第九十四話 飢餓と慟哭


―*―*―*―《 過去夢 展開 》―*―*―*――


 

 乾いた喉は、からを嚥下しても乾いたままだ。もう何日食べていないのか、途中から数えるのをやめた。段々と腹は捻じれるように訴える事すら諦めたらしい。足の裏は擦り切れる程に歩き尽くした。食べ物を乞う為に何度も何度も地面についた膝は、小傷の上に小傷を重ねて常に血が滲んでいた。砂と砂利が凶器のように、足と膝に痛みを与えるのだ。そこまでしたのに腹は満たされなくて……もう疲れた。散々自身を傷つけてきた砂と砂利に抱かれるように、遂に倒れる。砂利は乾いた唇を刺激する。いっそ、砂利でも食べてみようか。だけどそんな事をしても真の意味で満たされないのは、よく分かっていた。

 霞む視界から逃げるように目を閉じると、瞼の裏の世界は輝きで満ちていた。若葉色の光を纏う人達は、横たわるみすぼらしい少年など意に返さず通り過ぎていく。自分に必要なのは、あの若葉色の光なのに。乾いた唇は声にもならないのに、衝動的に嗚咽に痙攣する。枯れた涙は流れてもくれないから、傍から見れば堕ちた者が狂ったようにしか思えないだろう。

 母さんと父さんがいれば、今頃暖かい屋根の下で過ごせていただろうか。戻らない可能性は込み上げる嗚咽により、力を奪うばかりで何も与えてはくれなかった。瞼の裏の若葉色の光すら失われたら……本当に闇に堕ちる。いっそ、それでもいいと思う。この地獄から救われるなら。

 若葉色の光を纏う人達は自分とは違う世界を生きている。だから、自分には気づかないんだと思っていたのに……。

 こちらへ近づいてくる若葉色に輝く存在がいた。


 「腹が……減ってるよな」


 若い男の声だった。億劫な瞼を動かし、男に霞んだ視界に入れると赤茶の髪の男が目の前にしゃがんでいた。声音から、男の物腰の柔らかさが感じられた。何か答えようとするも、乾いた唇は砂を交えるばかりで不快なだけ。男は答えられない自分を起こすと、砂を払い水を与えた。乾いた喉は与えられた冷たい水に狂喜し、一心不乱に飲み続けた。やがて息をつくと、男が言った通りに腹が捻れて空腹を訴えた。一つ満たされれば、その次が欲しくなる。本能から生まれる欲は止め処無い。思わずというように、男が滅紫けしむらさきの瞳を丸くする。男は堪え切れずに笑い、抱き起こされた私の身体に振動として伝わった。男に眉を寄せる余裕すら出てきた事に我ながら驚く。


「お前は誰なんだ」


「俺か……? 比呂馬ひろまだ。お前こそ名前はなんて言うんだ」


 比呂馬は、笑うあまり涙の滲んだ目元を拭う。その問いに、自分の名前すら忘却してしまった事に気がついた。母と父の記憶と共に。その時、一羽の烏が舞い降りた。烏は目が合うと嗄れた一声で、鳴いた。


「……からす


「ん? それが名前なのか」


 比呂馬の訝しむ声に否定の言葉が喉元まで出かかったが……やめた。どちらにしても名を思い出せないのだ。これ以上問答するのは疲れる。自分が、少々面倒くさがりだった事を思い出した。溜息を吐いて何も言わずに頷くと、比呂馬は満足そうに笑みを浮かべた。


「なら烏……一緒においで」


 怠惰である自分は、比呂馬の言葉にもう一度頷いた。だが比呂馬の包み込むような微笑に、懐かしい安寧を感じたのだった。


 それから、比呂馬と共に過ごすようになった。何もしなくても、三食を与えてくれる。変わった男だ。普通なら、働けと頭を叩かれてもおかしく無いのに。

 比呂馬が変わっている所はそれだけでは無い。比呂馬は、夜中に自分が寝静まったのを見に来るのだ。気になった私は薄目で、比呂馬が襖を閉めて暫し経ったのを確認し、僅かに襖を開ける。漏れ出る光の向こう……和紙を咥えた比呂馬が、刀を打ち粉で手入れしている。蝋燭の燈を刀身が反射し、閃光を放った瞬間……背筋を冷たい物が這い、息を呑んだ。まるで、山姥が子供を喰らう為に下準備をしているようで。

 しかし実際に私が殺される事も、まして喰われる事も無く、ただ平穏な日々は過ぎていく。このまま、比呂馬と過ごすのも悪く無いかもしれない。父と母が居ないという事以外、何も思い出せないが……比呂馬のくれる温かさは、孤独と飢餓に追い込まれて凍っていた私の心を溶かしてくれた。お調子者の比呂馬はおどけて、いつも私を笑わそうとしてくるから、いくら怠惰で口数少ない自分でも、吹き出さずにはいられなかった。

 だが、何時の日も平穏というのは長続きしない物なのだと、私は知る。比呂馬は……病を患っていたのだ。私を笑わそうとしてきた比呂馬だから冗談だと思いたかったが、身の内に巣食う闇は、私の瞼の裏にはっきりと視えた。


 痩せ衰えた比呂馬は、出会った頃とは全く別人のようだった。皮膚も白目も黄色みを帯び、鳩尾みぞおちが焼けるように痛むという。あれ程大食漢だった比呂馬が、食事も満足に食べられないのを見ると、胸が締め付けられるように傷んだ。私は時々、比呂馬の身体を拭いてやったが、腕に傷があるのを見つけて目を逸らした。古傷の上に何度も傷が重なっている。人には誰しも言えない事がある。それは病に身を削られ、虚ろなまなこを閉じた比呂馬であっても同じ……そして、唇を噛んだ私も。


「比呂馬……死んだら許さないからな……! 」


 私は比呂馬の病が治るように、肺が痙攣する程慟哭し何度も神に願った! 行き場を無くした孤児が、比呂馬という最後の居場所へ本能的に縋っていただけかもしれない。神はそんな自分を嘲笑うように、願いを叶えてはくれなかった。

 だから……恐ろしくて視つめる事が出来なかった、比呂馬の闇に向き合った。最後の手段だ。今まで闇に触れた事は無い。触れてしまえば……私も深淵へ呑まれて、死よりも深い虚無を彷徨う事になるかもしれない。濃厚な死の気配を纏う闇は、必ず怖気を与えてきたから。鈍痛を喰わされたように、臓器が恐怖に悲鳴を上げる。だがこのままでは私も何れ死ぬ。比呂馬のように、物好きな人間などう居ない事は、足が擦り切れる程歩いても、死にかける直前まで見つからなかったからよく分かっている。

 どうせ死ぬならば、命の恩人にこの命を捧げてから死のう、と溜息に似た絶望で意思を固める。私は瞼を閉じ、恐怖で冷えた指先で……眠る比呂馬の闇に触れた。


 闇の手触りは思った以上におぞましい。皮膚の下へと這いずるように、私の体温を貪欲に喰らおうとするくせに、どろりとした虚無という器に引き摺り込もうとするのだ。私は闇を否定するように、自身の若葉色の光を照らした!


 比呂馬を覆っていた闇は……若葉色の光に打ち震えるように引いていった。瞼を開けると、信じられないように眉を寄せ、滅紫のまなこを見開く比呂馬と視線が絡んだ。私は……比呂馬が助かったというのに、胸の奥から抑え難い情動が湧き上がり目の奥が染みた。


「……お前が助けてくれたのか」


「そう、らしい」


 それ以上比呂馬に言葉を継ぐ事が出来ず、私は胸を突き上げる歓喜のまま……比呂馬を掻き抱き、この世に生を受けたばかりの赤子のように声を上げて泣いた。比呂馬はまるで父親のように……私が泣き止むまで背を撫で続けてくれた。





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