第4話 魔女に恋する者
◇
「ん……」
深い夢のなかから、ゆっくりと目を覚ます。ふわり、と甘い蜂蜜の香りがした。
まつ毛を震わせながら瞼を開ければ、うっすらとした橙色の明かりが飛び込んでくる。その光を遮るように、黒い影が私に手を伸ばした。
「起きたか、ジゼル」
聞きようによっては冷たい響きのあるその声は、アルフレートのものだった。長い指先が私の髪をかき分けるようにして頭を撫でる。
「ずいぶん長く眠っていたから心配した。……アディ卿のやつ、ちょっと眠るだけだって言ってたのに」
私に薬を盛ったことを隠しもしない彼の態度に、ぞわりと寒気が走る。体にかけられていた薄手の毛布を引き寄せながら、ゆっくりと体を起こした。
「どうして……こんな強引なことを? ここはどこなの? 別邸?」
「ここはベルテ侯爵家の別邸だ。……俺たちだって穏便に済ませたかった。でも、このくらいの手を使わなければお前は王都から離れようとしなかっただろう?」
アルフレートが寝台に片手をついて、私との距離を詰める。私が眠る部屋の中は品のよい調度品で丁寧に飾られていて、私をぞんざいに扱う気がないのはすぐに伝わってきた。
「……私が王都から離れたら、祈りの歌を歌えないわ。加護が薄れたら、王国が危険に晒されるのよ?」
「それがどうしてお前を王都に留める理由になるんだ?」
アルフレートは心底不可解だと言わんばかりに、眉を顰める。言い返そうと開きかけた唇から、何も言葉が出てこなくなってしまった。
「王都の碌でもない奴らなんて忘れて、ここでゆっくりしよう。リアンもアディ卿もいるんだから、お前にとっても悪い話じゃないだろう。お前の望むものはすべてここにあるはずだ」
アルフレートの手が、ゆっくりと私の髪を撫でる。いつもなら触れられるだけでたまらなく嬉しくなるのに、今は心が凍りついていくような感覚を覚えるばかりだ。
思わず怯えるようにアルフレートを見上げれば、獣のような金の瞳に愉悦の色が混じった。
「ほら、さっきリアンがお前に紅茶を用意したんだぞ。蜂蜜が入っているらしい。飲むか?」
サイドテーブルには、繊細な花模様が描かれたティーカップが置かれていた。なんとなく今は飲む気になれず、言葉もなく首を横に振る。
「そうか? じゃあ、飲みたくなったら言え。また淹れてくるから」
それだけ言って、アルフレートは再び私の髪を撫でた。銀の髪がこぼれ落ちる感触を楽しむように、指先で弄ばれる。
……どうしよう。絶対にこのままじゃいけないわ。私が王都を離れるわけにはいかないのに。
しばらくそうして撫でられていると、ノックの音が響いた。入室してきたのはお義兄さまと、騎士服の上着を脱いだレアだった。
「ジゼル……! 目覚めたんだね」
お義兄さまが心底安心したように息をついて、私のそばへ歩み寄ってくる。レアもそれに続くようにして、寝台のすぐそばで姿勢よく立ったまま私を見た。
「すみません。ごく少量の薬のつもりだったのですが、ジゼルには強かったみたいですね。次があったら気をつけます」
レアは新緑の瞳を細めて柔らかく笑った。悪い冗談にも程がある。
「お義兄さま……お父さまとフローラはどうなったのです? 今も王都の屋敷にいるのですか?」
ほとんど喧嘩別れのようになってしまったフローラのか弱い姿と、お父さまの意思のこもった瞳を思い出す。あの屋敷にとどまるのはどう考えても危ない。
「大丈夫。あのあと彼らは伯爵家の別邸に向かったよ。王都の屋敷はもぬけのからだ」
「そう……それならよかった」
これで身の安全が確保されたわけではないだろうが、それでも多少は安心できる。ほっと息をつきながら、もう一つの懸念事項について口にした。
「レア……どうしてあなたまで私をここへ連れてくることに賛同したの? 聖騎士のあなたが、聖女である私に義務を放棄させるなんておかしな話だわ。私が王都から離れたら加護が弱まってしまうのに」
「それについてはご心配なく。ジゼルがここにいる間に、私が王都で片をつけてきます。『聖騎士である私が忌まわしき妖花の魔女を殺した』と触れ回るつもりです」
「……私を、殺したと?」
レアは、わずかに唇を歪めて続けた。
「アディ伯爵家の次期当主である私が言えば、ある程度効果はあるでしょう。妖花の魔女の死の知らせが広がれば王都は落ち着く。ひとまずのジゼルの身の安全を確保した上で、アディ伯爵家の庇護下のもと戻ってきてもらおうと考えております」
「でも……王家に歯向かったらフローラの薬が手に入らなくなるわ」
「メルエーレ伯爵に確認したところ、その点は心配ないとのお話でした。この局面を乗り越えられる程度の備蓄はあるそうです。あなたが王都に戻るときには、あなたの存在を取引材料に今度はこちらから薬草の提供をもちかけます。それに、わたしとベルテ侯爵令息の伝手で安定した量を手に入れられる見込みもあります。……できれば、次の祈りの歌の日までにすべて済ませたいところです」
「そう、なの……? それじゃあ、どうしてあんな強引な手段を……?」
「ああでもしなければ、ジゼルは王都を離れようとしなかったでしょう? お話ししようとしても、聖女の義務を優先させるばかりで、あなたは頑なでしたから」
レアは小さくため息をついて、わずかに頬を緩めた。嘘をついているようには見えない。私も彼女につられるようにしてほっと肩の力を抜く。
……なんだか、大袈裟に心配して損してしまったわ。
アルフレートの言い方だと、まるでずっとここにいなければならないように聞こえた。あんな紛らわしい言い方をするなんて、また私に意地悪をしたのだろうか。
思わずアルフレートをきっと睨めば、彼は悪戯っぽく笑ってみせた。
「そう睨むなって。久しぶりにお前の怯えた顔が見てみたくなっただけだ」
「最低……」
「今更だろ。俺をこうさせた原因の半分は聖騎士どもにあるんだから、アディ卿にも文句を言ってくれ」
「聖騎士のせいにするんじゃない、アルフレート。君は昔からジゼルに意地悪を言って楽しんでたじゃないか。僕からしてみればまったく理解し難いことだよ」
お義兄さまが呆れたようにアルフレートを見やれば、彼は小さく声をあげて笑った。お義兄さまのお咎めなどすこしも気にしていないようだ。
「……ジゼル、本当にベルテ侯爵令息が婚約者でいいのですか? あなたの義兄上のほうがよほどマシに見えますが……」
レアが冗談なのか真剣に言っているのかよくわからない表情で耳打ちしてくる。なんだかおかしくなってしまって、思わずくすくすと笑い出してしまった。
「もう……みんな本当に仲良しね」
「そんなことない。ジゼルで繋がってるだけの関係だ」
「素直じゃないなあ、アルフレート」
「本当に。拗らせてますね」
口々に言いたいことを言い終えると、場の空気がふっと和らぐのを感じた。四人で過ごすこの時間がたまらなく好きだ。
……この先私がどうなろうとも、この関係は大切にしていたいわ。
願いを込めて、自らの指先をぎゅっと握り込む。その祈りを汲み取るように、レアはすっと真剣な眼差しを私に向けた。
「ジゼル……私は王女が亡くなったら、あなたを本物の聖女として公表したいと考えています」
「私を……聖女として公表……?」
思っても見なかった展開に、思わず目を瞬かせる。レアは長い睫毛を物憂げに伏せ、ゆっくりと頷いた。
「……王女の怪我はかなりのもので、残念ながらもう、そう長くはないと思われますので。それまでに私たちで薬草の件や王家との因縁には片をつけてみせます。」
レアの新緑の瞳が、私を射抜く。決意の滲んだその言葉に心を動かされていると、アルフレートが静かな声で続けた。
「ジゼルが望まないのなら、もちろん別の方法を考える。ただ……王都の騒ぎを鎮めるためにいちど『ジゼル・メルエーレは死んだ』という噂を流す以上……今までにあったことをすべて打ち明けて、お前を聖女として迎えたほうがいい。俺は……お前に死んだように生きていて欲しくない」
アルフレートも真剣だった。金の瞳は力強く私を見据えている。彼がいれば私は大丈夫だと、そう思えるまなざしだ。
……私の知らないところで、私のことを深く考えてくれていたのね。
まっすぐに想いをぶつけられて、気恥ずかしいような嬉しくてたまらないような気持ちでいっぱいになる。
私の大切なひとたちが――アルフレートやレアが私に表舞台で胸を張って生きていて欲しいと思ってくれるのなら。
……それなら私は、名誉のためではなく、彼らの祈りに応えるために聖女になりたいわ。
ただ、と大きな懸念が脳裏をよぎる。視線は自然とお義兄さまのほうへ移っていた。
……お義兄さまは、きっと違う想いなのよね。
彼は、私が聖女であると知られるのを嫌がっているそぶりがあった。この話に賛成だとはとても思えない。
それをどう切り出すべきか迷っていると、お義兄さまは私の疑問を察したのか、どこか儚げに笑って頷いた。
「ジゼル……僕のことは気にしなくていい。……君が聖女として公表されるまでの間に、僕も僕の抱える事情をどうにかしてみせるよ」
「お義兄さま……」
お義兄さまの抱える事情とは、いったいなんなのだろう。それは今もまったくわからないままで、何かを諦めたように儚げに笑うその姿に不安が膨らむばかりだ。
「……どうか私の知らないところで、傷ついたり苦しんだりしないでくださいね、お義兄さま」
祈るようにお義兄様の手を握れば、彼ははっとしたように目を瞠った。私とお揃いの薄紫の瞳が、戸惑うように揺れている。お互いの気持ちを絡め合うように、じっと彼の瞳を見つめ続けた。
手を握りあう私たちの横から、苦笑混じりの声がかけられる。
「そうだな、お前に何かあったらジゼルが悲しむだろうから、どうにもならなくなったら言うといい」
「私に力になれることがありましたら、なんなりと。主の大切なひとは、私の大切なひとですから」
ふたりとも、私に優しくしてくれるようにお義兄さまにも優しい。彼らにとっても、お義兄さまがかけがえのない仲間なのだろう。
「主人の大切なひとは、私の大切なひと、ねえ? その理論でいくと、俺にはもうすこし優しくなってもいいんじゃないか? 聖騎士殿」
「自惚れも大概にしてください。婚約者だからと言って図に乗りすぎです」
またしても言い争いを始めるアルフレートとレアを横目に、そっとお義兄さまの様子を伺う。彼はいつものように柔らかく微笑んでいたが、その横顔は今にも泣き出しそうに見えた。
「……お義兄さま?」
「困るなあ……。君たちといると、未練ばかり増えていくよ」
あまりに意味深で不吉な一言を呟いて、お義兄さまはなんでもないように笑った。
何がそこまでお義兄さまを追い詰めているのかと、今度こそ聞き出そうと口を開きかけるも、お義兄さまが言葉を切り出すほうが早かった。
「だから、そう簡単に僕は終われないな。代わりに、僕の抱える事情を終わらせにいく」
お義兄さまもまた、意思のこもった瞳で私を見た。不思議と、今まで見たお義兄さまのどの瞳よりも生を感じる。
「すべて終わったら、きっと話すよ。……僕が生まれた意味も、君に出会ったわけも」
お義兄さまは、慈愛の滲んだ笑みで、私の頬をそっと撫でた。
薄紫だと思っていた彼の瞳が初めて、本当の色を覗かせた気がした。
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