三十六話 セルミアーネの出征

 帝国と法主国の境には北から順にアリタスク侯爵領、バサリヤ侯爵領、マルロールド公爵領がある。帝国の端っこは必ず公爵領か侯爵領、もしくは皇帝直轄領になるのだそうだ。


 法主国の国境では帝国と法主国の境で明確に差が分かるくらい土地の地力に差があるらしい。帝国はその地域を併合すると、国境沿いに国境の印の杭を埋める。そして併合の儀式を行うと、新たな国境まで全能神の加護が届くようになるのだ。面白いのは海沿いには国境の印が要らないらしく、全能神の加護は基本的には海を越えないらしい。ただ、帝国の海と他国の海では帝国の海の方が豊かだとは言われている。


 私達皇族は帝宮礼拝堂か大神殿で帝国全土の加護を願い、魔力を奉納する。子爵以上の領主は各々の領地の加護を願い魔力を奉納する。面白いのは帝都からでも領地に魔力が奉納出来る事で、領主は屋敷の礼拝堂から領地に毎日魔力を奉納しているのだという。ただ、あんまり効率は良くないらしく、年に二回の領地での奉納は大事らしい。


 離れた場所から魔力が奉納出来るという事から、魔力は地に注ぐのではなく神に、天に奉納したものが地に返ってくるのだと言われている。それが神に奉納した全てが地に注がれるのか、神が自分のものにして、全く違う何か御力を使って地を肥やしているのかは分からないらしい。ただ、領地に赴いて奉納した方が効率が高い事から、どうもその地にもその地を護る神様がいらっしゃって、帝都で奉納すると全能神経由になるものが、現地に行けばその地の神に直接奉納出来るので効率が良くなるのでは無いか、と言われているそうだ。


 神々はとにかく多過ぎるので、大神殿の神官達が日々研究していてもまだまだ分からない事だらけなのだそうだ。ちなみに大神殿の神官達も毎日お祈りして全能神に奉納しているが。魔力が少ない者が多いので、よってたかって奉納しても私一人が奉納する分に満たない。上位貴族の魔力はそれくらい多いのだ。この魔力の維持は帝国の礎を成す重大事項である。


 法主国の侵攻の兆しは私が悪阻で唸っていた昨年の冬くらいには帝国に伝わっていたそうだ。法主国と帝国の間には交易があり、商人が大勢国境を越えて出入りしている。そういう商人から齎された情報である。馬鹿馬鹿しい事に、法主国は戦争に備えるために兵糧を集めるのだが、それを購入する商人は、帝国で食料を買い付けて法主国軍に売るのだと言う。なので法主国が戦争に備え始めると食糧の輸出が増えるのですぐに分かってしまうのだ。どれくらい食料を集めているかで軍の規模まで分かってしまう。


 法主国の首都は帝国国境から馬車で十日は掛かるらしい。これは以前、帝都に来た法主国の使節が話してくれた。彼らは私が法主国の言葉を少し話すと分かると驚き、かえって警戒した様だった。西の人たちみたいに仲良くなれるかと思ったのだが上手くいかないわね。


 彼らは自分達の神様「至高神」こそ唯一絶対の本物の神様なのだから、私たちは間違った神様を捨てて自分達に従うべきだ、と主張していた。私は不思議に思って聞いてみた。


「そのあなた達の至高神とやらは何をして下さるのですか?」


「至高神は私たちを愛し慈しんで下さり、死後は天の楽園に導いて下さるのだ」


 生きている内は何もして下さらないらしい。ちなみに帝国では死んだらすぐに生まれ変わって違う人間になるとの考えが一般的である。ただ聖域にいらっしゃった聖霊は生まれ変わっていらっしゃらないという事になるのだが、あの方々がどういう存在なのかは私にはよく分からない。


 死んだら楽園に行くより今豊かにしてくれる神様の方が良い神様だと思うのだが。ただ、死んだら幸せになるとの教えからか、法主国の兵は命知らずで面倒なのだとか。異教徒との戦いで死ぬことは特に名誉とされているらしい。


 それはともかく、法主国侵攻の兆しは大分前に掴んでいたので、帝国軍は皇帝陛下の命で大動員体制に入った。騎士団が定数の五百から一千に増員される。やや年嵩の騎士や、功績を上げて階位を子爵や伯爵に上げた様な者を招集するのだ。そして兵士の徴募である。帝都で一万人、国境付近の各領で合計一万人。既に国境にいる部隊を含めて三万人の軍隊が編成された。帝国軍の実力的にはもっと動員出来るが、大軍というのは信じられないほど物資を消費する存在である。なるべく少なくしたいのだ。


 軍隊は戦闘部隊と同じくらいの規模の支援部隊が必要だと言われており、それは前線が遠ければ遠いほど増える。帝国軍は法主国国境沿いに幾つか軍事拠点があり、そこに物資が集積されているのでそれほど支援部隊は必要ないとの事だが、それでも三万人くらいの支援部隊が編成される。合計で六万一千である。大軍勢だ。そしてその部隊を率いるのは皇太子セルミアーネである。


 帝国軍が戦う時には皇太子が率いるというのが帝国建国以来の伝統なのだそうだ。これほどの軍勢なら皇太子が率いるに相応しいだろう。しかしながら今回のセルミアーネの出征には反対意見が少なく無かった。


 最も強く反対したのは皇妃陛下である。陛下は「皇子が皇太子一人しかいない状況で出征させて、もしものことがあったらどうするのですか!」と皇帝陛下に強い反対意見を述べられたらしい。


 皇妃陛下にはご長男を戦死させてしまったという心の傷がある。そのため、前皇太子殿下の出征にも常に反対の意見を出されたそうだ。


 しかしながら、帝国を率いる者として、帝国の危機には自ら戦う姿勢を示す事は重要な意味を持つ。全く武芸の心得がない文人皇太子ならともかく、武勇に優れていると評判のセルミアーネが出征を避けたら臆病の謗りを避けられまい。他人の子を出征させておいて自分の子は戦わせないのでは、両陛下が出征兵士の親から反感を買うことになるだろう。結局皇帝陛下はセルミアーネに出征を命じた。


 同時に、皇帝陛下は国境に接した各領地にも動員を命じ、物資を帝国軍に供出する事や兵員の徴募を行った。そして上位貴族全体に通達を出し戦闘能力のある上位貴族に騎士団へ加わるよう命じた。


 騎士団は方陣を組み、お互いに魔力を通し合うと戦闘能力が高まるのだという。この場合。高い魔力がある者が加われば加わる程戦闘能力が上がるのである。なので多少でも戦闘能力がある上位貴族を方陣の中に組み込めばそれだけ戦闘能力の向上が見込める訳だ。


 血の気の多い貴族やその子息が何人か立候補したそうだ。血の気の多さなら私も負けていないのだが、私の参戦は言い出す前にセルミアーネに「君は来たらダメだからね」と却下されてしまった。そりゃそうだろうとは思ったが残念だ。


 そういう風に準備は整えられ、法主国が国境付近に終結しているという報告を受けてすぐに、セルミアーネは正式に出撃の辞令を受けた。国境までは十二日の行軍だという。なかなかの遠さだ。


 出撃前夜、私とセルミアーネは揃って子供部屋を訪れた。カルシェリーネはゴロゴロと転がりながら。おもちゃを投げたり振ったりして遊んでいた。私が抱き上げるとちょっと不満げな唸り声を上げる。


「流石に君の子供だけに我儘だな」


 む、私が我儘だというのか。そうだけど。セルミアーネは苦笑しながら続ける。


「でも、泣かないな。我慢強さも君譲りだ」


 フォローになっているのかどうなのか。


「それを言ったらおもちゃを手放さないところは執念深いあなたに似ているわ」


「そうかな」


 セルミアーネは嬉しそうに笑う。そして、私が抱いているカルシェリーネの目を見ながら言った。


「リーネ。父は戦って来るからな。良い子で待っているのだぞ」


 う、それを聞いて私は少し心が重くなった。セルミアーネの強さはよく知っているし、帝国軍の強さなら万が一の事も無いと思う。


 しかし、戦争だもの。敵がいる話だ。敵だって勝つために色々な事を考え、努力をしている筈である。故に戦の勝敗は時の運と言われる。流石の私も国家間の戦争に行った事は無く、どのような危険があるのかは分からない。山賊退治とは訳が違う筈だ。


 そう。心配なのである。私は夫を心配していた。私にとってセルミアーネは実に頼りになる夫で、仕事のし過ぎを心配するくらいが精々で、こんなに深刻な心配をした事がなかったのである。


 私がじっとセルミアーネを見ていると、セルミアーネも私の視線に、私の不安に気が付いたようだった。その青い瞳に私の姿を映しながら、ふっと笑った。


「大丈夫だよ。ラル。私は必ず勝って戻る。君には帝都の事を頼むよ」


 なんというか、余計な事を言いそうになってしまう。引き止めたり、泣き言を言ったりしたくなる。そういう気持ちが自分の中に生まれたことに自分でも驚く。私はどうやらこの夫に、自分のいろんな部分を預けてしまっていたようだ。


「・・・分かっているわよ。私を誰だと思っているの?」


 以前なら自信満々に言い切れたその言葉はなんだか強がりのように力が無かった。そんな私をじっと見つめて、セルミアーネはカルシェリーネを私の腕から抱き取ると、息子に向かって笑い掛けた。


「リーネ。男の子は家を守るのが役目だ。お前が母を守りなさい」


 う、こんな赤ん坊に守られるようではお終いだわね。だが、セルミアーネが出征するこの時、息子がいてくれて本当に助かった。カルシェリーネがいなければセルミアーネを本当に引き止めてしまったかもしれない。私はセルミアーネを息子ごと抱きしめる。


「全能神と武と勝利の神に武運長久を毎日お祈りします。お早いお帰りを。ミア」


「ああ。待っていてくれ。ラル」


 翌日、大神殿で出撃の儀式が行われた。上位貴族が儀式正装で勢揃いする中、式典用の鎧を身に付けた皇帝陛下が出撃の詔を発し、続けて上位貴族全員で全能神と武と勝利の神に祈りを捧げる。


「天にまします全能神とその愛し子たる武と勝利の神よ。我の願いを叶えたまえ。帝国の戦士の剣に何物をも貫く鋭さを与えたまえ。帝国の戦士の鎧に何ものをも弾く硬さを与えたまえ。帝国の戦士達に勇気と幸運を与えたまえ。帝国の戦士達に勝利と栄光を与えたまえ。我が捧ぐは祈りと命。神よ、帝国を護りたまえ」


 上位貴族全員が一度に祈り、魔力を奉納するのはこの出陣の儀式の時のみだという。祈りが終わると神殿全体に光の粉が舞い踊る。セルミアーネと騎士団長、そして騎士団に加わっている上位貴族だけは鎧姿だ。彼らは祈りが終わるとザッと立ち上がった。


「頼んだぞ。セルミアーネ」


「お任せください」


 皇帝陛下の命にセルミアーネが力強く応える。皇帝陛下の横にいる皇妃陛下は見るからに不安そうな顔で瞳を潤ませていた。セルミアーネが私のことを見る。私は自分が皇妃陛下の様な顔になっていなければ良いと思いながら、必死に笑顔を作った。



 セルミアーが出征しても私の日常は社交社交でほとんど変わらない。ただ、皇太子出征中は緊急度の高い案件では皇太子妃に判断が委ねられる場合があり、そのような時には離宮に書類が届けられる場合もある。


 最も多いのは害獣や山賊が出たのでどう対処したら良いかという直轄地各所からの相談や要請だった。そういうのは一応私が見て、騎士団の留守を預かる騎士に伝えれば彼が対処してくれる。責任を取る関係上、私が見る事が大事なのだ。


 だが、私はそういう報告をいくつも見てちょっとおかしいことに気が付いた。私は帝宮本館の皇太子府まで行き、そこで留守を預かっている官僚達にここ最近の害獣と山賊、それ以外の騒乱についての資料を見せてもらった。普通の時なら越権行為だが、戦時だと私は皇太子代理みたいな形になっているのでギリギリセーフである、


 資料を見て考えこむ。私はこう言っては何だが、故郷で何回も害獣や山賊の対処を経験している、その手の問題のプロである。その経験から考えると、ちょっと最近の害獣と山賊の発生の傾向はおかしい気がするのだ。もちろん私が知っているのは故郷の事と帝都近郊の森の事だけなので、それが全国的に当てはまるかどうかは分からないのだが。


 判断するには情報が足りないかな。私はとある決心をして、とりあえずエーレウラとアリエスに相談した。


 二人は頭が痛いというような顔をした。


「・・・最近は大人しくしていると思ったのに」


「妃殿下が大人になんてなる訳がなかった」


 酷い言われ様だが、私の計画には二人の協力が不可欠である。私は頼み込む。


「平民を帝宮には呼べないでしょう?お忍びで行くにしてもこのご時世じゃ大々的な警備が必要になってしまって目立つもの。こっそり行くしかないのよ」


「危険すぎます。この間刺客に襲われたのをお忘れですか?」


「だから変装して抜け出すのよ。お願い。もしかしたら大きな問題になるかもしれないのよ」


 エーレウラはがっくりと項垂れた。彼女は既に私が言い出したら聞かない女だと知っている。私が譲る気がないと察したのだろう。禁止しても強引に抜け出す気満々だということまで分かっている。


「・・・分かりました」


「エーレウラ様⁉︎」


 アリエスが驚く。


「勝手に無理やり抜け出して危険な事になるより、私たちが御協力して差し上げて万全を期した方がマシだと判断いたしました」


 流石はエーレウラ。よく分かっている。


「ですから勝手に行動してはなりませんよ。良いですね?」


 はい。分かりました!と私は返事だけは良い返事をした。


 数日後、私は帝都市街を平民服で歩いていた。ブラウスにスカートにボディス。そして木靴。装飾品は一切無し。髪は引っ詰めてまとめた上で、スカーフを被っている。どこからどう見ても平民の若奥様だ。久しぶりにポコポコ足音を立てて歩いていた。はー。落ち着く。私やっぱり平民のが好き。


 つまり私はある目的のために、その日は社交をお休みして帝都の市街にまで抜け出してきたのである。どういう手を使ったのかというと、まずその日のお茶会は離宮で開催する内輪のお茶会にして、出席者は全員お姉様にする。そしてお姉様に「今日は止めときましょう」とドタキャンするのである。これをお姉様以外にやらかしたら大問題だが、お姉様たちなら「まぁ、最近忙しそうだから仕方ないでしょう」で済ませてくれるという寸法だ。上位貴族夫人に身内が多数いる事を利用した荒技である。


 ヴェルマリアお姉様にだけは事情を話し、協力してもらった。お姉様は呆れていたが、後で他のお姉様から事情を聞かれた時にごまかす事に協力してもらえる事になった。新品のドレス一枚で。


 当日は下級侍女服を着てエーレウラのお使いだと偽って堂々と馬車で帝宮を出て、以前住んでいたお屋敷に行き、そこで置きっぱなしにしていた庶民服に着替えて歩いて市街に出てきたのである。いやー、エーレウラの協力があれば抜け出しも楽ちんだわ、


 少しは心配していたが、尾行の気配は無い。まぁ、皇太子妃の行動としては常軌を逸している自覚はあるので、流石に刺客の想定を超えたのだろう、お陰で私は久しぶりに帝都の市街の喧騒を堪能した。


 だが、私は一応遊びに来た訳では無い。一応。私は帝都の狩人協会を訪れた。


 私の顔を見て協会のマスターであるベックが腰を抜かしてしまった。あ、そういえばここの人にはレッドベアー討伐の時に皇太子妃だってバレてるんだっけ。


「こんにちわ。久しぶり。『ラル』ですよ?」


 ベックはは私の挨拶を聞いて何とか椅子に座り直してくれた。汗を額に浮かべながら唸るような声で言った。


「今日は、そっちの方だということなのか?」


「そう」


 彼はグッと眉間を押さえて気合いを入れると、どうにか持ち直してくれた。流石は熊にも立ち向かう狩人の胆力よね。


「で、何の用なんだ。ラル」


「ちょっとお願い事があるの。狩人協会が一番詳しいと思って。報酬は弾むわ」


 私はベックに私の得た情報と仮説を話し、それについて調べてくれるように依頼した。ベックはちょっと困ったような顔をした。


「これは帝都の狩人だけでは無理かもな。近郊の街の協会にも声を掛けなきゃならんが」


 狩人は狩人同士の仁義があるから他の狩人協会が管理する地域には立ち入らない。帝国の広い範囲を調査するなら複数の協会が動かなければならない。しかし。


「果たして動いてくれるかな。俺たちはほら、ラルの事を『知っている』けども。他の協会の連中は知らないから、果たして真面目に動いてくれるかどうか」


 もっともだ。帝都の狩人協会は別に帝国の狩人協会の総元締めでは無いのだから。命令の権限は無い。私は頷いてボディスのポケットから一つの宝石を取り出した。ベックは目を剥いた。


「あ、あんたそりゃあ」


 意外と目が利くわね。協会のマスターともなれば当然か。私はその大きなルビーのペンダントをテーブルに置いてベックの前に滑らせた。


「前金です。同時に、金の部分に皇帝の印が入っています。それを見せれば『皇太子妃からの』依頼だとすぐ分かるでしょう」


 ベックは真っ青になった。


「こ、こんなもん俺には換金出来ねぇ!それにおっかなくて持って歩けねぇ!違うものにしてくれ!」


 あら、そうなの?私の持っている宝石の中でも一番高いルビーだから仕方がないのか。誠意を示そうと思ったんだけど。結局、ペンダントからルビーを外して、皇帝の印が入った金の鎖の部分だけを渡す事にした。


「報酬は後でもっと渡すわ」


「こ、これで十分だ」


「あと、商人だとか吟遊詩人だとかからも情報が欲しいのよね。ベック誰か紹介出来ない?」


 私が言うと、ベックは頭を抱えてしまった。


「分かった。後は俺が全部手配するからラルは早く帰れ。気が付いていないかもしれないが、あんたは物凄く目立つんだから」


 え?そうかな。普通の平民の格好だし、お作法も投げ捨ててるから平民そのものだと思うけど。するとベックはそういう意味ではないと言った。


「あんたは平民暮らししている頃から物凄く目立ってたんだよ。何というか、いるだけで他とは違ったんだ。だから、ラルが皇太子妃でございって出てきた時は逆に納得したんだぜ」


 得た情報は元の家でハマルかケーメラに伝えてもらう事にした。平民は帝宮に入れないから仕方が無い。礼を言う私にベックは少し真剣な怒った様な顔をしながら言った。


「もう二度とここに来るなよ。ラル。あんたはもう俺たちとは住んでる世界も責任も何もかも違うんだ」


 う、そんな事を言われると私はちょっと悲しく寂しくなった。平民時代は仲良くやっていたじゃない。別に皇太子妃になったからって私の中身が変わる訳じゃ無いのに。


 しかしベックは首を横に振った。


「ラル。あんたが帝都の、いや、帝国のために頑張っている事は知っている。帝都を守るためにあんな化け物みたいなキンググリズリーを倒してくれたんだからな。あんたの力はああいう、俺たちの手に負えない事に使うべきだ。こんなお使いは部下にやらせれば良いんだ。人を使え。人を」


 確かに誰か侍従にお使いさせれば済んだことかも知れない。秘密に事を運びたかったのは確かだが、出来ないことは無かった。自ら動いたのは結局、最近お忍びをしていなかったからしたかったのだ。


「久しぶりに市街を歩いてみたかったのよ」


「こんなところに来て。あんたに何かあったら市街の平民の首がみんな飛んじまうぞ。その事は考えたのか?」


 確かに、自分が襲われた時にどうやって撃退するかは考えたが、影響までは考えなかった。なるほど。お忍びとはいえ私が今この狩人協会で手傷でも負うような事があれば。狩人協会ごと吹っ飛んでしまうことになるだろう。それくらい皇太子妃の地位は高く平民の地位は低い。


「ごめん。ちょっと考えが甘かったわね」


 私が謝ると、ベックが表情を和らげた。


「いや、良いんだ。俺たちは嬉しいんだよ。市街のみんな、狩人のみんなの人気者だったラルが、今や帝国の皇太子妃なんだぜ。みんなこっそり言っているんだ。あのラルなら俺たちの生活を、帝都の街をきっとよく考えて、良くしてくれるってな」


 私は狩人協会を辞去すると、家で侍女服に着替えて急いで帝宮に帰った。帰り道、私はちょっと反省すると共に、ベックの言ったことを考えていた。平民の頃に仲が良かった人たちでさえ、もう私を別世界に行ってしまった人間だと考えているという事。そしてそれでもなお、私に親しみを覚えて期待してくれているということ。


 皇太子妃になって、お披露目に帝都の塔に上がって歓呼の声を浴びた時に覚えた恐怖を思い出す、しばらく皇太子妃生活をやっていって、あの時感じた帝都臣民の運命を左右出来てしまえる存在になった事の恐怖を、私はすっかり忘れていたのだ。


 忘れてはならない。私はもう平民ではなく、騎士の奥様でもなく、一人の貴族ではすら無く、皇族、皇太子妃、次期皇妃なのだ。私が支えるのは帝国そのものとさえ言える次期皇帝で。共にその肩に担ぐのは帝国そのもの。帝国の国土と臣民なのだ。


 私はこれ以降、帝宮の外へのお忍びは、二度とやらなかった。いや、帝宮の中で護衛付きのお忍びは続けたけどね。


 ベックは各地の狩人協会や商人などに手配してくれて私の頼んだ情報を集めてくれた。私はそれをハマルかケーメラ経由で受け取って分析する。大体私の思った通りだった。


 私はセルミアーネに手紙を送った。早馬が前線と帝都を往復しており、それ自体は普通のことである。セルミアーネならこの情報さえあれば対処出来るだろう。


 そしてセルミアーネが帝都を進発して一ヶ月後、帝国軍と法主国軍は国境近くの平原で激突した。

 

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