第36話「風呂」

 食後、しばらくの談笑をしてから凜は風呂に入った。

 前回来た時に買ったものなどは残していたので着るものがない、という問題は起こらなかったものの、残していることに対して凜が怪訝な視線を向けてきたのだけは少し不本意だった。

 俺が女性ものの服をどうやって処分していいのか分からなかったから置いていただけでそれで何かをしようとしていたわけではない。さらに今回に限っては俺が置いていたことで無駄な出費を抑えたのだから誉められこそすれ疑わしい視線を向けられるのは心外である。


 だが、よくよく考えてみると絶世の美少女を自分の家の風呂に二回も入れる日がこようとは思わなかった。なぜもっといい風呂にしておかなかったんだ、父さん!


 食器を洗ったり布団を敷いたりして彼女が出てくるのを待つ。流石に客人にこれらをさせるわけにはいかないし、一番風呂は譲るべきだろう。

 慣れた手つきで素早く終わらせたので暇になってぼんやりと天井を見ていた。


 そういえば、結局父さんは帰ってこなかったな。タイミングがいいところだけは取り柄のはずなのに。......いや、来ないからこそタイミングがいいのか?


「......もしも俺が凜のことを好きで好きでたまらなくなってしまったら、この関係はどうなるんだろ」


 ぼそっと、けれど確実に聞こえるような声で呟いた。声に出したからと言って何かが変わるわけではないが、外へ出たそれらが耳からまた戻ってくるように感じる。

 そうすることで頭の中が何となく整理されたような気分になる。


 今、誰かに凜についてどう思うのか、と質問された場合、俺は何と答えるだろうか。人並みに綺麗でかわいい人だと思います、と答えるのだろうか。

 感情を押し殺したように無難で差し障りのない言葉を述べるだろうか。


 いや、おそらくはそんな平凡な答えは言わないだろう。誰にもこの秘密を話さないなら、という条件で赤裸々に語ってしまうに違いない。

 本当はもう気付いているはずだ。

 凜が「お互いを好きになってはならない」と最初に決めたときに感じた絶望感や、先ほどの「なくそっか」に対する安堵。


「はぁ......。まったく、自分が嫌になる」


 これでは実と変わらないではないか。

 興味がないなどと言いつつ気づけば彼女に魅了されていた。目が離せなくなっていた。


「お風呂あがったよ~」


 さらに深く潜ろうとしたところで凜の声が聞こえた。俺はゆっくり浮上して何事もなかったような表情を作り上げた。

 ほかほかと身体を上気させながらタオルで髪を拭いている凜。

 いつもツーサイドアップに髪を結っているため、気づきにくいが凜の髪は案外長い。タオルに押し付けるようにして水気を取っている。


 俺がいつもするようにがーっとタオルを擦り付けるような真似はしないらしい。あれは自分でも髪を痛ませていると自覚できるので当たり前か。


「疲れは取れたか?」

「うん、癒されてきた。一番風呂ありがと」


 凜が動くといい匂いが俺の鼻腔をくすぐる。俺がいつも使っているシャンプーなのにいつもはしない匂いがする。これが凜の匂いなのだろうか。とってもいい匂い。

 ここで本当ならば俺が風呂の番なのだがどうしても気になってきたので俺は風呂場を通り越して洗面台に向かった。

 そこでドライヤーを持って戻る。


「タオルだと大変そうだから持ってきた。乾かすからここ座って」

「いいよいいよ、自分でするよ? 空くんは先にお風呂入ってすっきりしてきなよ」

「いいからいいから」


 気になってしまったので自分でしないと落ち着かない。俺はソファに座り、凜をそのすぐ下に座るように促した。はじめは遠慮していた凜も次第に俺が引かないことが分かったらしく仕方ないな、と苦笑しながら俺に背を向けて座った。


「空くんできるの?」

「たぶん。凜の綺麗な髪を傷めずに乾かせればいいんだろ?」


 俺の遠い記憶ではあるが、母さんも長い髪を一生懸命に乾かしていたように思う。その時に手伝いをしたりときには自分が乾かしてあげたりしたものだ。

 あの時の感覚が残っていれば割と簡単にできると思うのだが。


 ドライヤーと櫛を持って髪を梳いていく。


「誰かにしてもらうのって久しぶりだから何か変な感じ」

「かゆいところとか、痛いところとかないか?」

「気持ちいい。空くんもしかして手慣れてる? やっぱり私の知らないところで彼女とかいるんじゃない?」

「彼女いたら凜を家に上げることはないだろうなぁ」

「いいじゃん、その時は友達として紹介してよ」

「え~、友達だって紹介した子がめちゃめちゃな美少女だったらその彼女たぶん出ていくぞ」


 その彼女がいったい誰なのかは俺でさえ知らないが。


「毎日どれぐらい時間かけているんだ?」

「ん~大体一時間ぐらい? でもテレビ見ながら、とか携帯見ながらとかだから時間がかかるんだよね」

「じゃあ俺の家に来る時ぐらいはその一時間をゆったりと使ってくれ」

「お言葉に甘えて、遠慮なく」


 ふわぁ、と大きな欠伸をしたかと思うと俺の膝に体重を預けてきた。

 俺が意図したのはそういう意味ではなかったのだが、まぁ凜がそう思ったのならそれでもいいか。

 俺が終わった、と達成感に浸っていた時、彼女は気持ちよかったのか爆睡してしまっており起こすかそのまま寝かすかで迷ったり、起こすと決めたものの、どうやって起こせばいいのかで四苦八苦したり、そもそも俺まだ風呂入ってないじゃん、と慌てたり、そしてその慌てたおかげで凜を起こすことができたりといろいろあったのだがそれはまた別の機会に。

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