一章②


「あなたの名前を決めなきゃね。なにがいいかな?」

 ふと思い浮かんだ名があった。

「あずは、なんてどう? れいなあなたにぴったり」

 虹色の蝶は嬉しそうに、ひらひらと舞うようにはなの周りを飛び回った。

 自分の、自分だけの味方。

 言葉は発せられないけれど、この瞬間、華にとってあずははかけがえのない存在となった。

 しかし、あずはという存在を手に入れたと同時に、華は仲がよかったはずのづきとすら距離ができてしまうことになる。

 葉月に術者としての才能を期待した両親は、すべての関心を葉月へと向けていくのだった。

 葉月にのみ優秀な家庭教師をつけて、術者としての才能をさらに伸ばそうとした。

 華が自分も勉強したいと申し出ようものなら「葉月の邪魔をするな!」としつせきされてしまう始末。

 仕方なく、華は自分で本を開いて自己流の勉強をするしかなかった。

 さらには、様々な習い事をさせてもらえる葉月と、なにも用意されない華との格差は広がっていく。

 国を支えるいちみやの分家たる華の家も裕福であったために、両親が葉月に構ってばかりで華をほったらかしにしていても、家には華の世話をしてくれる使用人がいたのは幸いだった。

 そうでなければ、華は存在すら忘れ去られ、食事にすらありつけなかったかもしれない。

 そんな心配をするほどに、葉月との扱いの差は顕著だったのだ。

 それだけ両親が葉月に期待しているということなのだが、放っておかれる方としてはたまったものではない。

 兄のやなぎは、妹の華から見てもなにを考えているか分からない、無口であまり表情の出ない人だった。

 そんな兄でもさすがに葉月が人型の式神を作り出した時には、珍しく笑顔で葉月を褒めていた。

 あずはを作り出した華のことはいちべつすらしなかったというのに。

 そんな兄だから、表情には出なくとも、両親と同じような目で自分を見ているのだろうなと華は思っていた。

 そのせいか自然と兄へ苦手意識を抱いてしまい避けるようになると、同じ屋根の下で暮らしているにもかかわらず、何年も会話をしないことになってしまった。

 けれど、それは双子の片割れのはずの葉月とも似たようなもので、家庭教師に習い事もしてと、日々忙しくしている葉月とは会話もなくなっていったのだ。

 これまでは二人の時間が必ずあったのに、そんな時間すら取れないことを華は寂しく感じていた。

 だから思い切って葉月に話しかけたことだってある。

 けれど、子供とは思えないほどにスケジュールを管理されている葉月には、華と話している時間はないと言わんばかりに母親に制された。

「華、葉月はあなたとは違うの。葉月はこのいち家の希望なの。あなたの無駄話で、葉月の大事な時間を一秒たりとも無駄にすることは許しませんよ」

「……はい。お母さん」

 それならと葉月から話しかけてくれることを願ったが、一家が集まる夕食時だとしても葉月は両親とだけ話しており、華に話しかけてくれることはなかった。

 そして、中学に入学する頃に勉強が忙しいからと葉月が夕食を自室で取るようになってしまうと、母親は葉月に付き添い、父親も忙しいからと姿を見せなくなり、十歳上の兄は本格的な術者としての仕事に出るようになって家に帰らなくなった。

 残ったのは華一人だけ。

 広い食卓でたった一人食べる食事はまるで砂を噛んでいるような気分で、美味しさを感じない。

 せめて孤独を感じなくてすむように華も食事は自室に運んでもらうようになった。

 なぜこうなったのか華には分からない。

 少し前まで多少の扱いの差に悩みはしたものの、まだ家族と言えていた。

 けれど、今の家族は家族と言えるのか。

 否定したいのに否定できないほど、今の家族はバラバラだった。

「私が悪いのかな?」

 力のない自分が。

 葉月のように優秀ではない自分が。

 けれど、それがどうしたというのだろうか。

 そんなものに振り回される両親が、葉月が、なにより自分がこつけいでならなかった。

 華はその日のことを思い出す。

 家庭教師もつけてもらえないため、独学で必死に勉強した華にこの日試験の結果が返ってきた。

 我ながらうまくいったのではないかと自信のあった試験は、華の予想通り平均点を大きく上回る九十点という数字を出した。

 その答案用紙を持って父親の下へ喜び勇んでいけば、返ってきたのは冷たいまなし。

「なぜ満点が取れないんだ。だからお前は駄目だと言うんだ。葉月は当然のように満点を取ってきたんだぞ。それなのにこの程度で喜んで。もっと葉月を見習ったらどうなんだ。お前はただでさえ術者の力が弱いのだから」

 喜んでくれると思った華は予想外の叱責に涙が出そうになるのをぐっとこらえた。

「せめて座学ぐらい葉月を追い越してみせなさい」

「……ごめんなさい」

 浮かれた気持ちは見る影もなく、落ち込んで自室に帰ることになった。

 慰めるようにあずはが華の目の前をひらひら舞う。

 そこへ、使用人の一人である、という年配の女性がやって来た。

 一瀬家の使用人は、親から放置されている華に同情しており、なにかと世話を焼いてくれる。

 その筆頭たるのが、この紗江だ。

 母よりも年配で白髪交じりの女性は、いつも優しく華に笑いかけてくれて、華の大好きな人だ。

 そんな紗江がお盆にケーキを載せて持ってきた。

 テーブルに静かに置かれたケーキにはおめでとうとチョコで書かれたプレートが載っている。

「紗江さん、これどうしたの?」

「華様がよい成績を取られたそのご褒美ですよ」

 親ですら褒めないそれを他人が褒めてくれる。

「華様は頑張っておられますよ」

「でも、お父さんは駄目な子だって……」

 自分で言っていて傷付く。

 本当のことだと自分でも分かっている。

 どうしたら父と母は自分を見てくれるのだろうか。

 考えても分からない。なにせ、術者の能力は天性のものだ。努力してどうにかなるものではない。

 落ち込む華に対して、紗江はそんな沈む心ごと切って捨てた。

「子の頑張りが分からぬ親など捨て置きなさいませ」

 それはとても厳しい言葉だった。

 使用人が当主夫婦に対して口にする言葉としては過ぎたものだった。

 思わず華もあつにとられる。

「親にびる必要はないのですよ、華様」

 紗江はそっと華の手を握る。その手は温かく、そしてその顔はとても慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。

 母にすら向けられたことのないその表情に、華は動揺する。

「ちゃんと見ている者は見ています。もちろん私も。ですから、華様は華様らしく生きてください」

 そう言って紗江は部屋を出ていった。

 残されたのはテーブルの上にあるケーキだけ。

 一人残された部屋で、先程の紗江の言葉がじわじわと華の心に染みこんでいく。

 葉月だけでなく自分も見てほしかった。そのための努力は惜しまなかった。

 自分もいるのだと認めてもらいたかった。

 だが、そうか、自分は媚びていたのか。

「くっ、ふふふっ」

 なぜか笑いが込み上げてきた。

 端から見たら変人だ。けれど笑いが止まらなかった。

「あはははっ……はぁあ……」

 笑い疲れると、大きな溜息と共に華は畳の上に大の字になって寝転がった。

「媚びる必要はない、か……」

 確かにそうなのかもしれない。

 なにをしても葉月と比べ、華の頑張りにもたった一言すら褒める言葉をもたない両親。

 最近では食事を共にしなくなったことで、顔を合わせることすらない日だってある。

 もはや血がつながっただけの他人となりつつあった。

 そんな人達の顔色をいつまでうかがわなくてはならないのだろうか。

 これから先もずっと?

 そう考えた時、そんなのは嫌だと強く思った。

 だって悲しいではないか。

 見てくれないと分かっているのにすがりつき、いつか見てくれることを願い続ける。

 振り向いてくれないことを薄々分かっていながら……。

 それのなんと惨めなことだろうか。

 華はそんな自分は嫌だった。

 もっと自由でいたい。誰にもはばかることなく自分の好きなように生きたい。

 誰かの言葉や態度に一喜一憂するなんて馬鹿みたいだ。

 ちゃんと頑張った自分を褒めてあげたい。

 他の誰が認めてくれなくとも。自分だけは……。

 そう思ったら、すとんと心が楽になった。

 それまであった苦しみとか悲しみとかいった華を苦しめる感情が、別のなにかに吸収され一つの固く強いものになったような気がした。

 残ったのは、諦めと許し。

 この時から華は両親からの言葉や周囲の評価が気にならなくなった上に、自分から求めようとは思わなくなった。

 自分はじゅうぶんに幸せであることに気が付いたのだ。

 だって、自分にはあずはがいる。なににおいても味方でいてくれる相棒が。

 そして紗江のように華をちゃんと見ていてくれる者だっている。

 今この手の中にはこれだけのものがあるではないか。

 なにを嘆く必要があるというのだろう。

 たくさんのものを諦めたことで、華はずいぶんと生きやすくなった。

 まるで生まれ変わったかのような爽快感。

 そうすると、客観的に家族のことを見られるようになった。

 生まれた時から一緒の片割れ。

 同じようでありながら同じではない双子の姉。

 華より遥かに強い術者としての能力。

 出来損ないと言われ続けた華の自慢であり憧れの存在。

 だが、果たして本当にそうなのかと、見ていて思った。

 華には両親の期待がまるで葉月をがんじがらめにしているように見えたのだ。

 朝起きて、学校へ行き、帰ってからも休む暇がないほど管理されたスケジュール。

 それだけ両親は葉月に一瀬家の未来を託しているということなのだが、華から見たらそれはとても窮屈に思えた。

 葉月は満足しているのだろうか。

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