第10話 翌朝
覚醒と同時に感じたのは、激しい頭痛だった。
まず、全く覚えのない天井。
天蓋付きの寝台に眠っている現状を理解するまでに、暫く時間が掛かった。何せこの三年間、俺が目覚めてまず見ていたのは大結界の管理部屋――あの、蜘蛛の巣が至る所に掛かっていた天井である。
そして何より、いつものように節々の痛みで起きたわけではなく、自然に体が覚醒した――その事実と、自分が休んでいるふかふかの寝台。その状況に混乱してしまう。
そこで、ようやく思い出した。
昨夜、俺はノーマン侯爵家のお屋敷に泊まったのだ、と。
「おはようございます、ソル様」
「うひぃっ!? お、おはようございますっ! ぐ、ああっ……!」
「ど、どうなさいましたか!?」
「す、すみません、頭が……」
声を掛けられてしまったせいで飛び上がり、そのせいで激しく頭が痛む。
元々俺は酒に弱く、少しの量で眠ってしまう性質だ。そのため、大結界の管理をしていた頃には少しだけ飲んで、床の上で寝て、僅かに眠ってから起きる――そんな毎日を過ごしていた。
昨夜、ダリアが用意してくれた高級な酒――あれは駄目だ。本当に僅かな量しか飲んでいないというのに、一口飲んでから全く記憶がない。
「朝食の方をお持ちしましたが……食欲はございますか? 二日酔いに効くハーブティーを用意しておりますので、せめてそちらだけでも」
「え、ええ、ありがとう、ございます……」
がんがんと痛む頭を押さえながら、どうにか寝台から降りる。
こんなにも二日酔いを覚えるなど、いつぶりだろうか。自分一人でしか飲まず、その場で眠れる環境にずっといたため、適量を超えて飲むことがほとんどなかったのだ。あと、一人で飲む酒というのは味気ないものだし。
ソファに座り込むと共に、目の前に朝食が並べられる。
真っ白のパンに、卵料理とサラダが並んだ、貴族の朝食らしい代物だ。その横に、まだ湯気の立つハーブティーが置かれている。
俺の今までの朝食――乾パンを水でふやかしながら食べるだけ――に比べれば、遥かに人間らしい食事だ。
「い、いただきます……」
まず、ハーブティーを一口。
一応パンは並べられているけれど、正直、全く食欲がない。二日酔いもそうだが、昨夜の夕食がまだ残っている感じだ。
この三年間ろくなものを口にしていなかった胃が、突然の美食の群れに驚いているのだろう。
だが、今俺が気にするべきことはそれではない。
「あ、あの、ダリアさん?」
「はい、ソル様」
「俺……昨夜、何か変なこととか、言ったりしなかったですか……?」
「……」
何せ、俺には昨夜の記憶がないのだ。
ダリアが持ってきてくれた高級な火酒を、一口飲んだところまでは覚えている。だけれど、それ以降の記憶は全くない。
もしかすると、何か失礼なことを――。
「……い、いえ」
ダリアが、俺と目を合わさずにそう言って。
少しだけ、頬を赤く染めていた。
「……と、特には。ええ」
「……」
……。
俺、完全に何かやらかしてんじゃん!?
四十男の湯浴みの世話を無表情でこなしたダリアが、頬を染めるって何だよ。そんなにも恥ずかしいことを俺やらかしてんの間違いないじゃないか。
一体何をやらかしたのか――それを、ああ、聞きたくない。
むしろ――ああ、死にたい。
ダリアは、これからお世話になるノーマン侯爵家の侍女長だ。これは完全に、第一印象で最悪の烙印を押されたと考えていいだろう。
「こほん……さ、冷める前に、お茶をどうぞ。お食事の方は……」
「……すみません。あまり、食欲がなくて」
「承知いたしました。では、お下げいたします」
「その……ルキアさんは?」
手早く朝食を下げるダリアに、そう尋ねる。
ダリアに何か失礼な真似をしてしまったのは、間違いないだろう。そうなれば、主人であるルキアの方へと報告が入るのは当然だ。
ならば俺は、ルキアにスライディング土下座を敢行する必要がある。ダリアに何か変なことをしましたすみませんでしたっ、と。
「お嬢様は、既にお仕事に向かわれました。本日は、領民議会所に向かわれるとか」
「……そう、ですか」
「別邸の方は、ただいま掃除を行っております。午前中のうちには終わると思いますので、午後から別邸の方を案内しますね。本日の夕食から、別邸の方にお持ちいたしますので」
「……え、ええ」
別邸。
それは、何度かルキアから言われた、今後の俺の住居である。
何せ住所不定無職の俺に対して、ルキアは仕事も住む場所も与えてくれると言ったのだ。その場所が、侯爵家の別邸とのことだった。昨夜はひとまず客間に泊まるように言われたため、ここで目覚めたわけだが。
恐らく侯爵家の屋敷の敷地内にある小屋かな、くらいに考えている。
ふむ。
とりあえず、午前中いっぱい時間があるわけだが――。
「また、こちらをお嬢様からお預かりしております」
「えっ」
ダリアがそう言って、朝食の載せられているカート――その下から取り出したのは。
何か小さなものを、包んでいる布。
しかし俺の目は、布に包まれているそれの中身が、見なくても分かった。
「――っ!」
布が取り払われる。
そこにあったのは昨日馬車で見せてもらった、大結界の一部だ。見た目は六角形の破片でしかないそれだが、魔術師が見ればその価値が分かるだろう。
ルキア曰く、金貨五千枚もの貴重品。
それが、何故ここに――。
「こちらの品は、ソル様にお渡しするとのことでした」
「えっ――!」
「元々、こちらは大結界の一部と聞いております。お嬢様は遠出をなさる際に、常にこちらを懐に入れて、馬車全体に防御結界を掛けておられました。領内ならばまだしも、領外となるとお嬢様には敵もおりますので」
「な、何故、これを……?」
「お嬢様のお言葉を、一言一句違わずお伝えいたします」
こほん、とダリアは咳払いをして。
「ソル君。元々これは、わたしが出かけるときの保険に持っていたものだ。だが今後、ノーマン領に大結界を築くという大きなプロジェクトを行っていく。きみはその責任者であり、最も大結界を知る人物だ。わたしが持っているより、きみが持っている方が、その欠片の価値を引き出すことができるだろう」
「え……」
「暫く、わたしに遠出をする予定はない。予定が入るとすれば、きみが大結界を作ることができてからになるだろう。それまで、きみに貸しておくこととする。これは、きみに対するわたしの期待と信頼の証だ」
「……」
「以上です」
すっ、と頭を下げるダリア。
その口が紡いだのは、ルキアから与えられた全力の信頼。
彼女の期待に応えねば。
そう俺の心もまた、引き締まった。
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