、角三をこの職場につなぎとめている理由であった。”


“貝沢出雲は、まともに仕事ができない。”


角三の経歴、職場、貝沢のことなどが書かれている。


“バイトリーダーの石田(角三より年下の二十三歳)という男。それから、バイト歴はかれこれ四年になるが二十歳になって間もない沖野という女。”


一体誰がこんなものを!?


「ふざけんなよ…」


次に“中編”を開く。


“貝沢が怪談を終えると、なぜか決まって部屋の温度が五度下がる。石田が室内温度計を確認したところ、きっちり五度下がるという法則が確かにあるのだ。”


“そうして角三は、八つのエピソードを執筆した。”


“転倒した角三は、よりによって貝沢の胸の傷口に左手を突っ込んでしまった。”


“スケート選手みたいに両足を横滑りさせながら、角三は殺人現場となった厨房を、暖簾をくぐって抜け出した。”


「くそっ、どうなってんだ!!?」


最後に“後編”。


“貝沢出雲を、俺は殺してしまった。”


更に画面をスクロールさせると


“真っ暗な部屋の中で、ノートパソコンの画面だけが、青白く光っている。”


“その下に、執筆した覚えのないタイトルが。”


そして。




とうとう、




こ の 一 文 ま で 追 い つ い て し ま っ た 。




「ウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」


絶叫しながら白目をむいて仰け反り、痙攣する角三。


ノートパソコンの画面を両手でひっつかむと、


ガシャアアン


液晶の真ん中に頭から突撃した。


角三の脂ぎった頭が、画面を貫通して反対側から飛び出した。



翌朝。


角三の怪死事件は、全国ネットでニュースとして取り上げられていた。

密室の中で、パソコンの画面に頭を突き刺して死んでいたので、警察は猟奇殺人の選を疑いつつも、結局は密室の謎を解明できないでいる。


そのニュースがテレビで報道されているのを、

自宅で一人、ブラックコーヒーをすすりながら眺めている男がいた。


四角い黒縁眼鏡。

若白髪の混じった焦げ茶色の髪。

青いストライプのパジャマを着た、猫背気味の痩せぎすの男。


貝沢出雲は殺されたわけではなかったのだ。


前の晩、角三が貝沢だと思って滅多刺しにしたのは、実は仕出しのダンボール箱であったのだ。

角三が左手を突っ込んでしまったのは、箱の中に敷き詰められた大量のおしぼりだったのだ。

尻尾を巻いて逃げていった目撃者こそ、貝沢だったのだ。


あの夜、厨房で起きた殺人事件の全ては、角三の見ていた幻覚だったのである。


角三は、ギリギリのところで自制を保っていたのに。

そのことに気づけなかったことが、角三自身にとって最大の不幸を招いてしまった。


貝沢は、右手に持ったコーヒーカップから唇をはなすと、

「やっぱり、無断で逃げちゃったのは、まずかったかなあ」

とだけほざいた。



角三の死から三日後、新しい店長がやってきて、店は再開された。

あくまでも店の中で事件が起きたわけではないからだ。

飲食店なんて、所詮はそんなものである。



店の再オープンから二日が経過した日の夜中。

以前と同じく、石田と沖野が店じまいの作業を二人で終えたときだった。

スタッフルームで退勤を切った直後、ふいに沖野が口を開いた。

「そういえば、石田さんは結局、廃病院の肝試しも断ったんですか?」

「え?ああ、先週話してたあれか。行かなかったよ。君のなんとかクルスの噂話を聞かされたら、なんだかガチでやばそうだなって。それに、最初のトンネルのムカデが強烈だったし」

「え?…それって石田さんが聞かせてくれた話だったはずじゃあ」

「あれ?そうだっけ?なんか君の怪談が妙に生々しかったって記憶があるんだけどな。別のやつかなあ」

「石田さんだったと思うんですけどねえ…」

「俺じゃないよ、だってそんな話、去年ここで聞くまでは知らなかったし」


怪談話で部屋の温度を五度下げる以外に、実は貝沢にはもう一つの特殊能力がある。


都合が悪くなると、面識がある人々の記憶からすっぽりと消えてしまうのだ。



「お疲れ様でーす」

石田に挨拶してから、一足先に店を出る沖野。

駅に向かって歩きだす。彼女のステップに合わせ、灰色のパーカーと茶色いポニーテールがリズミカルに揺れる。

その向かいから歩いてくるのは、

深緑のジャンパーを着た猫背の、眼鏡をかけた顔色の悪い男。


二人とも、立ち止まらずに直進する。


貝沢は、ちらりと沖野の顔を見て認識してから、わざと気づいていないふりをして目をそらし、


沖野のほうは、本当に貝沢の存在に気づかず、駅のあるほうだけを真っ直ぐ見つめながら、


ちっぽけな書店の前でクロスし、すれ違ったまま再び離れていく。


遠ざかっていく沖野の背中。


数日前まではバイト先だったレストランを通り過ぎ、貝沢が足を止めたのは。


日本国内のわりとどこにでもある、名の知れたコンビニの入り口。


歩く怪異、貝沢出雲が次に恐怖をもたらすのは、


このコンビニかもしれないし、


さっき通り過ぎた書店かもしれない。




ひょっとしたら、今この小説をお読みにっているあなたの勤務先かもしれないのだ。





二代目としてアカウント名“岩山角三”を受け継ぎ、この文章を書いているのは、




この私、貝沢出雲である。

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