宣誓
僅かに吹く冷風に頬を首を撫でられ、過去を思い出していた頭を現実に引き戻される。
「……大丈夫? そんなに驚いた?」
満面の笑みを貼り付けながらこちらを心配する
まだ思考の追いつけてない俺は、そんな彼女に向かって曖昧に頷くことしか出来なかった。
「ということで、やーっと思い出してもらえたよ! 覚えていてくれて嬉しい、本当に嬉しいなぁ!」
彼女は目のハートをより強く煌めかせながら立ち上がり、我慢することなく歓喜を露わにする。
「あの日のことは今でも覚えてる! もう死のうと思っていたあの日の私のことを! もうどこかの窓から飛び降りてやろうと考えていたときにココアをくれた君のことを!」
バケツに溜め込んだ水を一気に流すかのように。お湯を貯めた風呂の栓を抜いたかのように。
全てを聞き取ることなど出来やしない。ただそれでも、彼女がこれほどまでに俺に思いを抱いていたのだと、それだけは理解しなければならなかった。
「君の一言で視界が一気に開けたんだ。辛いなら逃げだしてもいいって君が言ってくれたから、私は今も生きているんだよ」
そんなことでと、思わずそう言ってしまいそうになる口をつぐむため、唇を噛む。
俺にとっては忘れてしまう程度でしかない言葉。けれど彼女にとって、それは違うものだったのだろう。
俺はいじめにあったことがないしカウンセラーでもない。だから何を言われれば救いになるのか、何を言えばより追い込むことになるのかすら知り得ない。
──けれど、結果として彼女は救われた。とどのつまり、これはそれだけの話なのだ。
「……だから、だから恋をしたってのか?」
「──恋じゃない。愛だよ、私の生きる意味に君が加わったんだよ!」
そんな程度の規模で語るなと、恋なんていう淡く甘い一時でまとめるなと、そう言わんばかりに。
「学校にいくのを止めていろんなことをしたなぁ。同じ高校に入るための勉強もそうだけど、君に綺麗だと言ってもらえるような容姿とか料理とか! とにかくいろいろね!」
……どうして俺の受ける予定の高校を知っていたとか、俺の好みの容姿になれたのかは置いておくとして。
きっと彼女の積んだ努力は、血の滲むほどに辛く長い道のりだったのだろうと俺には思う。
好きな人のためとはいえ、出来ないことを出来るようにするための努力なんて、誰にでも出来ることではない。
俺はしたことがないし出来るとも思えない。だからこそ、いかなる背景だろうとそれを成し遂げた少女に俺は敬意を持つ。
「ね? これでどう? 私が君を好きだってことをわかってもらえたかな?」
全てを言い終えた彼女は、にへらと顔を崩してこちらを見てくる。
ただ一度の偶然に救われた少女。それを糧に自らを美しく作り替えた、誰よりも強い少女。
──だからこそ、俺は君に言わなくてはならないことがある。
「……なあ
一つ頷いておけば、それだけで超級の彼女が出来る最高の状況。
それでも俺は、自分の首を縦に振ることなど出来ない。──
「そんだけ好いてもらえるのは嬉しい。今は断れてるけど、何かの拍子にころっと頷いちまいそうだよ」
「──じゃあなんで? どうしてなの?」
「……俺は君をよく知らない。会ったばかりの他人に、そこまでの好意は抱けないよ」
例え嫌われたとしても、こんな美少女との出会いは二度とないとわかっていても。
俺ははっきりと彼女に言わなくてはならない。それがここまで慕ってくれた
──だからぶちまけろ。追うべきでない理想など、とっとと壊して覚ますべきだ。
「君が助かったのだって結果的な偶然ってだけ、君はその偶然に囚われているだけだ」
「それに、俺は君がいじめられているのを見て逃げ出した人間だ。君は知らないだろうが、助けなくちゃいけない人を見捨てておいて、誰にも聞こえないところで後悔に酔っていただけの最低な奴なんだ。だから──」
だから君には相応しくない人間だ、そう言い切ろうとした瞬間。
何かが紡ごうとした口を塞ぎ、口内に入る何かに続けるべき言葉を遮ぎられる。
昨日とは違い、頬ではなく唇から伝わる艶めかしい暖かみ。
柔らかく、そして甘い。今まで感じた事のない未知の感触が脳を侵してくる。
それがキスだと気付いたのは、口を塞いでいた彼女の唇が離れた後。一本の糸を垂らしながら、彼女の顔の全体が再度見えるようになってからだった。
「──な、何を」
「駄目だよ」
「……はっ?」
「それ以上は駄目。私の好きな
ハートを浮かべた翡翠の瞳を揺らしながら、
それは遠くの昔に見たことのある、いじけていた俺を慰める母の瞳と同じもの。──慈愛に満ちた愛の瞳で、彼女は俺を見つめていた。
「あの日貰ったココアはどんな物より暖かかった。あの君がくれた言葉は、どんな綺麗事よりも私に色を付けてくれた」
「だから君がどんなに最低な人間だったとしても、私が君を好きなのは変わらないよ」
思わず目を背けたくなるくらい真っ直ぐに、彼女は俺へ視線を送ってくる。
彼女の心はまるで巨大な柱。俺の放つ言葉の矢では罅すら入れられない、到底理解できない頑強な芯のようだと、そう思ってしまった。
「だから誓うね。私は絶対に君を惚れさせてみせる。
腰に手を当て指を立てながら、
誰もいない公園に響き渡るように大きな声での愛の決意。誰に聞こえても構わない、目の前の好きな男に耳を塞がれても届かせると、それくらいの勢いで。
夕焼けを背に言ってのける黒髪の少女。
──それは今まで見たどんなものより美しいものだと。俺の瞳に映る彼女の全ては、記憶と心にどうしようもないほど強く刻まれてしまった。
「明日からは手を抜かないから! 是非楽しみにしてほしいな! ……じゃあね!」
「──あっ」
俺の言葉を待たずして、
追いかけるべきなのか。何か言葉を掛けるべきではないのか。
勇気を見せた彼女と違って、そんな程度のことを」悩んでいる合間に、すっかり彼女は見えなくなってしまう。
「……赤いな」
彼女が去った後も、俺は堕ちていく夕焼けを見つめるのみ。
この夕日が堕ちても心の整理は付かないだろうと、そんなくだらないことしか考えられなかった。
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