8章 尊重しあえるからこそ

第1話 薔薇色とブルー

 煮物屋さんの閉店時間が遅いため、佳鳴かなる千隼ちはやの就寝時間は当然遅くなり、起床もそれに合わせることになる。


 今朝も9時ごろに起き出して来たふたりは、リビングで寝ぼけた顔を合わせた。


「おはよー」


「おはよ〜」


 短く挨拶を交わし、ともにキッチンへ。佳鳴が冷蔵庫を開けてミネラルウォータのボトルを出し、千隼が食器棚からマグカップを出す。ミネラルウォータをマグカップに注ぎ、ふたりは並んでごっごっと一気に喉を鳴らす。


「あ〜、やっと目が冴えた気がするぜ」


「そうだねぇ。朝は水分不足にもなってるから、しっかり飲んでおかないと」


「おう」


 佳鳴は2杯目のミネラルウォータをふたりのマグカップに入れ、それを今度は少しゆっくりめに飲み干した。


 真冬を迎えている今だが、それでも就寝中に身体の水分は失われて行く。乾燥しているせいもあるのだろうか。


 ベッドから出るのが辛い時期だが、喉の渇きを癒したくて冷たい水を飲んでしまう。だがそれが目覚めのきっかけにもなる。


「俺、新聞取って来る」


「うん、ありがとう。コーヒー淹れとくよ」


 千隼は住居エリアの玄関に向かい、外に出るとすぐ脇にある郵便受けを開ける。中には今朝配達された新聞と、その下には昨日入れられたであろうチラシやダイレクトメールなどが入っている。


 郵便受けの確認は、煮物屋さんの営業が終わった深夜にすることもあるが、昨日はしていなかった。なので今朝の確認だ。


 新聞もろともそれらの束を掴み、家に戻ってダイニングへ。テーブルの上にはほかほかと湯気が上がるマグカップがふたつ。佳鳴が淹れたコーヒーだ。


 暖房も入れられていて、リビングはじわじわと暖まりつつあった。


 マグカップはさっき水を飲んでいたものだ。洗い物を増やさないためにグラスを出さなかったのだ。コーヒーを飲むのも毎朝のことだったので、同じ器を使えば合理的だ。


 そしてコーヒーはインスタントだ。煮物屋さんで出す料理には手を掛ける姉弟であるが、それ以外は結構ぞんざいなのである。


 佳鳴は千隼が取って来た郵便受けの中身を見る。1番上に置かれていた新聞をとりあえず避けると、下にチラシなどが出て来る。佳鳴がそれらを選別して行くと、一通の郵便物に行き当たった。


 表面は佳鳴宛て。かっちりとしたな明朝体で印刷された住所と名前が並んでいる。裏を返してみると、差出人は男女の連名だった。


「あ」


 その女性の名前を見て、佳鳴は声を上げる。


聡美さとみだ」


 内山うちやま聡美は佳鳴の大学時代の友人である。大学時代は佳鳴と聡美を含めた同じ学科の4人で行動することが多かった。


 卒業後はそれぞれ就職し、それでも飲みに行ったりすることもしたが、仕事などが忙しくなって来るとその頻度もじょじょに減り、佳鳴が千隼と煮物屋さんを始めてからはとんとご無沙汰になっていた。


 それでもSNSのグループで繋がってはいた。佳鳴はタイミングが合わないことが多く、既読だけすることがほとんどであまり会話に加わることもなかったが、さっと辿るとおおよその様子は掴めた。


 その封筒は、封はしっかりとのり付けされていて、寿の金文字が箔押しされた赤いシールで閉じられていて、それは明らかに披露宴の招待状だった。


「来た来た」


 聡美に交際相手がいることはグループ会話で知っていた。相手はその人なのだろうか。聡美はそこでは名前を明かさなかったし、封筒の男性の名前にも見覚えが無かった。


 だがそこで、結婚が決まったので近々招待状を出すが構わないか、と打診があった。佳鳴は煮物屋さんがあるので参列出来るかどうかは時間によると断りを入れた上で、大丈夫だと返していた。


「へぇ、めでたいな。いつ?」


「ええっとね、確か3ヶ月ぐらい先だったと思うけど」


 佳鳴は立ち上がると、チェストの引き出しからはさみを出して丁寧に上部を切る。中身を出すと、ふたつに折り畳まれた披露宴の案内と、それに挟まれた挙式の案内リーフレット、返信用のはがきがあった。


 披露宴の時間を見ると、こちらは昼からだったが、挙式は午前中だった。日付はやはり約3ヶ月後の日曜日。その頃には春の気配も見えるだろうか。


「行って来たら良いじゃん。店始めてから友だちに会う機会もぐんと減っただろ? そんな先だったら、店休みにしても大丈夫だろうし」


「まぁそうだけど、挙式だけ出られたら充分だよ。聡美もそれを考えて挙式を午前中にしてくれたんだと思う」


「そうかぁ? まぁ姉ちゃんが良いんなら良いけどさ」


 千隼は言うと、コーヒーをこくりと飲んだ。


 はがきで返事を出す前に、聡美に直接知らせておいた方が良いだろう。佳鳴はスマートフォンをたぐり寄せた。




 そうして3ヶ月ほどが経つ。まだ冬の寒さは続いているが、そろそろ春の足音が聞こえて来た。


 煮物屋さんは変わらず営業を続けている。金曜日である今日も18時につつがなく開店した。


 ぽつりぽつりと席が埋まって行き、空席が少なくなって来た19時ごろ。ドアがそっと開かれた。


「いらっしゃいま、あ」


 笑顔で対応しようとした佳鳴の表情が止まる。ドアの向こうから「へへ」と照れた様な顔を出した女性は、「久しぶり」と佳鳴に笑顔を向けた。


「姉ちゃん?」


 千隼が言うと、佳鳴は「友だちだよ。聡美」と応える。


「良いかな」


「もちろん。びっくりしたよ。どうしたの?」


 佳鳴が迎えると、聡美は1番ドアに近い手前の席に掛ける。佳鳴からおしぼりを受け取った聡美は手を拭いて、ふぅと息を吐いた。


「うん。ほらさ、結婚とかしちゃうと、ひとりで飲みに行ったりとかなかなか出来なくなるでしょ。だから思い切って仕事帰りに寄ってみちゃった」


 聡美の結婚挙式と披露宴は明後日の日曜日に迫っていた。結婚後に奥さんとなる女性がひとり出掛けることが出来るか否かは、旦那さんによって変わって来るとは思うのだが、聡美の結婚相手はそれを嫌がる人なのだろうか。


「そんなもんなのかな。そりゃあお子さんでも産まれたら、しばらくは難しいかも知れないけど」


 佳鳴が聞くと、聡美は「んん〜」と首を傾げる。


「そんなもんじゃ無いの? うちはお父さんは時々飲みに行ってたけど、お母さんはずっと家にいたよ。夜にいなかったことって滅多に無かったんじゃ無いかなぁ」


「聡美のお母さまって専業主婦だっけ? あ、食事はどうする? うちはね」


 佳鳴が煮物屋さんのシステムを説明すると、聡美は「へぇー」と興味深げに目を開いた。


「おもしろいことやってるねぇ。そっか、それだったら今よく言われてるフードロスとかそういうのも防げて良いのかもね。じゃあお酒にしようかな。ビールちょうだい」


「瓶ビールだけど良い?」


「渋いね。うん、良いよ」


 千隼が栓を抜いた瓶ビールを、佳鳴がグラスと一緒に聡美に渡すと、聡美は手酌でビールを注ぎ、それを一気にあおった。


「あ〜美味しいなぁ! たまには瓶ビールも良いね!」


「良かった。はい、料理お待たせ」


「うわ、美味しそう」


 聡美が嬉しそうに顔をほころばせた。


 今日のメインは豚ばら肉と茄子とししとうの煮浸しだ。豚ばら肉はスライス肉を使い、皿に盛り付けたあと、大根おろしを添えている。


 まだまだ旬の大根はみずみずしく甘みも蓄え、煮汁に溶け出すことで全体に旨味が広がる。


 しっとりと甘い豚ばら肉ととろりとなった茄子、ほんのりぴりっとするししとうの旨味をしっかりと引き出してくれる。


 小鉢のひとつはたたききゅうり。麺棒で粗く叩いたきゅうりに唐辛子と塩昆布を揉み込んでいる。


 唐辛子はひかえめにして、塩昆布の味付けがメインだ。柔らかな塩気のものを使い、きゅうりの味わいを活かしている。


 もうひとつはにんじんのきんぴらだ。太めの千切りにしたにんじんをごま油で炒め、日本酒とお砂糖、お醤油で調味をして、仕上げにたっぷりの黒すりごまをまぶしてある。


 火を通すことでほっくりと甘みが引き出された人参に、香ばしい黒すりごまがあわさると、こくもある味わいの一品になる。


「美味しそう! いただくね」


「どうぞ〜」


 聡美は行儀良く「いただきます」と手を合わせ、さっそくお箸を持つと、まずはきんぴらに手を付けた。


「ん! きんぴらって白ごまのイメージあったんだけど、黒ごまも美味しいんだね。香ばしい。へぇ、ふっくらしてるのに歯応えもあって美味しい。これ佳鳴が作ってるの?」


「小鉢のふたつは私。煮物は弟が作ってるよ」


 佳鳴が言うと、横で千隼がぺこりと頭を下げる。


「あ、そっか。弟さんとお店やってるんだよね。初めまして、佳鳴の友だちの内山聡美です」


 聡美が小さく頭を下げると、千隼も「初めまして、弟の千隼です」とにこりと頭を下げた。


「料理の出来る男性かぁ。佳鳴んとこは、確か今弟さんとふたり暮らしなんだよね?」


「うん。うちは朝昼ご飯兼用にしてて、千隼が作ってくれるよ。その間に私が掃除と洗濯してる」


「そうやって協力し合うってのも良いよねぇ。……うん、良いよねぇ」


 聡美はしみじみ言うと、今度は煮物に箸を伸ばす。しっとりと煮汁が沁みた茄子を豚ばら肉で器用に巻き、口へ。そしてうっとりと目を細めた。


「ああ〜美味しい! お出汁がしみしみで豚肉が甘くて合う〜。良いなぁ」


 しかしその笑顔は、すぐになりを潜めてしまう。


「最近は、男性でも料理をする人って多いよね……?」


 聡美の呟きの様なせりふに佳鳴は「どうだろう」と小首を傾げると、聡美は憂鬱そうに小さく息を吐いた。


 どうしたことだろう。佳鳴と千隼は不思議そうな顔を見合わせる。そして結婚式を控えていることを思い出し、もしかしたらマリッジブルーというものなのだろうかと考え至り、少しまなじりを下げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る