第82話 『人類存続促進機関』

 この辺りはかつては小山の登山コースにつながる広場だったが、今となっては見る影もない。アスファルトの補修もされず、日々の往来によって地面はところどころめくれ上がっている。

 人々は薄汚れた格好で、廃材や荷物を運んだり、物を売ったりする。元気な子どもの一団が、イドラたちの前を横切った。少なくとも最低限の活気はあるようだ。


 かつての先進国である日本が誇った栄華から鑑みれば、このような生活水準は嘆きの対象でしかないだろう。最盛期、爛熟した科学や工学の技術によって、街並みはどこもかしこも清潔かつ整頓されていた。人々の生活は利便性を極めた。

 しかし、もう当時の人間は墓の下だ。あるいは墓さえない。

 そしてイドラにしてみれば、この不潔気味で煩雑とした光景はそう珍しいものではなかった。

 地平世界で旅をしていれば、こういう場所はたくさん見る。最後に拠点にしていた、聖堂のあるデーグラムにおいても、町の一角にこのようなスラム街が形成されていてもまったく不思議ではない。

 違いと言えば、電柱があることくらいだ。

 一応、電気は通っていた。上下水道もだ。

 この辺りの電柱はコンクリートの古くからあるものを補修しながら使っていた。場所によっては、新たに木製のものを建てている。文明衰退前、ずっと昔は木製電柱が主流の時期もあり、これはある種の回帰と言えた。


「……ん?」


 そういった事情など知るはずもないイドラが、ふと視線に気づいて首を巡らせた。

 通り過ぎたと思った子どもたちが、なにを思ったのか、戻ってきてイドラたちの方を凝視している。

 正確には、カナヒトとセリカ、それとトウヤの三人を。


「その制服! 山の上の、方舟のひとたちだよね!」

「すごい! アンゴルモアを倒してきたの!?」

「この刀、コピーギフトってやつだよね! かっこいー!」


 まるでヒーローを見るかのように、わらわらと寄ってくる子どもたち。まだ十歳くらいだろうか。多少色に濃淡の差はあるものの、誰も黒い髪と目をしており、それでいて血縁関係を匂わせる顔立ちでもなかった。

 五人程度の子どものうち、中でも一番体の大きな少年が、どこかぎこちない動きでカナヒトの前に出た。


「あ、あの。おれもクラウンスレイヤーになりたくて。ど、どうすればなれますか!?」

「ん……そうだな、十六になれば誰でも試験は受けられるぞ」

「そ、そういうことじゃなくて……もちろん十六歳になったら真っ先に受けようと思ってます。だけど、それまでになにをして過ごせばいいのかって思って」

「ああ、そういうことか。まあ、体を鍛えてりゃあいい。筋力だけじゃなくスタミナもな。心肺機能だ。よく走り込んでおけ」

「……ふつう、ですね」

「そりゃあふつうだ。俺たちゃただの人間で、相手は化け物。どうやったってトチる時はトチる。できるだけそうならないようにするがな」


 少年はカナヒトのありきたりな回答に、どこか失望したような、意気消沈の様子で礼を言って、周りの子らを置いて去っていった。

 クラウンスレイヤー。その呼び名が気になっていると、顔に出ていたのか、そんなイドラにセリカが耳打ちで教えてくれる。


「アンゴルモア、っていうのは『恐怖の大王』って意味らしいの。……まあ、ひょっとしたら時代につれて意味がねじ曲がったり、混同したりしてる可能性だってないでもないけど……」

「大王。なるほどそれで、大王を倒す——」

「そう、王冠狩りクラウンスレイヤー。ただ、そんな大仰な呼び方をするのは外の人間だけね。小っ恥ずかしくて自称なんてとても。こんな時代だからさぁ、あたしらを神格化? てゆーの? そういう目で見る人たちもいるのよ」

「英雄か」


 不死殺しにも、多少の覚えはあった。

 その実を伴わない幼い憧れを正すため、カナヒトはあえて少年に現実を突きつけるようなことを言ったのだろう。

 クラウンスレイヤーはヒーローではない。

 こちらは人間、相手は化け物。戦死など、珍しくもなかった。

 そして、怪物を狩ることの難しさをイドラは骨の髄まで思い知っている。


「希望が、必要なんですね……」

「人類どん詰まりだからねー。方舟は待遇いいし、お金目当てに目指すのはいいと思うんだけどさ。幻想みたいな憧れを抱いたまま、戦闘班になろうとするのは……無駄だから」


 ソニアはどこか、悼むように目を閉じる。

 なにが無駄なのだろう。時間か、それとも命か。イドラは訊かなかった。

 カナヒトはまだ、純粋な羨望を顔いっぱいに湛えた子どもたちに囲まれている。


「ほら、そろそろ散れ。俺たちゃ方舟に戻んなきゃいけねえんだ」

「えーっ。ねえ兄ちゃん、なんか買ってよ。クラウンスレイヤーってお金持ちなんでしょ?」

「はぁ……そんなこったろうと思ったぜ。しょうがねえ、とっておきの飴やるから、これ持ってとっとと帰れ。おっと、ひとつはさっきのデカい子の分だぞ」

「やったー! ありがとう方舟の兄ちゃん!」

「ありがとーっ!」


 ジャケットのポケットから個包装された飴をいくつか取り出し、子どもたちに渡してやる。子どもらはそれを受け取ると、笑顔ではしゃぎ回り、さっきの少年を追うように走っていった。

 カナヒトはそのいくつかの小さな背を、しばしの間見つめる。なにを思っているのか、表情からは窺えない。


「優しいんだな、あんた」

「あ? たまたま持ってたんだよ」

「いつもあげてるくせに」


 トウヤから思わぬ指摘を受け、カナヒトはばつが悪そうに顔をしかめた。


「はは、言われてるぞ。やっぱり優しいじゃないか」

「くだらない偽善だ。さっきも言ったろ、俺たちは戦闘しか知らない。目の前の敵を片付けることだけが専門だ。本当の意味でここを救うなんて、できないんだよ」


 ぶっきらぼうに踵を返し、行くぞ、と先へ促す。ミンクツの簡素で雑多な街並みの向こう、山の上につながる長い石の階段。その辺りは家屋などもなく、むしろ木が立ち並び、自然がおおまかに残されていた。

 一行は石段を上る。

 一段、一段と上っていくたびにミンクツの活気、騒々しさが遠のいていく。

 長い石段は、一般人の居住地であるミンクツと、半ば隔離された山の上の区域、人類存続促進機関・ノアの方舟との中間に位置する。

 境界は実に密やかなものだった。斜面に生える木々が音を吸っているのだろうか。


(……なぜだろう。なんだか似ている気がする)


 静謐さの中に、どこか覚えのある感覚をイドラは見出した。

 これは——そう、デーグラムの聖堂、あの礼拝室に満ちる空気と同種の。

 どうしてそんなことを思ったのか、イドラは自分でもわからなかった。あそこは厳かな室内で、ここは野外の階段だ。似ているはずがないのに。

 身が引き締まるような、冷えた風がそっと皮膚を撫でていくような、特有の感覚。


「ふう……長い階段ですね。いつもここを通ってるんですか? 大変ですね、皆さん」

「あはは。あたしも最初はずっと憎たらしくてしょうがなかったよ。なんでこんなところに建てたんだーって」

「ふん、そんなの決まっている。山の上にあれば見晴らしもいいし、軍事地理学の観点から見ても有利だ」

「はーっ、相変わらずリクツっぽいヤツ……。いーい、ソニアちゃん? 灯也みたいな頭でっかちな大人になったらダメよ」

「は、はい……?」

「なぜそこでソニア君を引き合いに出す!」

「馬鹿やってねぇで行くぞ馬鹿ども」


 階段を登りきると、ミンクツの外——ガーデンからも見えた、巨大かつ重厚な塀が出迎えた。

 まるで監獄のようだったが、その意図が真逆であることはイドラも推察できた。

 内から逃さないため、ではなく。外から来るものを阻むため。

 人類の天敵である黒い使者、大地にちらばるアンゴルモアたちが万が一、さながら洪水のようにここまで攻め込んで来ても、やすやすと侵入されないようにするためだ。

 しかし、その『もしも』が現実となった時。仮にこの塀がアンゴルモアの侵入を防いでくれたとしても、防壁の外にある階下の街……ミンクツが彼らに蹂躙され尽くすであろうことは、言うまでもない。


 旧約聖書、創世記において記されるノアの方舟。大洪水から逃れるべく造られた、地上のごく一部の生物のみを乗せた避難船。

 洪水伝説の神話など、今や知る者はごくごくわずかだ。

——本当の意味でここを救うなんて、できないんだよ。

 イドラの頭の中で、今しがたのカナヒトの言葉が反響した。


「さっき爺さんから連絡が来た。灯也、芹香。お前らはもう部屋に戻ってろ、俺はイドラとソニアを連れて総裁室へ向かう」

「了解です、リーダー」

「りょうかーい」


 話は通っているようで、門衛はカナヒトを一瞥すると頭を下げてすぐに門を開けた。

 向こう側には、塀と同じ真っ黒い色をした施設があった。イドラが目を覚ました場所、ガーデンの旧オフィス街の建物と同様に、イドラに馴染みのない高度な建築技術によって建てられた建物だ。

 山の上部を埋め尽くさんばかりの広さ。デーグラムの聖堂が四つは収まる。

 それも目に見える範囲でだけだ。実際は地下にも、山に根を張るように人の手が大きく入っていた。

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