第百十五話 鋼糸の仮面


 【午後八時二十分】


 黎映 誠 綾人 青ノ鬼

 癒刻時計塔 地下洞窟内部にて

 

 《黎映視点》



 黒と青の双眸を細めた青ノ鬼は、地面から突き出た大岩の上で優雅に腰を掛けている。下々の者に施しを与えるかのように、足を組む。

 綾人の紺碧の勁風けいふうと、誠の滅紫の蛇達がぶつかり合い、地震のような衝撃波が再び洞窟内を激震させるというのに、青ノ鬼は少女のかんばせで笑みを深めた。

 

 綾人と誠の戦いと青ノ鬼の不敵な笑みは、私に焦燥と苛立ちを与えて眉間は絞られた。

 

「何故青ノ鬼あなたが、兄さんの気持ちを語るのですか」


「お前の兄である誠と同じ、人と妖の混沌の道をく者だからだ。同じ混沌として、あえて言おう。『人』に執着しているのは、黎映の方だろ? 」

 

 青ノ鬼に与えられた一声に、私の脳裏で閃光が弾ける!

 

『お前は妖を混じえた事で母に捨てられたのに、俺に人で在ることを望むのか? 』

 

 そう誠に問われた時から、私の胸の内を不快に引っ掻いていた違和感の正体は、明るみに晒された。

 自らを否定した母のように、私は無意識に兄を否定していたのだ……。

 人の世界に誠を取り戻したいのは、『人』であった誠のように私が強くなりたいと思っていたから。

 

 ――自らの『人』の理想として掲げられていた誠が、妖に堕ちるのを認める事は、自分をばけものとして認める事なのだ。

 

 だが再会した誠は、融合した大蛇に呑まれる事無く、妖になっても毅然と自我を保っていた。それに、私にとって兄さんが家族だという事は、人で無くても変わらない。

 言い訳だと分かっていても、図星を突いた青ノ鬼に歯向かうのを止められない!


「人で有ろうとする事の、何がいけないと言うのですか! 人で有れば、安寧の日々で生きる事が出来る! 妖は、平穏を得る事なんて出来ない! 」


「本当にそう思っているのか? 妖の血を混じえた綾人や智太郎、そして共に過ごす美峰や千里の前でも、お前は同じ言葉が吐けるか! 」


「……それはっ……」


 私は続ける事が出来なかった。未来視で垣間見た、千里と智太郎の日々は波乱が無いとは言えなかった。

 それでも彼らが過ごす日々は、乗り越えた波乱の上に、確かな安寧を築いていた。

 四人と共に癒刻ゆこくで過ごしたのは僅かな時間ではあるが、外の世界を夢見ていた私にも、望んでいた安寧は与えられた。妖を混じえた存在でも、望む平穏は得られたのだ。


黎映きみは、ぼくの右目を埋め込まれた被害者だ。……奪われた右目を放置していた僕の責任でもある。最近まで、とうに滅んだと思っていたからだが。時は戻らないが、黎映きみが望むなら何度だって謝ろう。だけど、もうその右目は黎映きみの一部なんだ。自分の一部を認めるのは怖い事かもしれないけど、そのせいで兄と別れるのは嫌だろう? 」


 私は何の為に、桂花宮家の門を叩き、癒刻ゆこくの地へ来たというのか。全ては、誠を追う為だった。

 だが誠は、私の手を取ること無く拒絶した。

 今更、私自身が変わったところで、誠の意思が変わるのだろうか。重い息を肺に抱え、俯く。


「……私が自らを認めたところで、兄さんが私の手を取る事は無いでしょう」


「諦めるのは、まだ早いんじゃないか? 幸い、黎映には味方が居る」


「私の味方? 一体誰が……」


 顔を上げた私に、意地悪く微笑した青ノ鬼は顎で、誠と戦う綾人を指し示す。

 二人の戦いは、未だ互いの色を喰らい合う嵐の中にあった!


「黎映はただ一人の弟なんだろ、何故殺そうとするんだ、馬鹿兄貴! 」

 

 紺碧の二つの角を顕現している綾人が、噛み付くように叫ぶ。

 顔を顰めた誠は、這いずる滅紫の蛇達を溶かし、冬怒濤ふゆどとうの如く、荒々しく砕け散る滅紫の荒波にす!


「不要になった道具をするのは当然だ! 」


 誠の咆哮と共に、滅紫の荒波は唸りを上げる毒の高潮で、紺碧の双眸を大きく見開いた綾人を呑みこむ!

 

 洞窟内を溶かす毒の異臭が鼻を掠め、私は胃が凍りついたようになる。

 

 だが滅紫の荒波は、内側から生じた紺碧の勁風けいふうの渦に、霧すら残らず消散された!

 不敵に口の片端を吊り上げる綾人の姿に、私は硬直が解けた。

 

「はっ……明らかに嘘だね。黎映が唯の道具ならば、何故躊躇っていた? その隙が無ければ、俺達は乱入し、黎映を助ける事が出来なかった」


 綾人の言葉は、私が兄さんに感じた一片の疑念だった。

 私の事を道具だと思っていたならば、何故私に信念を語ったのか。私を本当に殺すつもりならば……幾らでも機会はあったはずなのに。

 

  『お前が程、脆弱だっただけだ』と兄さんは、私へ告げたが……今は真逆な事を言っていた、と気づく。

 だが、言葉で取り繕っても、躊躇いはもう隠せない。

 思えば私に開示した、弱者を恨む誠の信念すら、内に秘めた何かを必死に誤魔化そうとしているようだった。


「世迷言だ、強者となった私に躊躇いなど無い! 」

 

 誠の一声に、私の内なる疑念は確信へと導かれた。

 

 誠は滅紫けしむらさきを貫く金の逆三日月さかさみかづきの双眸を荒々しく見開き、赫赫かっかくたる光の蛇を綾人に差し向けた!


 綾人は紺碧のアローを放つ!

 『ばく』の術式であるはずの光の蛇を貫き、地へと消失させた!

 

「世迷言を吐いているのは、あんたの方だ! なに変なプライドで、意地張ってんだ! 確かに、あんたは強い。だけど、それだけだ! 強くなりたいと思ったのは、誰かを守る為じゃないのか! 」


 綾人に光の蛇ごと信念を射られ、誠の逆三日月の瞳孔は揺れる。

 鋼糸こうしに編まれた強者の仮面が解けるように……誠は紺青の睫毛を伏せた。その口から、零れ落ちる言葉があった。

 

「力を追い求めなければ……強者で無くては、奪われ続けるからだ。は、いつだって強者に搾取されてしまう。強者だけの世界となれば、もうを抱く必要は無い」

 

 私が、そう思いたいだけかもしれないが……であった幼い黎映わたしが、父である弥禄みろくに鬼の魔眼を埋め込まれ、自由も能力も搾取され続けて来た事を、傍でただ見る事しか出来なかったと誠がしているように聞こえてしまう。

 

 誠自身が……かつて弱者であり、自分自身の後悔を抱いていたようでもあった。

 

 誠も、弱者であるし続けてきたのかもしれない。

 

 黎映わたしが、母にばけものと呼ばれた、魔眼いちぶしてきたように。


「後悔しているんなら、何故やり直そうとしないんだ! 脳が擦り切れるくらいに、やり直す事を祈ったって……死んでしまったら、気づく事の出来なかった後悔を伝える事だって、二度と出来ないんだ! 本当に、『馬鹿兄貴』だよ……あんたも、あいつも……」


 項垂れて呟いた綾人自身の、取り戻せない日々への後悔のようだった。私には、今はもう亡き人へ向けた、手向けの言葉にも聞こえた。

 

 顔を上げた綾人は、紺碧の双眸を強固な意思に燃やす!


「あんたら兄弟は、まだ生きている! やり直す時間があるのに、共に往けるはずの道をバラバラに逆走するな! 進行方向は、初めから路面表示されているだろうが! 」


「高速道路じゃないんですが……」


「逆走して、事故りそうになってるのは同じだ! 先輩ドライバーなら、安全運転しやがれ! 」


 思わず私が小さく呟いたのを、怒りに火がついた綾人は地獄耳で聞いていた。先程はあんなに叫んでも、声は届かなかったというのに。

 

「ふざけた奴だ……」

 

 滅紫けしむらさきを貫く金の逆三日月さかさみかづきの双眸を瞬いた誠も、私と同じように呆然と呟く。

 こんな時だというのに、兄弟なんだと再認識してしまう。

 抱いていた自分自身の否定の感情すら……兄さんと私は似ているようだった。

 胸の内を羽毛で擽られたようで、 私は下手くそな微笑を、『ふざけた奴』と呼ばれた綾人のせいにした。

  

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