第32話
事務所に戻ると、事情聴取の前に時宗はトイレに寄った。
ジーンズのポケットからメモを取り出し、おそるおそる開く。
まさか事務所と同じヒントじゃねぇだろうな。
『箱の中身はなんだ? 掃除の時に邪魔なんだよ。ばーかばーか』
いや、だから40歳になって『ばーかばーか』はやめろって!! マジで勘弁してくれ。
これも一向にわからない。
時宗は昔から箱が好きだった。部屋にはいくつも箱がある。デコパージュの箱や、からくり箱、アンティークの箱に螺鈿のジュエリーボックスまで、どれも子どもの頃、祖父と母が贈ってくれたものだ。時宗は変わった美しい箱を見ると、中に何を入れるか想像して楽しんでいた。折り紙で箱を作るのも気に入っていて、いつも大小様々な飾り箱を折っていた。例の花見の時も、祖父の膝の上で箱を折っていたし、今も時宗が手持無沙汰に折った紙箱は、くず入れとして常にマンションと事務所で使われている。
どれかに、何か入れたのか?
それにしても、この時点でじいさんの連絡先を書いておけばいいものを、ここから更にメモを探させるのは意味がない気がする。まさか本当にストレス解消してるだけじゃないだろうな?
しかも、弥二郎は時宗の部屋を掃除したことなんかない。部屋に入ることさえない。掃除のくだりがサッパリだ。
なんなんだよ。
探すにしても、事情聴取が終わらないことには動けない。時宗は溜息をつくとトイレを出た。
事務所の中は、かなり物が減っていた。数人が段ボール箱を運び出していく。捜査員に促されてソファーに座る。
海斗の言った通りだ。
疲れて、風呂に入って眠りたい気分だった。3人が作ってきた空間は、もうくつろげる場所ではない。
犯人や、犯人につながる人に心当たりはないか。
その質問には、やはり同じ答を返すしかない。海斗を連れてきてくれと依頼したじいさんの、息子。
捜査員が、探るように聞いてきた。
「先ほどアルバイトの黒岩君から伺ったのですが、弥二郎さんと時宗さんの本名は南条さん……南条グループのご子息ということで間違いありませんか?」
そうか。そうだよな。そこは最初に確認するよな……。
「我々としては、身代金目的の誘拐という線も含めて捜査を進めております」
時宗はうなずいた。普通に考えれば、そういう流れになる。
促されるままに、時宗はこれまでのいきさつを順を追って話した。最後に付け加える。
「明日、祖父に会ってきます。祖父なら叔父の交友関係を知っている可能性がある」
「お祖父さま、ですか?」
「ええ。叔父は、依頼人とは昔馴染みだと言っていました。依頼人は会社を持っていて資産家だということも聞いています。顧問弁護士がいるところから、その情報は信憑性が高い。
俺の祖父……叔父の父親であれば、叔父の交友関係を知っている上、その資産家の依頼人本人と知り合いである可能性もある。下手すると、祖父が口をきいて依頼人と叔父を引き合わせたことさえ考え得る」
捜査員はメモを取りながら聞いた。
「お祖父さまはどちらに?」
時宗はのろのろ言った。もう帰って眠りたい。
「……祖父、南条時政は渋谷の松濤に住んでいます。かなり偏屈で、自分からは誰にも会いません。きちんとした手順を踏まない限り、一族の者でさえ会うことはできないんです」
「我々が事情をお聞きしに伺っても?」
「おそらく無理でしょう。絶対に祖父には行き着けません。俺と今野、黒岩の3人で行ってきます」
「では、我々が同行するというのは?」
「構いませんが、多分警備の詰め所で足止めでしょう。……祖父が俺に会ってくれるかどうかも、ちょっとわからないんです。何せ10年以上会っていないので……。明日の朝イチで準備をして、成果を持って帰ってきます。どうかお任せ願えないでしょうか」
時宗の顔に察するものがあったのか、捜査員は屋敷の入口まで同行することで納得した。
さっき、時宗が自分の父親とも連絡を取っていないことを聞き出し、捜査員はある程度時宗の状況を理解している。日本最大規模の財閥グループのお家事情は、おそらく警察内で格好の暇つぶしの噂になる。警察官たちが噂話に興じるのかどうかは知らないが。
やっとのことで解放された時には、事務所に到着してから2時間以上が過ぎ、夜の11時を回っていた。
くたくただった。
警察官に付き添われて、体を引きずるように4階に上がる。
再び中から開けてもらってマンションに入ると、時宗はもう限界だった。靴を脱ぐなり、廊下に倒れ込む。警察官が心配そうに駆けつけてくれたが、時宗は動けなかった。
弥二郎。あんたはどうして。どうしていつも、俺に何も言ってくれない? 俺がわからないと思ってるのか? あんたが盾になってくれるたびに、俺の代わりに切りつけられていることを。両親が離婚した後も、高校2年の事件の後も、そして今も。
うずくまり、時宗は顔を隠して歯を食いしばった。どうして俺たちの家に警官がいる。俺はひとりになりたいのに。いつもいつも孤独だったのに、どうしてよりによって、ひとりになりたい時に家に他人がいるんだ。
女性警察官が、労わるように屈みこんだのがわかった。
「どうしました? 横になりたい感じですか?」
放っておいてくれ。
「時宗?」
カチャリとドアが開く音がし、海斗が呼んだ。
「時宗さん! 何かあったんですか?」
敬樹が警察官に質問する声がした。
あぁ……お前たちは寝た方がいい。しっかりしなきゃ。俺が戦わなければ、弥二郎は帰ってこない。あいつらを寝かせて、俺はもう少し考え事をしなきゃいけないんだ。膝をつくな。立ち上がって、笑うんだ。何があろうと笑え。笑えよ!!
体が動かなかった。
顔の表情筋から全ての力が抜け、口角を上げることができなかった。
うずくまったまま、時宗は自分を落ち着かせるために耐えた。
大丈夫だ。俺はまだ大丈夫だ。
その時、腕がぐいと引かれた。思わず見上げる。
「時宗、風呂入れ。な? お前だって疲れてんだ。それとも、なんか食うか?」
「時宗さん、軽く作りましょうか?」
心配そうな2人の顔。海斗が身を屈め、ダウンジャケットを脱がせようと引っ張った。時宗は苦労して袖から腕を抜いた。
「ほら。あとちょっとだ。風呂入れ。な?」
敬樹が風呂へ向かい、追い炊きのスイッチを入れてくれる。
時宗はのろのろと立ち上がり、壁を伝って風呂に向かった。海斗が支えてくれる。
脱衣所でも、2人はかいがいしく時宗の世話を焼き、気づけば時宗はお湯の中に浸かっていた。ぼんやりと水面を見つめる。
「溺れてねぇか?」
海斗の声がして、ドアが開けられる。
「……溺れては、いない」
「そうか。あったまれ」
心配性なんだよ。俺が風呂で溺れるわけないだろ? そう思うそばから、頭がぼんやりする。明日……明日は……。
「時宗! 寝てねぇか!!」
はっと目を覚ます。がぼっとお湯が口に入り、慌てて姿勢を直す。
「寝てない」
「ほんとか?!」
「ほんとだってば。返事してるんだからわかるだろ?!」
苛立ち紛れにがなると、海斗は静かになった。
四ツ谷の連中はどうなっただろう。あいつらがこのマンションを突き止めるとすれば、どういう手段が考えられる? たとえば……。
「時宗!!」
「起きてる!!」
え~とえ~と、何を考えてたんだっけ。
もう考え事が面倒になって、時宗はバスタブの内側に寄りかかった。箱……箱がなんだってんだ。これから、箱をひとつひとつ確認した方がいいか? それとも……。
突然、ぐいと腕が引かれた。同時にハッと意識を取り戻す。息ができない!! 激しくむせ込みながら、時宗は這いずるようにバスタブから出た。風呂の床に裸で両手をつき、水を吐ききるまで咳に耐える。
両腕を掴まれ、時宗は乱暴に上を向かされた。海斗の焦った顔が目の前にある。
「お前!! 返事ねぇと思ったら沈みかけてんでねぇか!!」
海斗は息を切らしていた。
「いいか! 時宗。強がんな。いいふりこいたって、なんもいいことなんかねぇ。弥二郎さんいなくて辛いんなら、ちゃんと辛いって言え! 疲れて眠いんなら、眠いって言え! 友だちだろ?!」
最後の声は、泣きそうに掠れていた。
「前倒しで友だち認定したのに、先にお前が死んだらどうすんだ!! ほんっとアホタレだ時宗は」
あ~、やっぱりアホタレ認定は解除されないんだな……。
ずる、と時宗は床にへたりこんだ。
貧血を起こしたように、頭がくらくらする。
「すまん……俺はアホタレだ。服が着たいんだけど、立てなくて……お前に裸を見られるのは恥ずかしいんだが……今の俺は裸だ」
体から、力が抜け落ちていく。裸で風呂にへたりこんで、海斗のスエットを濡らしてる。咳をしすぎて、お湯だか涎だかわからないものが顎を伝っている。
みっともなくて、でもそれを海斗は否定しなくて、時宗の目から勝手に涙が落ちた。
「時宗。敬樹がなんか作ってくれてる。立てるか? 服着て、飯食って、一緒に寝るんだ。ちゃんと寝たら、明日はまた、余裕かました、いいふりこきの時宗に戻れる。な?」
海斗はひとつひとつの言葉を噛みしめるように時宗に言い聞かせていた。
時宗は微笑んだ。なぁ……弥二郎、帰ってきたら紹介するよ。俺が惚れた男は……世界一めんこくて、俺を真剣に支えてくれる、最高の……。
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