第36話 妻と夫

 ナナリーの容態が急変して一命を取り留めた時、ライナーの「医者を呼べ‼」という声が響いた。


その時、屋敷内には緊張が走った。


ライナーがあのような大声で医者を呼ぼうとする理由は限られているからだ。


ついにその日が来てしまったのか? 屋敷全体が動揺と不安に包まれた。


ライナーの声を聞いた執事のガルンがいち早く反応する。


「すぐに、掛かりつけの医者に使者を送れ‼ 馬車を用意しろ‼ 私はライナー様に状況を確認しにいく。他の者は通常通りに業務にかかりなさい」


ガルンは周囲のメイド達に指示を出すとすぐにライナーがいる、ナナリーの部屋に向かった。


部屋に向かう途中にライナーが目の前からやってきた。


彼の顔はいつも通りの強面で、平常心を装っている。


だが、その目に浮かぶ涙だけは隠せていなかった。


急いで、ガルンは冷静かつ慎重に言葉を選んだ。


「……ライナー様、使者を医者の所に送りました。急ぎで来るよう、申し付けております」


ライナーは自身の目を右手で覆い隠すと少し俯き「わかった……すまんが水をくれ」とだけ呟いた。


押し殺してはいるが、少し嗚咽も混ざっているようだった。


「かしこまりました。すぐお持ちします。……ライナー様、差支えなければ奥様は?」


「妻は無事だ」


ライナーはまだ目を掌で覆い隠しているままだ。


ガルンはライナーに言葉では返事をせず、頭を下げ一礼だけしてその場を後にした。


ガルンが水を取りにいくと、ライナーは背中を壁によりかけ、「よかった……本当によかった」と呟きながら一人静かに涙を流していた。


水をガルンが取ってくると、ライナーは普段通りの厳格な様子に戻っていた。


ライナーは水をグイっと呷るとガルンに「医者が来たらすぐに知らせるように」と伝え、ナナリーの部屋に戻っていった。


部屋に戻り、少しすると医者がやってきた。


ナナリーは先ほどの発作の疲れで少しぐったりしているが、命に別状はない。


医者も診察する限り特に問題はないということで「急な発作」ということで落ち着いた。


ライナーはその場にいた、リッド、サンドラ、ナナリーに対して今日この部屋であったことは秘密にするようにと言い渡した。


そして、今後のナナリーの治療方法について協議した結果、常に薬を飲めるように魔力回復薬の錠剤を常備。


サンドラによる魔力測定を使い、魔力数値の経過観察をすることになった。


再度発作が起きた際に、一人では今回のように薬を飲めない可能性もあるので、必ずメイドを部屋に常駐させるようにした。


メイドが部屋に常駐することはナナリーが少し嫌な顔をしたが、ライナーは絶対に譲らなかった。


基本的なことを決めると、リッドとサンドラはナナリーの部屋を後にした。


部屋にはナナリーとライナーだけとなった。


ナナリーはベッドの上に、上半身だけ起こしており、ライナーはベッドの横に立っていた。


部屋に二人だけとなり、なんとなく気恥ずかしい雰囲気が流れた。


彼らがこうして、二人だけで部屋にいるのは久しぶりだった。


お互いを意識して緊張している様子はまるで初心な男女のように見える。


そんな中、ナナリーが「コホン」と咳払いをした。


「あなた、そこにお座りになったら?」


「あ、ああ……」


ナナリーに指定された場所はベッド横にある椅子で、普段はリッドが部屋に来た時に座っている椅子だ。


促されるままにライナーはその椅子に腰を掛ける。


「……少し小さいな」


「ふふ、それは普段リッドやメルが座っていますからね。あなたには少し小さいでしょう」


ぎこちない様子のライナーにナナリーは微笑んでいた。


それからしばらく二人は他愛もない話をしばらく続けた。


まるで今までの時間を取り戻すように。


話をしていく中で、ライナーの雰囲気が少し変わる。


そして、ナナリーに頭を下げて、言葉を紡いだ。


「君、一人に辛い思いさせて申し訳なかった。私は君が一番辛い時に寄り添うことができていなかった。いや、君が私のそばからいなくなる現実を受け入れきれず、逃げていた。リッドの言う通りだった。本当に申し訳ない」


ナナリーは頭を下げる夫の様子に目を丸くして驚いた。


夫の頭を下げる姿を見たのは初めてだった。


でも、自分を思ってしてくれているのだと思ったその姿も愛おしく感じられた。


ナナリーは自分に向かって下げられた頭を両手で胸に抱きかかえるように優しく抱擁する。


そして、手でポンポンと後頭部を優しく叩いた。


その様子はまるで、子供を慰める母親のような姿であった。


ライナーは抱擁を嫌がらず、むしろとても安堵して安心しているようだった。


「私も……私も早くあなたに弱音を吐いて頼るべきでした……」


ナナリーはそう呟くと涙と嗚咽が止まらなくなった。


その様子に、頭を上げたライナーが今度はナナリーを胸に抱きかかえるように優しく抱擁した。


ナナリーは夫の胸の中でしばらくの間、涙と嗚咽が止まらなかった。


ライナーは妻が思った以上に体が細く、壊れやすいと感じ、何故もっと早くそばに寄り添わなかったのかと後悔した。


そして、二度と後悔をするようなことは妻にしないと誓った。


ナナリーの涙と嗚咽が収まると、二人は何故か急に恥ずかしさがこみ上げお互いに顔を赤くする。


その顔をお互いに見合うと、恥ずかしさが可笑しさに変わり二人で「クスクス」と笑った。


その時、ナナリーは魔力回復薬の錠剤が目についた。


そして、手に取ると感慨深いように言った。


「それにしても、この薬は素晴らしいですね。実は私、あの時にもう駄目だと思ったのです」


あの時、発作が起きた時の感覚は恐ろしかった。


今まであった「水滴」の感覚がなくなったと思うと同時に、今度は逆にその「水滴」が溜まっていた場所に体中の「別の何か」が吸い込まれていく。


「水滴」の代わりを求めるようだった。


吸い込まれる感覚が襲ってきた瞬間、「これはダメだ」と直感した、その時にライナーが飲ませてくれた「何か」が「水滴」のあった場所に入って来た。


すると、そこに吸い込まれる感覚がすぐに消えた。


その時に、自分は助かったと理解した。


「そうか。この薬はサンドラが作ったが、実は原料はリッドが見つけてきたのだ」


「え? まだ6歳のあの子にはそんな知識があったのですか?」


ナナリーはリッドが前世の記憶を持っていることは知らない。


ライナーもいつかは言うべきかもしれないが、今ではないと判断してごまかした。


「うむ、なんでも書斎にあった本に、特別な薬草の伝承みたいなものを見つけて、それを探すように商会にお願いしていたらしい。君を救うためになんでもするつもりだったのだろう」


「まぁ……私は、幸せ者ですね。夫と子供にそんなに思ってもらえるなんて」


ナナリーはそういうと再度、涙を流した。


「サンドラの説明にもあったが、魔力回復薬とは別に魔力枯渇症を治すための薬草も探している。それさえ、見つかれば今度こそ本当に君を救える。だから、これからは一緒に頑張ろう」


ライナーは優しく力強く妻に伝えた。


寄り添い一緒に乗り越えようと。


その言葉に妻は微笑んだ。


「ふふふ、そうですね。一緒に頑張っていきましょう」


二人は手を握り合い、顔を近づけ優しく甘い接吻をした。


その姿は誰が見ても仲の良い幸せそうな夫婦だった。


二人はそれからしばらく雑談をしながら部屋でのんびりと過ごしてた。


「今後、私は薬を飲んで、体調管理もしっかりしていかないといけませんね」


「ん? 急にどうしたのだ?」


ナナリーは今までと違い声に張りがあり力強い。


とても明るく活発な雰囲気が出ている。


恐らく、この雰囲気が本来の彼女なのだろう。


そんな、彼女の言葉にライナーは不思議そうな顔をしている。


「だって、あの薬のおかげで助かったのは事実で嬉しいのですが…… あの後、意識が戻ると口の中が大変だったのですよ‼」


「ああ……」


これについては、ライナーも同意した。


もっとも、大変になった原因は錠剤をかみ砕いて、口移しをしたせいだ。


ライナーは常用する薬を錠剤にしたサンドラの判断に頭が下がる思いだった。


部屋から出た時も口直しがしたくてガルンにまず「水」を頼んだほどだ。


「それに……状況的にしょうがないとはわかっております。それでも、リッドやサンドラの前であのような姿を見せてしまったのは……」


話す彼女の顔はどんどん赤くなっていった。


「あ、決して口移しが嫌だったわけではないのですよ? 命には代えられませんから。でも、それでもやっぱり……」


恥じらう彼女はとても可愛く、愛おしい。


「ふふふ、そうだな。私は薬の味を差し引いても、いつしてもよい。が、それでは辺境伯の業務に差支えが出てしまうな」


「……⁉ あなた、からかわないで下さい‼」


ナナリーの顔は夫の言葉でさらに赤くなった。


その様子は夫婦である時にしか見せないお互いの素の姿だった。


それから、やりとりをしばらくする二人は終始、笑顔で微笑んでいた。

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