奈落の王 タルタロス
高坂八尋
慈愛の具現たる魔性
男が濡れた石壁へ、角の取れた小石で一つ線を引く。これで何本目か、何回目か。もう数える事に意味を無くし、日付を知る必要も無くしていた。
それでも男は延々と石壁に傷を増やし続ける事を止めなかった。
止められなかった――。
ただ吐瀉物のような食事を与えられた時、男の時間は進むのだった。
それが男の一日だった。
おそらく男は日に数度という食事を与えられていない。空腹が痛みとなって男を苦しめるその感覚が、一日に一度にもならない食事ではないのかと、彼に苦痛で以って教えるのだ。
男は時が進むまで、苦痛に心を寄せ感じ続ける。ただの一つも取りこぼさないよう。見失ってしまわないように。
男に神はもう居られなかった。居られる事が無いのだと、あの日思い知った。
かつて男は、自分が勤勉で優しい、良き人間だと思っていた。父母に愛され、兄弟達と遊び、愛する妻と娘を授かった。
男は幸せだった。
自分以上に幸福な人間は居ないのではないかと思っていた。
そう、驕っていたのだ。
これは罰なのだろうか。
妻子の無惨な姿を見た時そう考えた。
当たり前だと思った事への神罰。しかし、時が経つに連れて神は居られないのだと知った。
……あの娘を犯したかった。
十にもならない娘に対して、捕らえられた男達はそうのたまったのだ。
男を憐れむ多くの声を聞いた。支えてくれようと手を差し伸べる人々が多く居た。
そして男は過ちを犯した。
復讐心に駆られた男と、義憤を焚き付けられた人々によって、妻子を殺めた罪人を私怨に任せ拉致し、最大限の苦痛で以って虐殺した。
全てが終わった時言いしれぬ満足感と、手を差し伸べてくれた人々との連帯感が生まれていた。
自分達はやりきった。これは大義であり、道は正されたのだと。
そうして、襲撃の後、町は沈黙した。男はそう感じた。
事件の犯人が拉致殺害されるに至って、親類縁者が無関係でいられるはずもなく、簡単に男は事情聴取され拘束されるまで、それ程時間を必要としなかった。
……あの男に騙されたのです。
男はもうこの言葉しか覚えていなかった。
明らかに嘘を付いていて支離滅裂。それなのに、男へ手を貸した者達は皆、そう言い募った。
そうした瞬間、男は目を醒ました。
神など居られない。
だから、己を罰するのは己のみ――。
奇跡を施され、人の犯した罪に罰を与えて下さる神が居られないのならば、誰が真実、罪を償えよう。
男と共に罪を犯した者達は、自らの罪に対する罰から逃れようと背を向け、本当の罪を犯した。
人が科す刑罰が恐ろしかったのか。虚偽で自らを救えると思ったというのだろうか。
男はそうして今日も痛みと苦しみに独り向き合う。
――ここは奈落の底だ。
人間が最期に墜ち行くところ。
どうか、妻子を殺め、罪に背を向けし者達をお救い下さい――。
了
奈落の王 タルタロス 高坂八尋 @KosakaYahiro
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