第百十七話 別たれた雪影


 【午後八時九分】

      

 千里 智太郎 

 杉林内 山小屋前にて


 

 《千里視点》


 紺碧の勁風けいふうは、粉雪パウダースノーを巻き上げ、雪冠ゆきかむる杉林を裂いた雪道の斜面を下っていく。私達二人は、残された。

 

 智太郎は、言伝を受けて去る綾人を追いかける事は無かった。私を説得しなければ、結果は変わらないから。

  

 麗しい少女のような風貌とは裏腹に、智太郎は花緑青の双眸に宿る激情の閃光で、私を射殺すようだった。

 

 だけど私は答えを変えるつもりは無い。

 鴉の過去夢を視た時から、答えは導かれていたのだから。  

 私が……受け入れられなかっただけだ。


「智太郎を助ける為には、やっぱり私が人と妖の狭間に立つしかないの。人では無くなっても……千里わたしで無くなっても構わないよ。結果、原初の妖になったとしても」


あいつに何を吹き込まれた! お前は人で有りたいって、言ったじゃないか! 」


 噛み付くかのように白息しらいきと共に吼えた智太郎が、私の両肩を掴む。肩の骨に食い込む程にその力は強くて、痛みにめげそうになり歯を食い縛る。

 だけど、私も譲るわけにはいかない!

 

「智太郎が生きていてくれないなら、結局、私が人で有る事に意味なんて無いって分かったから! 私自身が決めたの。私が智太郎と一緒に生きることなんて、どっちにしろ出来なかったんだよ……」


 ギリギリになっても、私は理由であるはずの決定的な罪を告げられず、唇を噛んだ。咲雪を殺めた罪は、きっと智太郎の元を去る最後にしか伝えられない。


「千里を妖になんてさせる訳ないだろ! お前を犠牲にして、俺が生き続ける事に何の意味があるんだ! ……結局、お前はあいつの事が好きだから、同じ存在になろうとしているだけなんだろ 」


 私は愕然と目を見開き、花緑青の双眸に焔を宿す智太郎を見つめた。揺さぶられるように、鼓動がずれて空回る心臓を押さえる。信じられない……。

 私が、今まで智太郎に伝えた言葉を、嘘だと言っているような物だ。首を横に激しく振った!


「違うよ。確かに私は昔、黒曜の事が好きだった。だけど裏切られた今は違う! 智太郎が好きだから……千里じぶんですら無くなっても構わないって覚悟したんだよ! それなのに、想いすら疑うなんて……酷いよ」


 寒風が靡かせる、智太郎の白銀の髪すら、視界に入れられず、私は俯いた。

 上手く息が吸えないのに、篭った痛みがじくじくと身体を支配して、震えてしまう。目の奥へ刺さった針のような刺激が生まれ、やがて視界を滲ませた。弾いた涙は、私達の距離を測るように、深雪に染みる。

 今までも、決して距離は遠くなかったはずなのに、伝わっていると思っていたのは間違いだったのだろうか。

 絶望が肺を重く満たす前に、私の肩を掴む智太郎の両手が我に返ったように緩んだ。


「ごめん……冷静じゃ無かった」


 智太郎を見上げると、私の頬に涙が伝った。花緑青の双眸に宿っていた焔はゆるゆると消失した。代わりに後悔と動揺が、寄せられた眉と揺らいだ双眸から伝わるようだった。

 

 全てを知らないまま、私が智太郎に答えだけを告げてしまったからだ、と気がつく。智太郎が私に怒るのは最もなのかもしれない、という自責の念が掠れた声を紡がせた。


「私は鴉……黒曜の過去夢を視て、真実を知ったの。智太郎にも、全部伝えるよ。黒曜が私に執着するのは、彼が愛していた己穂という女性の生まれ変わりだから。千里わたしが智太郎に出会う前にも、黒曜と一緒に居た時間はあったんだけど……」


 私は、呆然と双眸を見開く智太郎に知り得た事実を伝えた。

 やがて智太郎は雪華の睫毛を羽ばたく。花緑青の双眸に宿る瞳孔は定まり、いつも通りの強靭な輝きと共に冷静さを取り戻す。


「……ちょっと来い」


 そう言うと、智太郎は山小屋の扉を開いて、入口近くで座る。手招きをされるままに、首を傾げながら近づくと……腕を引かれた!

 バランスを崩された私は、くるりと前を向かされ、智太郎の間に座っていた。智太郎の白息しらいきと柔らかな髪が耳元を擽る。暖かさを感じる背中から、私を包み込む智太郎の両腕に、後ろから抱き締められている事に気が付いて、瞠目した。

 慣れ親しんだ確かな体温は、胸の内に甘い痺れを連れてくる。小さく息を放した私を、安堵させてくれた。

 私を包み込む両腕に触れると、それが合図かのように智太郎は唸るように小さく囁く。


翔星かいせいは、千里が原初の妖になる可能性があるって知ってたんだな。……桂花宮家の中に千里を閉じ込めたのは、鴉だけじゃないって事か」

 

「それでも私には余りある自由だった。父様は、原初の妖になる可能性のある、私を殺める選択肢もあったはずなのに、そうしなかったんだよ。桂花宮家当主という立場より、私を選んでくれていた。……それに、本当に地下牢で自由を奪われるべきだったのは、咲雪でも智太郎でもない。私……だった。母様を犠牲にしてまで、生まれてくる価値なんて無かった」


 亡くなった『母』という存在により、私の無意識には元々、埋まる事の無い虚ろな穴が空いていた。虚ろな穴は、仮初の『母』としての、那桜と黒曜の記憶が失われた為に、孤独という焦燥感を生んだ。

 だが結局……智太郎から、咲雪の命を奪うという選択を選んだのは私だ。自分勝手に、『母』を咲雪に重ねて。

 

「俺は千里が生きていてくれて、出会えて良かったと思ってる」


 私は智太郎の言葉に突き刺さった悔恨が、微笑を浮かべるはずだった唇を歪める。

 乾いた心は暖かい金の慈雨が降るように……希望が満ち足りていく。けれど慈雨は、卑怯な私にとって毒なんだ。

 

「鴉が千里に与えた孤独は、俺が居る事で無くなったんだろ? 今更あいつが、千里に関わる資格なんて無い」

 

「だけど私が智太郎を助ける方法は、黒曜の手を取らない限り得られない」


「俺は千里に人であって欲しいし、あいつの所に行くなんて、論外だ。俺が生き延びるなんて、二の次で良い。……他にも方法がある筈だ」


 平行線だった。だけど、分かっていた。

 智太郎が……決して納得しない事も。

 それでも伝えたのは多分、智太郎が千里わたしを引き留めてくれると知っていたから。

 私達より遥かに永い時を生きてきた、黒曜の過去夢に存在しない方法なんて無い事くらい、智太郎も本当は分かっているはずだ。


「妖なんて、良いもんじゃない。憎悪から生まれた存在ならば、暗い感情に支配され続けるのは当然だ。千里には……俺みたいに闇に囚われて、また孤独になって欲しくないんだ」


「妖になると言う事を、私は智太郎ほど理解出来てないと思う。……でもね、私は智太郎の為なら全てを犠牲に出来るんだよ」


「千里は、同じような事を前にも言ってたよな。だけど、俺だって同じだ。千里の為なら、俺の全てを犠牲に出来るし、千里から、誰からも何も奪わせたく無い」


 ――肺を冷たい痺れが満たした。

 

 私は、包み込んでくれていた智太郎の両腕を優しく払い、立ち上がる。

 

 麗しい少女のようなかんばせの智太郎が、世界から別たれたように幼く見えてしまうのは、私の思い込みで無ければ良いのに。寒風に靡く、白銀の柔らかな髪筋に触れる事は許されない。呆然と見開く花緑青の双眸に、私の瞳を映した金の星芒せいぼうが揺れるのが嬉しいのに、私の胸を締め上げる。

 もう私は、智太郎への冀求ききゅうを貫く事は出来ないんだ、と思うと……下手な微笑が勝手に唇を歪める。内側を荒らす衝動は、智太郎を映す視界を再び涙で霞めてしまう。

 

「じゃあ私達は……敵同士にしか、なれないんだね」

 

「それは違う! まだ他に方法があるはずだ! ……一緒に探せばいい……これまで通り」


 智太郎は、否定するように荒々しく立ち上がる。だが、吼えるような叫びを続ける事は出来ず、小さく呟く智太郎に、私は首を横に振る。


「最初の妖として永い時を生きてきた、黒曜の過去夢で見つからないなら、他に方法なんて無いよ。智太郎なら、良く分かってるでしょ? 」


「分かんねぇよ……他の可能性を、諦められる訳が無いだろ! 約束しただろ、一緒に生きるって! ……俺がお前の味方で在り続ける誓いを、何でお前自身が破るんだ…… 」

 

 痛みを内包するように、紡がれた声は掠れた。緩く首を横に振った智太郎は、遂に花緑青の双眸が潤む。月光が反射する極光の涙の美しさに、私は胸を掻き乱された。

 いつも智太郎は強くて真っ直ぐで……泣く事なんて無かったのに。きっと強く有れたのは、約束が私達を繋いでくれていたから。

 

 打ち鳴らされる鼓動が、私の味方へ最後を告げる。鼓動により、自身が破壊されるような衝動に耐えられなかった私は、智太郎の頬に触れて口付けを交わす。瑞々しい花弁の様な智太郎の唇は凍えていた。

 離した唇は……もう交わる事の無い吐息に震えてしまう。

 

「こんな私を孤独から救ってくれて、ありがとう。今度は私が智太郎を守るから。……世界で一番、大好きだよ」


 ありふれた願いは、ありふれた言葉でしか告げられなかった。誰もが大切な人に抱く願いは、共通の平穏の中から生まれた物だから。


「千里」

 

 智太郎が私の名を呼んでくれると、千里わたしは生きてて良かったんだと思えて、自然に微笑していた。

 

 花緑青の瞳から今も伝わるのは、私の鼓動へ享受する強い想い。

 それでも私は、半身を奪われたように苦痛に歪められた智太郎のかんばせから伝った涙ごと、手を離す。

 

 くうへ散った銀の煌めきを振り払うように、私は己穂の刀を拾い上げ、金の稲妻を自身に纏わせた!



 

 

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