第45話 教皇との交渉

1057年5月中旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ


トリノの5月は、一年で一番雨の多い時期にあたる。


日本の雨とちがい、トリノの雨は穏やかに大地に降り注ぐ。


北と西に屏風のように聳 そびえ立つアルプス山脈の雪解け水と相まって、ポー平原に豊かな水の恵みをもたらしてくれている。


あと1か月もしたら、冬小麦が収穫の時期を迎える。

今日のような雨があと2回も降れば、小麦の実りは豊かなものとなるであろう。


農村に住む人々は、この雨を喜びとともに迎えているに違いない。


そして、僕の顔もニマニマと笑っている。


「だって、心の底から湧き出てくる喜びが抑えられないんだもん」


3か月ぶりにお母さまに会えるのだ。


母アデライデは今年2月からトリノ南部の都市アスティに駐屯していた。


トスカーナ辺境伯ゴットフリート3世の軍がトリノに攻め入ってこないよう牽制していたのだ。


牽制だけならアスティに3か月も滞在している必要はなかったのだが、ローマ教皇を仲介者とした不可侵協定について協議を進めていたのだ。

不可侵協定とは、簡単に言ってしまえば、お互いの領地に軍隊を派遣しないという約束である。


我々トリノ辺境伯家とトスカーナ辺境伯家とは、どちらも神聖ローマ帝国ハインリッヒ4世の家臣。


「家臣同士で戦争するなんておかしくない?」


1年前の僕ならそう考えたかもしれない。

けれど、ここは乱世。日本の戦国時代と一緒。

名目上、日本全国の大名たちは足利将軍家の家臣になる。

正確には、三好家や織田家のような陪臣、つまり家臣の家臣もいるが、ここではひとまず置いておこう。


要は、足利家の家臣と陪臣達が、日本全国あっちでもこっちでも戦をしていたのだ。

その原因はとどのつまり、足利将軍家に家臣の紛争を止めるだけの力がなかったのだ。


それは中世ヨーロッパだって同じこと。

神聖ローマ帝国を治めるハインリッヒ4世は弱冠7才の少年に過ぎない。

後見人こそ宗教界の最高権威者のローマ教皇ウィクトル2世だが、帝国の本拠地があるドイツとは遠く離れたローマが彼の居場所である。


その本拠地で一番の権力者は誰かというと、ハインリッヒ4世の母、皇后アグネスである。


これで皇后アグネスが中国の則天武后のような英邁であれば問題ない。

しかし、アグネスは名君どころか、暗愚といった方がよいだろう。

帝国の財貨や爵位を家臣に大盤振る舞いをする事で、なんとか離反を防いでいるに過ぎない。


そんな彼女が最高権力者なのだ。

帝国に対してどんな無理をいっても戦争になる事はないと、家臣たちに高をくくられ、舐められまくっている。


「本当に困ったものだよねぇ」

トリノ辺境伯家の一員としては、盛大にため息をつきたくもなる。


皇后アグネスが家臣の手綱をちゃんと握っていてくれたなら、トスカーナ辺境伯家ゴットフリート3世が

トリノ辺境伯領をうかがう事もなかっただろうに。


まぁ、あれだ。

仮の話で愚痴を零しても良いことは何もない。


今は、ローマ教皇の下、停戦協定が結ばれたこと、そしてお母さまが帰還する事を喜ぼう。



「ジャン=ステラ、ただいま帰りましたよ」

「お帰りなさい、お母さま。無事な姿を見られて僕、とてもとっても嬉しいです!」

「私もよ、ジャン=ステラ」


母アデライデの執務室で待つことしばし、旅装を解いたお母さまが満面の笑みで部屋に入ってきた。


さきほど家族そろって玄関ホールでお出迎えした時、アデライデはちょっと疲れた感じを漂わせていた。

しかし、今は旅塵でくすぶっていた髪も整えられており、いつもの綺麗なお母さまが復活している。


「お母さまが元気そうで良かったです」

「これでも、教皇猊下との交渉もあったし、いろいろ大変だったのですよ」

「教皇猊下との交渉というと、停戦交渉ですね。話が無事にまとまってよかったです」

「それ以外にも交渉していたのですよ、実は。順を追って話しますね」


アデライデと教皇との話し合いは、多岐に渡った。

教皇が後見人を務める神聖ローマ帝国の事、ローマ教皇庁に詰めている枢機卿の事。

そしてトリノ辺境伯領内の教会人事についても話をすり合わせてきた。


トリノの宮廷聖職者の筆頭であるアイモーネ・ディ・サヴォイア。

父オッドーネ・ディ・サヴォイア亡きあと、アイモーネは31才の若さでサヴォイア家の最長老となっている。

父方サヴォイア家の後継者は長兄ピエトロだが、弱冠9才である。

そして、母アデライデ・ディ・トリノは、サヴォイア家の血を引いていないため、アルプス西側のサヴォイア家代々の領土を統治する正統性が弱いのだ。


なんといっても、この時代は高貴な血こそが、土地を治める正統性に直結している。

正統性が弱い統治者では、統治される地元民が納得しない。


そこで、アイモーネの出番である。

サヴォイア家の血を引く彼をアルプス西側ベレーの司教に任命し、長男ピエトロの名代としての代理統治の許可を教皇に願ったのだ。


司教というのは、司祭が主宰する教会を束ねた教区を治める立場である。

そのため、自領内といえども、教皇の了承が必要になる。

そこで、アデライデは教皇にこの人事を認めてもらうために骨を折ったのだ。


「お母さま、難しい交渉だったのではありませんか?」

「いいえ、それほどでもありませんでしたよ。ジャン=ステラも知っていると思いますが、聖職者を誰が任命するのかを巡って教皇猊下と神聖ローマ帝国の諸侯とで争っていますからね。」


人事とは、見えやすい形で行使される権力の発露である。

軍を掌中にする帝国諸侯は、自分の都合の良い人物を自領の聖職者に任命したい。

一方の教会側は、宗教の人事は己の掌中に留めておきたい。


軍隊という権力を持つ領主と、宗教という権威を有する教会。

聖職者の叙任権を巡る両者の争いは年々激しくなっている。


「たまたま、軍を動員していた事もあって、すんなり事は運びましたよ」

「ええっと。お母さま、それって軍を使って脅かしたって事ですか?」

「いやだわ、ジャン=ステラ。恐れ多くも教皇猊下を脅すだなんて。私はそんな事しませんよ」


本当かなぁ。疑わしそうにジーッとお母さまの目を見ていたら、実際どうだったかのかを教えてくれた。


「本当ですよ。原因は私ではなく、ゴットフリート3世ですよ」


軍隊を動員したトスカーナ辺境伯ゴットフリート3世は、今なおイタリア半島中部の商業都市フィレンツェに駐屯している。

そして、ゴットフリート3世は現教皇ウィクトル2世との仲があまりよろしくない。

そのため、教皇ウィクトル2世としては、同じくゴットフリート3世と対立しているトリノ辺境伯家の軍を味方につけておきたい思惑がありありと透けて見えたそうだ。


「停戦も含めて交渉が上手くいったのは、ゴットフリート3世が精強だからよ。皮肉な事よね」


言い終えるとアデライデは、ふぅと息を吐き、白湯の入ったコップへと手を伸ばした。


ゴットフリート3世と対立している僕たちとしては、彼の軍隊が強い事が原因で交渉が上手く運ぶという事態を素直に喜ぶことはできない。

それでも、敵の敵は味方と言う格通り、教皇が味方側にいるのはありがたい。

たとえ、それが軍隊を持たない宗教組織であったとしても。


「そんな事よりも、もっと大変な事があったのよ」


白湯を飲み干したアデライデは侍女にお代わりを命じたあと、私の方に顔を寄せてきた。

どうやら今から始まる話題が、本当に話したかった事みたいだ。


「ラウルをギリシアに派遣したことは覚えていて?」

「ええ、確か去年の9月でしたよね。あの後いろいろな事があったので、今まで忘れてました」

「まぁ、ジャン=ステラったら」


アデライデがくすくす笑う声が、石造りの執務室でこだました。


「そうよねぇ。もう半年以上も前ですものね。実は私も忘れていたの。すっかり頭から抜け落ちていたわ」


ラウルとは、トリノ城の出納長、アマルトリダ・ディ・サルマトリオ男爵の4男で、ジャン=ステラ付きとなった最初の家臣である。

家臣に任命されると同時に彼はギリシャへと派遣されたのだ。


そのラウルがギリシャからイタリアに帰還し、アスティに駐屯していたアデライデに面会を求めてきたという。


「ラウルの面会が大変だったのですか?」

「面会というよりも、ラウルが連れてきた人が問題を運んできたのよ」


ラウルをギリシアに派遣した目的は、僕を預言者認定した3人の修道士をトリノに招くためだった。


その3人とはメギスティ・ラヴラ修道院の司教であるイシドロス・ハルキディキ、

アマルフィオン 修道院の副輔祭のニコラス、

そして女性修道院で輔祭をしているユートキア ・アデンドロである。


「イシドロス司教が、コンスタンティノープル総主教ミハイル1世の親書を携えていたのよ」


コンスタンティノープル総主教とは、キリスト教東方教会における最高位聖職者の事を指す。

ちなみにローマ教皇は、キリスト教西方教会の最高位聖職者の称号である。


同じキリスト教だというのに、ローマを拠点とする西方教会とコンスタンティノープルの東方教会は、あまり仲がよろしくない。

今から3年前の1054年には、ローマ教皇の使節団が、コンスタンティノープル総主教を破門するという暴挙を働いていたりもする。


不仲の原因は、コンスタンティノープル総主教がローマ教皇を「父」と呼ぶか「兄」と呼ぶかという、傍から見ると非常にくだらない理由だったりする。

しかし、当人たちにしてみれば真剣そのもの。「兄弟」という対等な立場とするか、「父と子」という上下関係の存在する立場かを巡っての譲ることのできない闘争だといえる。


そんな時期に親書を携えて教皇のもとへと赴いたのだ。さぞや大揉めに揉めたことだろう。


「それは、なんといってよいのやら。お母さまも大変でしたね」

「ええ、それはもう、ひどい有様でしたよ。ですが何とか無事に話をまとめられました」


親書を巡って、いろいろな駆け引きがあったらしいが、呼称問題は平行線を辿ったまであった。

ただ、アトス山の司教たちがローマ教皇管轄区内、具体的にはトリノに移住するという事で、ローマ教皇の面目を保つという結果になったらしい。


単なる司教ではなく、アトス山という東方教会で最も著名な聖地の司教であるというネームバリューが功を奏したのだという。


「それはそれは、お疲れさまでした。それにしても上手くやりましたね」

「あら、ジャン=ステラもそう思います? 私も上出来だったと思いますよ」


ラウルをギリシャに派遣した理由は、3人の聖職者をトリノに招へいするためだったのだ。

本来ならば、東方教会に属する彼らが西方教会地域であるトリノに滞在する事を、どうやって教皇に許可してもらうかに頭を悩ませる必要があった。

それなのに、トリノへ滞在する事が、西方教会のメリットに見えるように、アデライデは議論を誘導したのだ。


「お母さまの政治手腕に脱帽しましたよ、僕」


ジャン=ステラは椅子から立ち上がり、帽子を脱ぐまねをしつつ、おどけた感じでアデライデに一礼してみせた。


「上手に議論を誘導する苦労を分ってくれるジャン=ステラもなかなかの者だと思いますよ」

「「ふふふ」」


おぬしも悪よのぉ、といった風情でお互い笑いを交わした後、アデライデは切り出した。


「それでは、新・東方の三賢者に会いに行きましょうか」


2人は連れだってイシドロス達が待機している謁見の間へと向かうのであった。


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