第40話
傾き始めた冬の日差しの中、ゴルフ場の例のクラブハウスは白い肌をなまめかしく見せて横たわっていた。
う~ん、なんだこの……なんつうか、実際に見るとなんか……。ほんとに安っぽい。
「なんか変な建物だな」
海斗がぼそっと言う。
「外壁のセンスが安っぽいんだ。多分、中身もダメダメだぜ。敬樹。手順を確認する。車を降りたら、お前は茂みに隠れてドローンで弥二郎と弁護士のいる場所を探る。見つけたら、その場所に一番近いところへ移動して隠れて、俺に連絡。センサーカメラが反応した時も連絡。いいな?」
「わかりました。時宗さんも海斗さんも気をつけて」
「ああ」
「大丈夫だ。お前も気ぃつけれ」
時宗が一旦降りて助手席を倒すと、敬樹は後ろから這い出すように降り、身を屈めて茂みの陰を移動して行った。
助手席に戻る。車はゴルフ場の駐車場に入る道のわずかに手前にいた。こちらからクラブハウスの建物のてっぺんが見えるが、向こうからは死角のはず。
この道の入口には、義時・時頼親子と手を組んでいた東京のヤクザの下っ端が見張りとして立っていたのだが、時宗は適当なことを言って近づき、気絶させてある。
ここへ来るまでの一本道の途中には、センサーカメラを仕掛けた。札幌からのヤクザが通ったら作動する。敬樹とは通話を繋ぎっぱなしにして、時宗は耳に小さなハンズフリーデバイスをつけていた。
2人は黙って、そのまま作戦開始のタイミングを待っていた。
遠くの茂みから小さなドローンが飛び始めたのが見える。それは建物の周囲をゆっくりと一周し始めた。まず2階を確認するつもりらしい。偵察を始めてすぐ、敬樹の声が入った。
『弥二郎さんだ! 2階の……正面玄関から見て右の端の部屋です。ベッドに座ってる! よかった……よかった生きてる……怪我してないかな……見た感じ、怪我はしてなさそう』
敬樹の声は掠れ、涙声になっている。
「よかった……敬樹、やったな。一緒に助けるから、あともうちょっと待て」
隣で海斗がほっとした顔になった。
『部屋に、他にも誰かいます。2人ぐらい……う~ん、カーテンの隙間からは、顔が見えないな……』
義時と時頼かもしれないなと時宗は思った。
『弁護士さんは……どこだろ、隣にもいません。2階を一周したら、1階の人数を見てみます』
「頼む」
敬樹がごそごそする気配を聞きながら、時宗は黙って座っていた。
父と兄は、どうしてここまで堕ちてしまったのだろう。権力と金。そうしたものを扱うためには、本当に繊細な知恵が必要とされる。彼らには知恵がなかった。
あんなふうにはならないよう、母は時宗を愛情深く、厳しく育てた。今思うと、母の教育は本当に思慮深いものだった。してはいけないこと、しなければならないこと、それらすべてについて、母は時宗に理由を説明し、時宗の行動原理に組み込むことができるように教えてくれた。どうしてそれをしてはいけないのか。どうして? 母は辛抱強かったと思う。
どうしてヘラヘラと機嫌を取ってくる大人には気をつけなくてはいけないのか。どうしてチョコレートは食べたいだけ食べてはいけないのか。どうして欲しいものは欲しいだけ買ってはいけないのか。
父と兄は、そうした基本的なことを覚えなかった。あの祖父と祖母から、どうして父のような根性の悪い男が出来上がったのだろう?
何年も会わなかった父と兄。その再会の瞬間が、彼らを追放するためのものであることに、時宗は一抹の寂しさを感じた。それでも、人生には最初から会わない方がよかった人間もいるのかもしれない。考えても仕方ない。
時宗は胸ポケットから銀のラペルピンを取り出すと、海斗の方へそれを差し出した。
「これ、お前にやる。つけてやるから、こっち向け」
「それって……」
金具を取り、襟のボタンホールからピンを差し込むと、時宗は丁寧に海斗のスーツの襟に留めた。
「銀のピンは、当主の次男から下がつける。……俺の父と兄は、今から追放され、俺は正式な当主としてあの2人に宣言する」
静かに、時宗は海斗の目を見た。しんと鎮まった、澄んだ空気の漂う眼差し。
「海斗……俺はこれから、大きなものを背負って生きていく。覚悟が欲しい」
息を吸う。
「お前は大事な、俺のいとこで、友だちだ。でもよかったら……。もうひとつ兼任してほしい」
「何だ?」
「返事は今じゃなくていい。俺は……お前が好きなんだ。恋人になってほしいっていう意味で」
海斗の手をそっと持ち上げ、時宗は、その長く伸びやかな指の輪郭をなぞった。人差し指の先に口づける。
「初めて会った瞬間に、俺はお前を離したくないと思った。海斗」
顔を上げると、視線が合う。海斗の目は戸惑ってはいたけれど、時宗を拒絶してはいなかった。
「わ、わかんねぇけども、その」
『あの~、すみません、お取込み中のところ申し訳ないんですが……センサーカメラが作動しました。来ましたよ』
敬樹が、本当に申し訳なさそうな声で割り込んだ。そうだった……通話が繋がってた……。
俺は、一世一代の告白を敬樹に実況していたのか。
ぶぉんとエンジンを鳴らし、海斗は駐車場に乗り入れた。隅に何台か駐車されている。アウディが一台混ざってんな。多分あれは兄の車だ。海斗がエンジンを切り、靴を履き替えて降りる。
時宗は海斗の腰を抱き、エスコートしてクラブハウスに向かった。海斗は頬を赤くしたが、何も言わなかった。
近づいてみると、ガラスの自動ドアが開く。ヤクザどもは奥にいるのか、まだ気づいていない。見張りを倒したからな。
車が数台近づいてきている。くぐもった音が突然クリアになり、3台が連れ立って駐車場に入ってきた。線を無視してクラブハウスの前に乱暴に停めると、先頭の黒いSUVから40代ぐらいの男が飛び出てくる。なんだそのチェックのスーツ……体格に合ってなくて太って見えるぞ?
「海斗。始めるぞ。絶対に俺から離れるな」
「わかった」
するりと海斗の腰を抱き、時宗は海斗の首筋に顔をうずめた。石鹸に似た清潔な香りを吸い込み、ジャケットの中に手を入れる。海斗は一瞬体をこわばらせたが、時宗が落ち着かせるように優しく抱き締めると、ふっと力を抜いた。演技とはいえ、嬉しくなる。
そっと首筋にキスをすると、海斗は鼻にかかった吐息を不意に漏らした。もしかして……演技じゃない?
「ん……こんな、入口で……」
「いいだろ? なぁ……」
チェックスーツ男が武田らしい。こめかみに青筋が浮いている。
「お前ら……お前らいい加減にせぇや!!」
「お~やおや、札幌のチンケな連中が何か言いに来たんですか? 困るなぁ。俺と今野の仲を裂こうなんて野暮なこと、まさかしませんよね?」
「ふざけんな!!」
とんでもない大声。
そいつを先頭に、10人ほどの連中はドカドカと近づいてきた。
「お~、イキってるイキってる」
時宗は身を翻し、自動ドアの向こうへ走り込んだ。海斗がすぐ後ろをついてきている。
「行くぞ!」
叫ぶと同時に、中から5人程度の連中がわらわら出てきた。
「おい何だ!!」
「お邪魔しま~す!!」
体当たりをするように、時宗は出迎えた連中に突撃した。一人目に頭突きをかまし、そのまま残りの連中の間をすり抜ける。
玄関から右へ続く廊下に足を踏み入れた2人は、スピードを落とさず走った。
後ろでは数人の怒声が響いている。ヤクザ特有の「うらぁ!」とか「おらぁ!」とかの下品なやつだ。パーティールームからさらに5人、ナイフを持った奴と拳銃を持った奴もいる。
「カチコミか!?」
「カチコミでぇ~す!!」
腹の底からわめくと、時宗は勢いそのままに最初の奴に回し蹴りを叩き込んだ。体を回し、次の男に回し蹴りをもう一回! 拳銃が吹っ飛んで、後ろの奴の脳天に落っこちる。ふっと体を沈め、遅れてきた奴の顎に一発、海斗をぐいと引っ張って階段を駆け上がる。
「おおおお?! 時宗が……かっこいい……」
「言ったろ? スーツは戦闘服だって。盛大に励ましてくれ、まだ終わらない」
2階から走り下りてきた奴の足を手で払うと、そいつはゴロゴロ転がっていった。
「あと何人だ?!」
『わかりません。見える限りでは、ヤクザはあと2人。それを片付けたら、2階はもうあと弥二郎さんの部屋だけです』
敬樹の報告を聞きながら、2人は廊下を駆け抜けた。奥の部屋の前にヤクザ2人が立っている。
「どおりゃああ」
一歩、二歩、踏み切って、飛ぶ! 一人目の横っ面に膝蹴りをブチかまし、もう一人の脳天に拳から落ちる。
勢いを止めず、時宗は一番奥の部屋のドアを思い切り蹴った。バァンという派手な音と一緒にドアが吹っ飛ぶ。
「弥二郎!! 無事か?!」
乗り込んで、時宗はベッドを見た。
唖然とした顔で弥二郎が座っている。
「おいおい……時宗お前……」
「時宗! これは何事だ!」
「『何事だ』じゃねぇよ何事なんだよ」
時宗は興奮に任せて部屋をずかずか横切ると、カーテンを引いて窓を全開にした。すかさずロープが飛んでくる。受け取り、海斗に渡す。
「ベッドの足に結べ」
そこまでやると、時宗は部屋を見渡した。
時宗の迫力に圧倒されたのか、部屋の隅っこに兄、時頼がへばりついていた。こいつ、また太ったんじゃねぇか?
精神衛生の欠けた顔は、蒼白なまま唇を震わせていた。デスクの椅子を蹴倒したまま、父、義時は立ち尽くしている。
「時宗……お前、その……ピン」
「お久しぶりですね、あなたが特注で作ったピンはもう役に立たない。先ほど、俺は正式に祖父、時政から当主の座を引き継ぎました」
作業が終わり、海斗が身を起こす。
「紹介しましょう。彼が海斗。政子叔母様の息子さんで、俺のいとこだ。既に正式におじい様に紹介してきました。俺が当主となることに異議はありませんね?」
「そんな……話は聞いておらん」
「おじい様の話では、海斗を連れてきた者とまともに話すと。めんどくせぇ。あんただってそれを聞いたんだろ?」
「父親に向かって『あんた』とは何だ」
「『あんた』だろ? 今日から、俺が南条家のトップだ。あんたらのグループ企業に対する横領と背任の証拠はすべて押さえ、既に警察にメールで送った。もうすぐここに警察が来る。弥二郎の集めたお前らの犯罪についても、後でまとめて警察に提出する」
「何の犯罪……」
弥二郎がのんびり言った。
「親父にも報告は上げてある。強姦、強制わいせつ、監禁、脅迫、その他もろもろの刑事犯罪の方は、俺がすべて顧問の小林弁護士経由で警察に出しておいた。あの弁護士さんは、いち早くこっちで避難させたんでな」
「じゃあ、ここに弁護士はいない?」
「ああ。思ったより早かったな。当主どの、海斗。南条家は新当主と新メンバーを歓迎する」
弥二郎はニヤリと笑った。時宗も笑うと、身を返して部屋の隅を見る。
「よし。時頼。お前も刑務所行きだ。最後に俺に恭順の意を示せ」
「じょ、冗談だろ?!」
時宗はつかつかと歩き、拳を振りかぶった。ゴン!という鈍い音がして、時頼の顔のすぐ横の壁に穴が開く。
「安っぽい壁だな。どうする? お前の顔にも同じ穴を開けてやろうか? 金と酒でぶよぶよのその顔、風船みたいに弾けるんじゃないか?」
ひぃっという声をあげ、時頼は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「わかった、わかったから殴らないでくれ。乱暴なことするなよ」
「どっちが乱暴なんだか。女性全員に謝罪しろよ?」
時宗は時頼の体をひっくり返し、ポケットに手を入れアウディの鍵を取り出した。
「帰りはパトカーに送ってもらえ。車は借りるからな。弥二郎、行くぞ」
「お~お~、襟のピンが決まってんな。当主になった途端に命令が板についていらっしゃる」
「うるせぇ。怪我は?」
「してない」
弥二郎はさっさとロープに取りつき、窓から下へ降りていった。地面についた弥二郎に敬樹が飛びつき、号泣し始める。弥二郎は優しい目で敬樹を抱き締め、何か囁いていた。
クラブハウスの中では、あちこちで怒声が聞こえ、銃声まで響いている。
海斗を降ろしながら時宗は振り向き、父だった男を見た。何ひとつ愛情を時宗に向けず、時宗にとっても他人同然だった男だ。それは明確な敵となり、敗北した敵となった。
「あんたはどうする? もう採決は取られた。あんたの意見など関係なく、俺は既に当主となった。……言い残すことは?」
義時は、憎々し気に時宗を見ていた。拳が震えている。
あんたは、自分のプライド以外に何も持っていなかった。存在感もなく、知恵もなく……愛もなかった。唇を震わせながら、義時は言った。
「最後まで、お前は可愛げのない子供だった。地獄に落ちろ」
「そりゃどうも。あんたが先に行くんなら、俺はせいぜい鉢合わせしないように頑張るさ」
肩をすくめると、時宗は何ひとつ後悔を残さず、ロープを降りた。
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