第七十一話 礎


「初めて鬼憑りをした時に、玲香さんから私へ受け継がれた青ノ鬼の魂は、意識の深くに宿ったの。それから私は青ノ鬼と意識内での交渉が出来るようになった。青ノ鬼は人に好意的な妖で、しかも一部人でもある存在だけど……やっぱり畏怖すべき妖なんだと思う。目的は理解できても、彼の本当の考えは、私には分からない」


 美峰から見た青ノ鬼の印象と、私から見た青ノ鬼の印象が乖離していると思った。人だって、相手により態度を変える二面性を持っているのだから、妖となれば尚更だろう。誰にでも優しいわけじゃないと告げた彼の一面は、私にとっては本質のように思えた。だが美峰にとっての青ノ鬼は、自身の内の一部を保有する支配者であり、境界線を揺るがす存在でもあるのだ。


「美峰からに身体を奪う事は出来ない、とは青ノ鬼は言っていたけど。逆に言うと一時的にであれば強制的に入れ替われる……そう言う事だよね」


 私は問題の本質がようやく見えてきて、瞼が強張り瞠目する。美峰は青ざめた顔で顔を歪ませ、自身を守るかのように肩を抱く。その姿に私は、内側が鋼線ワイヤーで縛られたようにキリキリと傷んだ。


「そう。入れ替わりが、カードの裏を返すかのように安易になっていくに連れて、鬼憑りしている時の薄らとした記憶すら無くなっていった。……多分私は身体の一部の権利を既に失っている。だから今までの青ノ巫女姫達は、弐混神社の神楽殿以外では決して、鬼憑りしなかったんだと思う。青ノ鬼が好意的だから……私が気を許してしまったせい」


「その権利は、取り戻せないの? 」


「たった十七年しか生きていない私の考えなんて、青ノ鬼には澄んだ川底を覗き込むより明瞭に見えている筈。吊り橋から眼下を見下ろすように、青ノ鬼の一部の記憶を見せてもらったから分かる。そこには以前の青ノ巫女姫達の記憶もあって……何時か私も青ノ鬼にとっての過去になったら記憶の川底に沈むのかもしれない」


「……綾人は知ってる? 」


 美峰は肯定とも否定ともつかず、俯く。


「直接言ったわけでは無いけど、勘づいているかもしれない。だけど、綾人には言いたくないの。私が青ノ巫女姫になったのは自分のせいだって、これ以上悔いて欲しくない。……違う。後悔の結果、綾人が私から離れる事を選んだら、と思うのが怖いんだ」


 美峰が明るく振舞っていたから、尚その影に気づいてあげる事が出来なかった。私は一体何を見てきたのだろう。それとも……私が鳥籠の中で孤独に怯えて罪を隠し続けてきた様に、智太郎が地下牢で私に告げられない想いを抱いてきた様に……皆、影の形を心の内に秘めているのだろうか。


「私が青ノ鬼を説得する事が出来れば、美峰の権利を取り戻してあげられる筈」


 だが、美峰は首を横に振る。


「それは無理だと思う。これは私の内側の問題だから、青ノ鬼が千里ちゃんの事を特別視していても、外部からは変えられない。大切な人に自らの心臓を渡したら、その人にはもう会えなくなってしまうでしょ」


 真っ直ぐな美峰の瞳で貫かれたように、私は動けなくなる。まるで鬼憑り時の記憶があるように美峰は言った。私が己穂である事を知っている? だが、そんな筈は無い。鬼憑り時の記憶を覚えているならば、彼女自身の影が濃くなる事は無かったから。


「……美峰は、青ノ鬼と私に何があったか知っているの? 」


「正確には知らないかな。だけど、分かるよ。言動や、意識内でのちょっとした表情で。……こういう事は察せるんだけど。青ノ鬼に勝てる所、合ったね」


 青ノ鬼と違って混じり気の無い、陽光のようなその笑みは、私が美峰に支えられてきた物だった。私が美峰にしてあげられる事は本当に無いのだろうか。青ノ鬼との約束の一つを、交渉に使えばもしかして……。


「千里ちゃん」


 私が寄せてしまっていた眉を戻す為に、美峰は私の眉間にそっと触れる。美峰は、子供を諭す様に優しく微笑する。


「千里ちゃんの大切な物を犠牲にしてまで、私が助かるのは違うかな。弱音を吐いちゃった私のせいでもあるけど……知ってもらえるだけで、私は良いの」


 美峰の瞳には、雲間から降り注ぐ光芒が宿ったかのように僅かな希望が戻っていた。


「……本当に、私が美峰にしてあげられる事は無いの? 」


 私が自責の念に駆られても、美峰の瞳は揺らがなかった。


「ごめんね。でも、見守ってて。一人で抱えてる訳じゃないって思うだけで、自分を保てるから。……千里ちゃんだから、私も言えたんだと思う」


 私は結局、美峰の戦いを見守る事しか出来ない。智太郎や綾人のように実際には戦うことは出来ないが、私にも自分の戦いがある。だから私は……今も自らの内側で抗い続ける美峰を抱きしめた。


「千里ちゃん……? 」


 震える身体の内で、怯える心は確かに美峰の物だった。


「私には、こんな事しかしてあげられないけど……私は美峰の味方だから」


 いつも私は誰かに助けられてきた。その分、ほんの少しでも誰かを支える事が出来れば。私に、同じ言葉を告げてくれた智太郎のように。美峰は肩を震わせ、抑えるように嗚咽を漏らす。抱きしめた身体から伝わる耐えるような痛みは、美峰が自らの内で抗い続ける証だった。涙が頬の跡になったら、一人で前に進まないと行けないのであれば……今が礎になればいい。


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