第五十五話 甘い痛み



 父様の元へ、癒刻に鴉を探しに行く事について、説得しに行かないといけないが……私は己穂の刀を父様から貰わないといけない。父様との約束があるから……己穂の手記については、智太郎には言えない。私の前世が己穂であり……だから鴉は私に執着しているのかもしれないと言うことも。鴉と桂花宮初代当主である己穂の関わりを知られてはならないから。だが、前回父様の元へ話に行った時も、守り人であるはずの智太郎は同席できなかった。いい加減不審に思われているだろう。私の部屋でこのまま待っていて欲しいと告げると、予想通り……智太郎は腕を組みこちらを不服そうに睨んでいた。


「守り人如きじゃ、知られてはいけない事があるのは分かる。だが、今回は違うはずだ。当主を説得するなら、俺が居た方が好都合だろ」


 私はどんな顔をしていいか分からず、俯くしか無かった。畳の縁が目に入り、怒られているような気分になる。


「父様と、一度きちんと話をしておきたいの」


 自分でも分かる程明らかな嘘だったから、智太郎は返事をしなかった。私は父様を避けて来た。必要に駆られなければ、会おうとした事は無い。きっと、傷つくのが怖かったから。自分を恨んでいるはずの父親に期待するのが。 前に話した時は、私を心配してくれているのが分かったけど……本心は私の事をどう思っているのか、知るのが怖い。だから、私が本当に父様に向かい合う気なら 、臆病な私は絶対に智太郎を連れて行くだろうから。


「千里は……俺に隠している事を、本当に言うつもりは無いんだな」


 心臓に凍てつく針を刺されたようで、私は顔を歪める。隠している事は……己穂の事だけじゃない。私を初めから切望していてくれた智太郎だからこそ……死の運命から解放し、共に生きる未来を手放すと私は決めたのだ。……これ以上大切な智太郎から何も奪いたくないから。だけど、今はまだその時じゃないと、私は言い訳する。智太郎が生き続けられる方法を見つけられていない。卑怯だけど、まだ共に生きていたいから……咲雪を殺した罪はまだ告げられない。視界がふらつく。歪んだ畳の縁を見つめたまま、何も言えない私の頬と顎に智太郎は触れて、見上げさせる。

 視線が交差した先……障子戸の隙間から、雪の白を反射した光が智太郎の瞳に吸い込まれた。白に帰ろうとするかのように、雪の結晶のような睫毛を煌めかせる。私の瞳を映し、金の光を纏わせた花緑青の瞳は、僅かに細められ、こちらを優しく見つめていた。智太郎は怒ってなんかいなかった。唇は痛みを飲み込んだような切なさで震えながら……それでも微笑んでいた。智太郎の微笑みから……目が、離せない。


「隠したままでも良いって言ったら……お前はどうする? 」


 私は瞳孔が揺れるのが、自分でも分かった。智太郎が、私を事実から逃がそうとするなんて、思っていなかったから。智太郎はいつも正しくて、真っ直ぐで。こんな風に、痛みを飲み込んでまで、逸れた道を選んだりなんかしなかったのに。


「……俺は千里から離れたりなんかしないけど、お前が俺を信用できないって言うなら、それでもいい。俺と一緒に生きてくれないか」


 息が止まってしまいそうだった。

 今、私はちゃんと立っている?

 まるで現実感が無いのに、確かに私の指先は震えていて、智太郎の暖かな両手が私の頬に触れている感覚がある。金の光を纏わせた花緑青の瞳も、消えてしまったりしない。夢、みたいなのに。

 智太郎は私に……本当の恋人になって欲しい、と言っている。


「……さっきは嘘だと思ってたのに」


「馬鹿。あいつらの前で言えるかよ」


 恥ずかしそうに頬を染め苦笑する智太郎を見つめていると……愛しさで、心臓が壊れてしまいそうな強い鼓動を始める。私は、言ってはいけないはずの言葉を伝えてしまいそうになる。痺れるように痙攣する唇を噛む。私は……。


「智太郎を助けられる方法を見つけたら、隠している事全部……伝えるよ。それでももし、智太郎が私と一緒に生きてくれるなら、私も生きたい」


 今、私が伝えられるのは、これで精一杯だった。

 智太郎に秘匿している罪を伝えたら、きっと智太郎は私を恨む。私が智太郎を誰かに殺されたら、私はその誰かを絶対に許さない。だから、未来が変えられないのは分かっている。

 ……それでも智太郎が私を望んでくれるのならば。私も、智太郎を望んでもいい? 許しを望むなんて、最後まで私は、卑怯者だ。頬に触れる智太郎の暖かな手に触れると、勝手に視界が滲んだ。智太郎はそれでも、私を真っ直ぐに見つめて、肯定するように綺麗に微笑んだ。


「ああ……それでいい。お前は俺を信じていればいいんだ」


「智太郎は、悪い子を好きになっちゃったんだね」


 私は罪悪感を覚えて自嘲する。綺麗な強い瞳は……本当は私が捕らえてはいけないものだった。


「好きになったやつが、たまたま臆病なやつだっただけ。千里だから、好きなんだ」


 頬に触れる智太郎の掌から伝わる確かな想いに、私は目を閉じて口付けをする。言葉だけじゃ、智太郎にこの気持ちを返しきれなくて。


「……またお前は、そういう事を突然する……」


 目を開き智太郎を見つめると、どうやら頬を赤らめたままフリーズしてしまったようだった。だが、掌に口付けする私と視線が絡むと、潤んだ花緑青の瞳は耐えきれないように、細められた。そのまま、私は智太郎に引き寄せられる。智太郎のふわふわとした白銀の髪が耳元を擽る。私を包むレモングラスの香りと体温に抱きしめられたのだ、と気がつく。智太郎の鼓動が、伝わる。


「千里は、俺に全部をくれるって言ったよな」


「言ったけど……」


 地下牢で私が告げた言葉を言っているのだろう。

 あの時は無我夢中で……だけど間違いなく本心だった。


「お前、あれどういう意味か分かってるんだろうな」


 意味も何も……言葉の通りだと思う。私は、望むなら智太郎に命だってあげられるのだから。


「そのままの意味、なんだけど」


 智太郎は何故か深く溜息をつく。説明しないと駄目なのか……と葛藤しているようだ。一体何を?


「……妖は血肉を得ずとも、愛する人からならば生力を得られる。意味、分かってんのか」


 私はようやく智太郎の言いたい事が理解出来て、顔から火が出そうになるほど頬が熱くなる。確かに、命はあげれる……! 覚悟はあるけど、自分自身がついていけないと思う。男女の仲、については。


「智太郎は……そういう事がしたい、の? 」


 私は小鳥の心臓のように、脈動する鼓動のまま、智太郎に問いかける。抱きしめられているから、顔を見られていなくて本当に良かったと思う。


「……今の顔見てたら、絶対に駄目だった」


 震える声と手が、抱きしめられた身体に伝わる。

 どうやら、智太郎も思っていた事は同じだったらしい。

 幼なじみだけあって、変な所、息が合うみたい。


「……したくないかと言われたら肯定だけど。別にお前が望まない事するつもりは無い。……地下牢だって、お前は震えていたから」


 あの時、智太郎は妖の本能に取り憑かれていたはずなのに、私の事を思い出してくれた。今まで私が無意識に智太郎が妖であることに、目を背けてきた結果……暗い地下牢に事実を閉じ込め……智太郎を追い詰めてしまったのに。


「その……でも、智太郎は今まで地下牢で、血を得てきたんでしょ。もう、あんな事して欲しくないって思うよ。だから……大分勇気は無いから……程度はあるけど……。私はいいよ。智太郎の事……好きだから」


 羞恥で震えているのは私の方。そんな事しても震えは止められないって分かってるのに、誤魔化すように智太郎の背に手を回し、抱きしめる。智太郎の肩に顔を埋めた。

 暫く経っても、智太郎の返事は無かった。まさか聞こえなかった? 勇気を出して言ったのに、もう一度言うなんてハードルが高すぎる!


「……後悔しても、遅いから」


 緊張して、智太郎をしがみつく様に抱きしめていた身体を引き剥がされ、再び智太郎と向かい合う。

 智太郎の潤んだ花緑青の瞳に浮かぶ、鋭い刃で切り裂かれたような痛みが常に染みていくのに……痺れるように甘く溶けていくような感情が、今なら分かる。私も同じ感情に瞳が揺れているに違いないから。だから私は、唇を歪めて笑う。


「私は後悔なんてしない。後悔するなら、それは……智太郎の方だよ」


「……お前、俺に喧嘩売ってるみたいだな」


 苦笑しながら、私の両手に智太郎はゆっくりと指を絡ませる。手首をなぞり、震える指先を捕らえて重なる熱に、私は吐息とともに、堪えるように眉を寄せてしまう。


「智太郎に……私がかなうわけないでしょ」


 今だって、智太郎からは逃げられない。

 私を捕らえるように絡ませられた硬い掌からも……私の視線を離さない、潤んだ花緑青の瞳の中に宿る、溶かしてしまいそうな甘さが絡む強い切望からも。

 

「俺はずっと千里の全てが欲しかった。だけど……心が手に入らないなら、意味なんてない」


 智太郎は優しく私を押し倒す。私の髪が畳に広がり、辛そうに微笑む智太郎が私の視界を支配すると……ああ、これは現実なんだな、と理解する。


「だから、本当の恋人同士になるまでは……これ以上は望まないから」


 固く閉ざした地下牢の扉から、熱情が決壊したような吐息を纏う濡れた舌が、白銀の毛先と共に擽るように滑らかな首筋を辿る。あの恐怖の代わりに感じたのは……捕らえられた幸福だった。

 切望が宿る花緑青の瞳は、その閃光で私を一瞬惑わせた。その唇は、私の想いを叶えたように震える唇を捕らえ、想いと身体の境界線を曖昧にする。熱情を纏う濡れた舌の感触同士が絡むと、切望が溶け合った。胸元から腹の底に言い知れぬ痺れが支配する。鋭い痛みが染みていく甘やかな熱情は……今なら同じものを感じてると確信できる。


「どんな血よりも……お前の口付けの方が俺には甘いんだ」


 口付けの合間。吐息と共に囁かれた言葉に、私は胸を焦がされ……甘い痛みが滲む様に、孤独な心の器へ満ちていった。




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