第62話 世界最速
野球における観客や視聴者の、最大の快楽物質分泌の瞬間は、ホームランであるという。
だが今、それに待ったをかける光景が出現している。
上杉のストレートに、バッターがスイングすら出来ず、そして球速が表示される。
105マイルの球速は、上杉にとっては普通のこと。
しかしこれが初回から見られるのは、アメリカでは初めてのことである。
NPBとMLBの上位100人のピッチャーの球速を比較したデータがある。
それを比べると明らかに、MLBの方が平均球速は速い。
比較したデータが去年のもので、上杉の異常値が抜けていたこともあるが、それでもやはりMLBの方が速い。
150km/h台後半の速度で、手元で動くボールを投げるピッチャー。
そんな集団の中にあっても、なお上杉のボールの速度は突出していた。
誰もバットにかすらせることすら出来なかった上杉のボール。
その威力は間違いなく、スタジアムの空気を変えた。
おそらく試合が始まるまでは、不安を持っていたメトロズファンは多いだろう。
第五戦のパーフェクトの影響は、アメリカ全土で共有されていた。
アナハイムが勝つ。
去年のエキシビションと同じく、メトロズをパーフェクト。
世界最強のバッターをも打ち取った、世界最強のピッチャーのいるチームが、順当に優勝するべきだ。
そういう感情は確かにあっただろう。
それに待ったをかけたのだ。
誰が、誰を、世界最強と認めたのか。
上杉は直接対決で、はっきりと直史に負けたことはない。
成績の上でも、また獲得してきた栄光でも、直史と遜色はない。
たとえば甲子園で勝利投手となった数は、直史よりも倍以上は多い。
沢村賞も歴代で完全に単独の、七年連続を含む九回受賞。
沢村賞ではなく上杉賞にした方がいいのでは、という声さえあったほどだし、おそらく沢村賞ほどではないが、なんらかの賞の名前にはなってもおかしくない。
直史がいなければ、あるいは最初からナ・リーグで投げていれば、今季はクローザーながらサイ・ヤング賞を取っていただろう。
そしてリーグが違うためタイトルは取れないことになってしまうが、シリーズ最多の記録には名前が残る。
63セーブ無失点。
その上杉が、二回の表のマウンドに登る。
アナハイムの四番の坂本。
MLBの日本人選手は、今ではほとんどNPBを経由して、MLBにてデビューしている。
なぜならそれが育成環境的にも、経済的にも有利だと分かっているからだ。
そんな中で例外的に、高卒後に海を渡った坂本。
マイナーからメジャーへ、難しいキャッチャーとして到達した選手。
上杉はキャッチャーに対する敬意は忘れない。
高校時代は年下である樋口に、三顧の礼で招いたものだ。
もっともその件については、上杉でさえも思い出したくない、粘りついた事件が関わっている。
人の社会の闇の一端。
政治の世界に入るなら、それを食らうだけの胆力が必要になってくる。
そのキャッチャーである坂本は、左バッター。
ほんのわずかであるが、上杉のボールを見やすい条件にはある。
ショートの位置から大介は、この曲者には注意を払っている。
(ナオからホームラン打ってるしな……)
大介としてはそれだけで、警戒の対象になる。
それに普通に、勝負強さを持っているバッターでもあるのだ。
おそらく一点に読んで、そこを打ってくる。
そしてその読みの精度が、半端ではない。
そう大介は思っていたのだが、初球も第二球も、坂本は手を出さない。
完全にこの打席は捨てて、上杉の球を見極めようとしているのか。
それはそれで正しい選択か、と大介は微妙な気がする。
ただそれは大介と坂本の、チームの中でのバッティングの期待値の差からくるものだ。
メトロズは大介が打てなければ、もう他のバッターも打てないと思ってしまう。
それに対して坂本は、意外性の男だ。
四番に座りながらもセーフティバントで、得点を取ったりする。
あるいはこの上杉の三球目に、スリーバントをしてくるかもしれない。
もし上手くサードの横を抜いてくるなら、自分が拾ってアウトにしてやる。
そう考えていた大介であるが、マウンドの上の上杉の気配が変わる。
ああ、これが上杉だな、と大介は思ってしまう。
ストレートを投げるぞと、全身の気配で示している。
打てるものなら打ってみろ。
これで自分の力は、引き出されたものである。
坂本がこの打席をどう考えているかはともかく、この誘いを跳ね除けることは難しい。
バッターなら反射的に、これには勝負してしまうだろう。
もちろん上杉は普通に、騙すでもなくストレートを投げる。
果たしてそれを、打てるかどうかが問題なのだ。
大介は打った。
坂本はどうか。
上杉がゆったりとした構えから、高く足を上げる。
力強い踏み込みから、指先へと力が伝わってくる。
坂本がわずかにトップを作った。
上杉のストレートに反応して、スイングをする。
次の瞬間に起こったことは、一瞬意味が分からなかった。
坂本のバットが爆発したように見えたのだ。
だがそれはボールの勢いによって、バットが折れたために見えた現象。
実際にはボールは、ファーストの方へと転がっていった。
坂本は己の手を見て、走り出すのが遅れている。
もっとも走ったとしても、さすがにファーストゴロであうとであったろうが。
通常の素材より、重くて硬い大介のバットでも、上杉のボールは破壊したのだ。
おそらく坂本のばっとは、普通のばっとであろう。
やや細めの長距離打者用のバットは、上杉のボールに耐えられなかったと思われるだろうか。
実際には素材や形状ではなく、インパクトの瞬間の状態が重要なのだが。
ともあれ三振以外のアウトとなったが、これはこれで観衆を湧かせる。
ボールを受け取った上杉は、そこからまた三振を奪っていく。
二回の表を終わって、坂本以外は全員三振。
これはまたもう、直史とは違う意味で、人間をやめている投球内容だ。
いや直史の場合は、投げているボール自体は、充分に人間の範囲内ではあるのか。
大股でベンチに戻る上杉に、大介は千年物の大木のような安心感を抱く。
これまでにオールスターや世界大会で、上杉の背中を守ったこともあるし、それこそクローザーで投げるバックを守ってきた。
だがそれらとは全く違う安心感が、今の上杉からは感じられる。
(舞台が変われば、感じる力も変わるのかな)
大介もそうであるし、直史もそうであるように。
大舞台であればあるほど、その発揮する力は強大になる。
上杉の力の解放を、全世界が見ることになる。
二回の裏のアナハイムに先取点はなく、そして三回の表も上杉は、三振を奪っていく。
坂本以降はやや緩急や変化球を使っていくのだが、160km/hオーバー、つまり100マイルオーバーで手元で動く球など、普通に考えて打っていくことは出来ない。
三回の表まではパーフェクトで、しかも八奪三振。
同じ極限に近いピッチャーであっても、ここまで違うものなのか。
三回の裏、ツーアウトランナーなしから、大介の二打席目が回ってくる。
バッターボックスに入る体が軽い。
一打席目も調子が悪いわけではなかったのだが、今はさらに重石が取れたような気がする。
(上杉さんは、本当に違うな)
直史のバックも、高校時代はずっと守ってきた大介だ。
その鋭い緊張感を伴ったマウンドは、相手のバッティングをとことんまで窮屈にさせるものであった。
直史が切れ味鋭い日本刀なら、上杉は百年物の丸太と言おうか。
振り回せば人間はおろか、城壁でさえ壊してしまいそうだ。
アナハイムの先発スターンバックには、大きなプレッシャーがかかっているだろう。
上杉が最後まで投げるかどうかはともかく、投げている間はまともに点は入らない。
ロースコアゲームとなる。
ただスターンバックは第二戦を投げていて、七回二失点ながら、敗戦投手になっている。
そもそもその時も、最後にクローザーとして投げたのが上杉だったのだ。
対戦するピッチャーの器次第では、上杉は攻撃にまで影響を与える。
直史によって萎縮させられていた打線は、明らかに戻ってきている。
そしてスターンバックは、逆に腕が縮こまっている。
大介の打ったボールは、センターの頭を越えてフェンスを直撃。
それでもまだスタンドに届かないあたり、万全とは言いがたいのか。
二打席連続ツーベースでは、もう勝負はしてもらえないかもしれない。
だが今日はもう、他のバッターも打てるはずだ。
直史の呪縛から離れて、逆に上杉から祝福されるように。
三番シュミットのクリーンヒットで、大介はホームにまで帰ってくる。
上杉が投げると分かった時から、こうなることは分かっていた。
メトロズが一点を先制し、試合の主導権を握ることとなった。
上杉の奪三振が止まらない。
それも無理に三振を奪いにいくのではなく、ムービング系でファールを打たせて追い込んでから、フォーシームで空振りを取るという感じだ。
スピードもあるがそれ以上に、伸びが凄いという事もあろうか。
上杉のボールは重いし、そして球威がある。
下手に当てればそれは、手首や指を痛めることにさえなる。
空振り三振もあるが、見送り三振もある。
105マイルにまで達すると、やはり目では捉える限界になるのだろう。
人間はその体格の構造からして、どれだけ頑張っても178km/hが投げられる限界だろう、と言われたことがある。
これはある程度専門家が言っていることで、ならば175km/hを投げる上杉は、人間の限界に近い存在と言える。
ただこれは、実は疑似科学である。
昔は人間の100m走の記録は、人体の構造から限界が分かる、などと言われていた。
しかし実際にはウサイン・ボルトがその限界よりも速く走ってしまった。
その原因というか理由としては、ボルトの肉体が本来の人間から逸脱した特長を持っていたからである。
それと同じで人間の投げる球も、いずれは180km/hすら超えるかもしれない。
もっともしばらくの間、それこそ半世紀ぐらいは、上杉のボールがギネスに残るかもしれないが。
ただ上杉の全盛期は、やはり日本時代であった。
一度壊れた肩は、未だにその最速に達していない。
173km/hは普通に投げられて、174km/hもそこそこ投げていた上杉。
だがその限界が、175km/hであった。
肘のトミージョン手術以降、むしろ球速が上がったというピッチャーはいる。
それはリハビリの期間に、他の筋肉のウエイトもしていたからである。
ただ近年はアマチュアの段階から既に、トミージョンで丈夫な腱を移植するなどという、本末転倒な事態が増えていたりもする。
しかし上杉の壊したのは肩で、肩を壊したピッチャーがさらにその球速を増すというのは、なかなか聞かないことである。
105マイルでも充分なのだ。
日本で二番目に速い武史が、105マイルなのだから。
ただそれで、納得してしまうのは上杉ではない。
二つ目の三振以外のアウトは、今ではアナハイムでナンバーワンのバッターと目されているターナーの打席であった。
ストレートにかろうじてついていき、打ったボールはキャッチャーフライ。
ただそれでも、ここまでほとんどのバッターは、ボールにバットを当てることすら出来ない。
特に決め球として投げた、フォーシームストレートには。
バックでそれを見守る大介としては、非常に暇である。
ボール回し以外で、今日はまだボールに触っていない。
それに、ちょっと悪い虫が湧いてきた。
上杉のボールを打ってみたいという虫だ。
この回も三人で終わらせて、上杉はパーフェクトを継続。
高校時代に経験した、直史がパーフェクトをするときとは、チームの雰囲気が違う。
もちろんぴりぴりとはしているのだが、上杉に触れることすら難しいという雰囲気はない。
直史のような隠しても隠し切れない、殺気のようなものが上杉にはない。
(ほんの少しでも、一緒にやれて良かったな)
国際大会とはまた違う、上杉の知らなかった顔を見ている気分だ。
味方の打線が二点目を取った。
スターンバックの調子も、悪いわけではない。
元々のメトロズの打線を考えれば、これぐらいに抑えているのは立派なのだ。
直史によるパーフェクトの呪縛は、もう完全に払拭されたと言っていい。
これが上杉の、優勝のためのピッチングなのか。
そして五回、大介が注目している対戦が回ってくる。
一打席目ではどうにかバットに当てた、坂本の打席だ。
105マイルを一打席目から当てた坂本。
おそらく上杉はまた、真正面から坂本を抑えにいく。
大介に対しても、最後には必ずそうしたように。
ただ坂本は、ただでは転ばない。
おそらく一打席目の経験から、何かを考え付いているはずだ。
大介としてはそう思っているが、上杉に忠告しようとは思わなかった。
そういった策略すら、全て正面から叩き潰す。
それぐらいのことをやってようやく、メトロズはアナハイムに優位に立てるだろう。
大介はしかし、最終戦のことも考えるのだ。
(さすがにこんだけ投げて、最終戦も先発は……いやいや、打たせて取るタイプのナオじゃないんだし)
上杉は点差がついたなら、六回当たりで降板すべきではないか。
だがポストシーズンでパーフェクトで、それで降板するというのか。
確かにもう直史が、パーフェクトという記録は刻みつけた。
しかし上杉はこの調子なら、奪三振の記録を作ってしまいかねない。
MLBの一試合における奪三振は、九回までに限れば20個。
NPB時代の上杉なら、何度も達成している数字である。
ただこの調子で、ほとんど粘ることすら出来ずに、三振を奪い続けていったなら。
直史の達成した、ラッキーズ相手のパーフェクトは、八奪三振96球のパーフェクトマダックスであった。
だが上杉もこのまま充分に、90球程度でパーフェクトをしてしまうかもしれない。
点差がついたとして、パーフェクトをしているピッチャーを降板させることが出来るのか。
MLBはそれを許すのか。
普段は合理性の塊のようなMLBであるが、ポストシーズンになると途端に、ロマンの塊となって勝負してくる。
それでも大介は歩かされるが、レギュラーシーズンに比べたらマシなものだ。
(さて、坂本のやつは)
グリップを指一本、余して持っている。
上杉のスピードに、ついてくる気が満々である。
大介は上杉の173km/hをホームランにしたことがある。
お互いの意地と意地のぶつかり合いの、力と力の対決だった。
おおよその成績では抑えられていることの方が多いが、それでも上杉から一番打っているのは大介であった。
坂本に対して上杉がどう攻略するのかは、大介にとっても興味深いことだ。
坂本への初球は、いきなり105マイルのストレートが投げられた。
そしてそれを振った坂本は、ボールがバックネットに突き刺さる。
105マイルでも、当てることは出来る。
坂本はどちらかというと、読みで一発を打つタイプだと思っていたのだが。
(すると変化球には全く対応出来ないんじゃないか?)
そう思った大介であるが、坂本はスプリットにも手を出した。
ファールでバウンドし、キャッチャーのプロテクターに突き刺さる。
そこからわずかに曲がる球に、坂本はミートしていった。
球速がありすぎて、完全にはミート出来ていない。
それでも粘ることは出来ている。
昨今のフルスイングするMLBのスラッガーには、出来ないことだ。
(さすが)
これは内野ゴロがあるかな、と大介は身構える。
だがマウンドの上の上杉の雰囲気が、また少し変わった。
対戦している坂本ではなく、バックを守る大介でさえ、空気が変わったのを感じた。
上杉の肉体がまるで、重さを増したような。
破壊力というのは、速度と重さから導き出される。
そこから逆算して、上杉の発散するそれを、プレッシャーと感じたのか。
打てないな、と大介は思った。
坂本は確かに曲者で、甘く見ていい相手ではない。
だがそれはそれ、これはこれ。
バッターとしては上杉と対決するには、格不足であろう。
重たい上杉の肉体が、ゆっくりと動いた。
そして加速して、ボールに力が伝わっていく。
放たれたそれは、白い閃光。
坂本のバットはピクリとも動かず、ミットにボールは収まっていた。
一瞬の静寂の後、スタジアムが沸騰する。
球速表示を見れば、そこにはなんと107の文字が。
上杉の限界は、109マイルだ。
だが今シーズンの中では最速。
(マジかよ)
上杉は、完全に回復したのではない。
まだ今は、完全に回復しつつあるのだ。
当然のように、この回は三者三振。
メトロズのファンからは、MLB最速記録の更新に、大きな拍手が送られる。
こんな雰囲気の中で、アナハイムのピッチャーは投げるのだ。
おそらく動じずにいられるのは、直史ぐらいだろう。
そもそも動じない無神経な武史もいるが。
そして五回の裏、大介の第三打席が回ってきた。
(目が泳いでるな)
スターンバックは明らかに動揺している。
それでもまあ、普段程度のピッチングは出来ているのか。
ポストシーズンのワールドシリーズで、普段通りのピッチングでは足りないのだが。
初球のストレートは、それなりにアウトローを狙っていたが、あまりにも安易な球であった。
大介はそのわずかに甘い球を、見逃すことなく振っていった。
打球は、アウトローのストレートを打ったのに、強引に引っ張られて右方向へ。
ライトスタンド中段に突き刺さる、ワールドシリーズでは二本目となる大介のホームランであった。
これにて点差は三点。
おそらく今後もメトロズ打線は、順当に点を重ねていくことが出来る。
だが上杉は、いったいどこまで投げさせるつもりなのか。
常識で考えたら、最終戦で少しでも投げられるように、このあたりで交代してしまってもいい。
三点差は安全圏ではないが、おそらく今日のアナハイムは、もう一点も取れない。
だが上杉から代えることは、明らかに球速は落ちるということ。
それにパーフェクトをしているピッチャーを、交代させてしまうというのか。
ワールドシリーズの優勝と、上杉のパーフェクト。
果たしてどちらの方が、重要なことであるのか。
ワールドチャンピオンになるのは、毎年一チームは出ることだ。
しかしワールドシリーズでパーフェクトをした人間は、MLBの歴史の中でもたったの二人。
(また判断の難しい事態になってきたなあ)
ベースを一周した大介は、ベンチにて上杉とハイタッチをしたのであった。
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